きょう私、逮捕されるんでしょうか。
いい知らせも悪い知らせも、いつも不意に訪れる。そしてそれはいつも私を驚かせる。物ごとは誰も気付かない間に水面下で静かに進んでいく。
私はその夜ハリモト君のマンションに居た。
彼がキッチンでワインの付け合わせのチーズを切っている間、私は部屋の中を見回しながら、ずっと昔、あの頃によくふたりで過ごした部屋を思い出していた。料理をしたことのない小さなキッチンのシンクは白くくもっていて、窓際に歯ブラシとコップがあって、青いタオルがぶら下がっていた。小さな冷蔵庫の中はウォッカと栄養ドリンクとミイラ化した野菜の切れ端だけ、奥の部屋のベッドの脇には学生時代から使っていたアームの長いライトが部屋の中を照らしていた。レコードはいつも吉田拓郎で、彼はいつも少し先の将来を熱く語っていた。
あと数か月で、彼はまたモスクワへ戻るのだ。私はそのことが心に重くのしかかっていた。彼の低くて伸びのいい声、しなやかな指、腕の力、会話の途中の長い沈黙、それらはすべて私だけが知っているハリモト君で、たとえ彼に今はじめて出会ったのだとしても、私はそれをすぐに見つけ、魅入られて、好きになっただろう。私たちがいつの間にか遠くすれ違ってしまったこと、彼が私ではなくてオレンジ色のコートひとを心に決めたことの、その理由の一端でも知ることができればと思い、私は彼に何度も湾曲した言葉を投げかけてみたけれどそれは無駄だった。彼は核心に触れるようなことは注意深く避けていたし、私ももうあの頃の自分自身の心の中の計算式なんか思い出すこともできなかった。
「ふたりで銭湯に行ったことは覚えている?」
「ああ、今もあるのかな?」
「あるわよ。数年前に、懐かしくてひとりで行ってみたことがある。今流行の“スーパー銭湯”になっていたけれどね」
「そうそう、私たちが卒業した中学校の中庭にある銅製の彫刻オブジェ、まだちゃんとあの場所にあったわよ」
そのオブジェは、当時全校生徒からネーミングを公募してハリモト君が考えたものが選ばれたのだ。私がその雑巾を絞ったような形をしたオブジェの名前を言うと彼が笑って、そして私も笑った。私たちはそれから少し眠った。まるでずっとそうしてきたように、手をつなぎ、体温を感じ合った。
携帯電話の呼び出し音で意識を引き戻されたのは明け方近くだった。私は夢の中で舞台の袖で出番を待っていた。ステージに降り注ぐスポットライトの光は、カーテンの隙間から力強く漏れる朝の光だったのかもしれない。開幕ベルの音に背筋を伸ばした時、ハリモト君の低い声が聞こえた。
「アサちゃん、動きがあった」
私はベッドからからだを起こしてカーディガンを体に巻き付けた。
「今、支局から連絡があった。東北の地方紙の明日の朝刊に“ササキエイイチ、きょう逮捕へ”という大見出しで記事が出るそうだ」
私はスリップと靴下とスカートを探すためにベッドの周りを見回した。
「これからササキの事務所に行く。先に若い記者が行っているから、事態が把握できたら一度戻ってくるよ。自分でコーヒーは淹れられるな。食パンがテーブルの上にある」。
ハリモト君が出て行ったあと、私はコーヒーを淹れ、食パンをトーストしてマーガリンを塗り、窓際の椅子に座って空から降る雪を眺めながらゆっくりとそれを食べた。
事態は大きく動き始めた。サトウユカリも明日逮捕されるのだろうか。私はもう一度コーヒーを淹れて、彼の本棚から数冊の文庫本を取り出して拾い読みしながら時間を過ごした。もしも私たちがいっしょに暮らしていたら、仕事に出かけた彼を待つ時間はこんなふうだろうか。私はきっと、夕食の献立や、彼の健康のことや、季節の移り変わりのことだけを考えて日々を過ごしていればいいだろう。
彼が戻ってきたのは冬の陽が少し翳り、西の空が明るくなってきた時刻だった。
「明日の逮捕は間違いないよ。僕はこれからササキの事務所の内部に入って、逮捕の瞬間までカメラをまわす。捜査員が令状を持ってやってくるのを事務所の内側からのアングルで撮ることになる」
「本人も、最初からずっと自分にカメラを向けてきたハリモト君にそばに居てほしいのでしょう」
「ああ、不安なんだろう。いつにも増して饒舌だよ。この期に及んでまだ自分は横領の意識はないと豪語してみたり、子どもことを気にかけて涙を流したりしている」
子どもというのは本妻との間に設けた男児とサトウユカリとの間にいるあの女の子のことだという。
「アサちゃんも事務所前まで行ってみるか。周辺はマスコミ各社が取り囲んでごった返しているからその中に紛れ込めばいい」
私は返事をする変わりにバックを持って立ち上がった。一年以上にもわたって私を悩ませてきたこの問題の元凶をこの目で見ておく必要があると思ったのだ。
ササキの事務所に到着した時、陰りはじめていた日は落ち、もうすっかり青い闇の世界へと変容していた。
住宅街にあるその事務所は異様な光を放っていた。周辺の住宅のすべてはカーテンを固く閉じ、室内の灯りさえ漏れていなかった。その中でササキの事務所棟だけはすべての窓にあかりが灯り、周辺を取り囲むように乱雑に停車したマスコミの車両のライトが、舞台に登場する怪人を待ち受けるように、闇に浮かぶ事務所棟を四方から照らしていた。
怪人が登場したのはその時だった。彼の姿を認めた時、私は車の中に居たのに思わずこちらの姿を観られまいとして顔をそらした。その男は白い息を吐いていた。記者たちがいっせいに彼に駆け寄ると、夜になって急激に気温が下がって冷えて固くなった雪を踏みしめるキュッキュッという音が響き渡った。肩にカメラを載せた記者やマイクを向ける記者ににこやかに応対するササキのようすは、まるで映画スターが主演男優賞を受けてその記者会見に応じているかのようだった。私はテレビ画面でしか見たことのないササキを暗がりの車内から凝視した。180センチの長身に歯並びのきれいな笑顔、私は決して映画の撮影シーンを観ているのではないのだということを確認しなければならないほどだった。
「昨日未明、ヨシダ町が告訴状を提出して県警は即日受理、そして翌日逮捕という流れになった。容疑は業務上横領。全国から集まった善意の寄付金や公金を私的に流用し、あのマンションを購入した疑いだ。今後いくつもの容疑で追起訴されていくだろう」
河口に水が流れて集まるように、きょうのこの日を願う人々がそれぞれの立場でミッションを遂行していたのだ。
「アサちゃん、僕はこれからササキの事務所に入って朝までカメラをまわすよ。これが最後の弁明だ」
「わかった。それじゃあね」
私たちは長い握手をして別れた。




