好きって気持ちは脳の信号?
風が吹いてきた。
通りを行く人が帽子を押さえ、襟を立てる。白いビニール袋が舞い上がって視界から消えた。
私も、いくつかのキーワードを並べるだけで、忘れたふりをしていた過去の出来事を容易に思い出すことができる。だけどそれはきっと誰にも暴かれることはない。だからまたすぐに私だけの心に閉じるのだ。
「ハリモト君に会ったことは言ったわよね」
「まさかこちらに単身赴任で来ているとはね。元気だったの?」
「うん」
私は彼と会い、そしてまたすぐに別れなければならないことをまだうまくのみこめていなかった。ユミコに聞いてほしかった。だけどまずはハリモト君からもたらされたササキについての情報を優先することにした。私はもう十四歳の中学生ではないのだ。放課後にユミコを捕まえて気が済むまで好きな人のことを話し続けたあの頃とは違うということを自分の心に言い聞かせた。
「ササキは二十歳の時に親子ほども年の離れた女性と結婚している。その女性は市内にいくつもの保育園や幼稚園を経営していて、五年後に彼女が病死したのちはその財産や権利をすべて受け継ぎ、一時は特養老人ホームやデイサービス施設の経営にまで手を広げていたそうよ。そして八年前には今の「チャイルドネットワーク」の名前でnpo法人を立ち上げ、その直後に今の二番目の妻と結婚している。彼女は前妻の保育園で保母をしていたということよ」
それから私はサチコと両親を見送ったこと、サトウユカリが勤めていたスナックに行ってきたことなどを順番に話した。
「この業務上横領事件の裏には報道されることのないいろいろな事実があるのね」
そうね、というように私はうなずいた。ほんの数行で伝えられる新聞の片隅の三面記事にも、誰にも知られることのないサイドストーリーがあるのだ。
「まだあるわよ、私ね、やっぱりハリモト君のことが好きなの。しかも、本当はずっと好きだったんだってことが判明した。二十五年ぶりに再会したとたん、まるで魔法にかかったみたいにお互いがあっという間にあの頃の気持ちにもどってしまった。好きなの、私、やっぱり彼のことが」
そう言い終わるか終らないかのうちに、ユミコがちょっとした叫びにも似たトーンで言葉をかぶせてきた。いつもより2オクターブほど高い音声が胸にしみる。
「そんなふうになるもの?」
強い疑問だ。驚くのも無理はない。私だって逆の立場だったらきっとそう思う。
「そんなの脳の信号よ」
「そうかもね」
「脳の信号だから、すぐ治るって」
「治るの?」
「治る」
「彼はまたモスクワに戻るって」
「すぐに忘れるわ」
「悲しいの」
「大丈夫。四月頃には治るわ」
私は少し考える。あの時、ハリモト君と別れることになってしまったのは私が計算を間違えたからだ。きっとそうだ。ずっと一緒に居られる方法だってあったのだ。むしろその方が簡単だったのに、と私は思う。
「前からずっとわからないでいることがあるのだけれど」
と私は前置きしてからユミコに問いかけた。
「私はどうしていつも、一番欲しいものが明確なのにいつも二番目のものにしてしまうのかな?」
「ストレートに一番のものを選んで失敗した時に自分への言い訳がたたないからじゃないの?」
そうか、と私は思う。
「よくよく考えてみたらきょうもここへ来た時、本当はコーヒーではなくてカフェモカが飲みたかったのよ。なのに口が”コーヒー“って言っちゃったの」
店のガラス扉を通して街が翳りはじめたことに気が付いた。風がやみ夕闇に包まれて、灯りがともりまた夜が始まる。
「それじゃぁ二杯めはカフェモカにしようか?」
「そうもしていられないのよ」
私はユミコに手を振りヒガシオさんの事務所に向かった。




