さよならは一度だけ
次の日の夜、私とハリモト君は歩道橋の近くにある小さな居酒屋に居た。
街の中心部からさほど離れていないにもかかわらず、このあたりは人通りが少なく店らしい店はほとんどなかった。歩道橋を降りたところで通りの奥をのぞくとぼおっと赤提灯が灯っているから、暗い夜道をその灯りを目指して歩く。最後にふたりでここへ来てから二十五年もたったけれど、その店はまだそこにあった。破れかけた障子の窓に、墨で「酒」と大きく殴り書きされているのもそのままだった。障子紙の破れ具合や劣化の程度は、もしかしたらあの頃から一度もメンテナンスをしていないのではないかと思うほどだった。
「実はね、この街に来てから何度かひとりでここに来たんだよ」
そう言う彼の言葉に私は嬉しくて、ただうんうんとうなずいた。
「あれからサチコのお父さんから電話があって、その日のうちにフェリーに乗って北海道を離れたそうだ。お父さんを通じて、サチコから少し情報が得られたよ」
私は身を乗り出した。
「自殺したアサダミキは、知らないうちに犯罪に加担させられて、そのことで悩んでいるうちにうつ状態になって発作的に飛び降りたらしい。彼女はササキの愛人でもあったわけだが、サトウユカリも古くからの愛人だということは自殺する数日前に知ったらしい。そのことが引き金になったらしいよ」
「ササキの本妻は?」
「そこが理解の範ちゅうを超えるところで、そういうことはすべて承知していたらしいよ」
私はそのことを深く考えるのを放棄して首を振った。
「上階にはどれほどの備品があるの?」
「彼女たち四人の生活スペースはリビングのほんのわずかな空間で、あとはどの部屋にも天井まで荷物が詰め込まれていたそうだ。たとえば子どもの滑り台などの遊具、電子レンジなどの電化製品、保存食品、靴やランドセル、ボートのエンジンまで。すべてが被災地のために全国から寄付された義援金や公金で購入されたものばかりだ。物品はほかにもササキが住む住宅にもあって本妻が管理していたらしい」
キミコたちが深夜、家電製品を梱包したり手が滑って床に落としたりする姿を想像した。
「あれから役場の関係者や町民にも新たな話しが聞けたし、ササキにも取材を申し込んだら弁護士とともにやってきてカメラに向かってしゃべってくれたよ。例によって饒舌にね」
そう言って彼は、次に放送する番組の一場面を頭の中で構成しているのか満足そうに笑った。
「ねぇ、ハリモト君、あのご主人、二十五年前もいた人よね?」
私はカウンターの中でさんまの刺身をひいている老年の男性の方を向きながらそう聞いてみた。
「ああ」
彼はすかさずそう言って目を細めた。あの男性は私たちのことを覚えているだろうか。あの時、奥さんに逃げられたなんて冗談めかして言っていたけれど、隣りで大根の面取りをしている女性は戻ってきた奥さんだろうか、それともその後に出会ったひとだろうか。私たちは店内に流れるどこかの地方の民謡にからだをゆだねながら、失ってしまった時の断片を拾い集めていた。
私たちはハリモト君のマンションの部屋に居た。こうなることはわかりきっていた。あらかじめ決まっていたことだし、すべてがそういう前提だった。ただ、私にとって全く予想外だったのは、こうして二人だけで過ごす時に期限が設けられていることだった。
「会いたかった」
私は二十五年分の思いを込めて何度もそう繰り返して言った。
「会いたかった」
私の頬で感じる彼の肩の感触はあの頃と少しも変わっていないように思えた。温かくて少し冷たい。優しいけれど嘘。すべてを知ることのできない空虚な余韻。警告の鐘。
「アサちゃん、僕はまたこの街に戻ってきて、ずっと君のことを探していたよ」
彼は私の肩を抱いた腕に力を込めながらそう言った。
「私からは連絡できなかったのよ」
そんなことができるくらいの私だったなら、あの頃だってあんなふうにことごとくすれ違うこともなかったはずだ。
「君に会いたくてあの歩道橋に何度も行ったよ。それから大通りにあるデパートの屋上や、S町のスパゲッティ専門店や、それから…。君がまだこの街に居るのかどうかさえわからなかったけれどね」
彼も、少しでも私と同じ痛みを共有していたのだと思うと、今、こうして胸の鼓動を感じるほどの距離にいる彼をもっと近くに感じた。
「アサちゃんから電話をもらった前の週にね、二十丁目のスーパーマーケットで君にそっくりな女性を見たよ。声をかけようかと思った」
その店なら私も時々行く。彼は本当に今にも話しかけそうなそぶりをまねてそう説明した。
「それで、そのひとは私じゃなかったの?」
「長くてカールした髪の毛や横顔や脚の形なんかは本当に君によく似ていたんだけれど、だけどどう見てもその人は二十代なんだよ。僕は二十代までのアサちゃんしか知らないからね」
それから私たちは少し笑った。私たちは十代で出会っているから、いくら白髪が増えても、しわが刻まれても、その目の奥を見れば、あの頃のすがすがしい笑顔をみつけることができる。
「でも、やっと会えたのに、また会えなくなるのね」
私はさっき大通りの店で、彼から突然聞かされたことを持ち出した。
「ああ。三月にはまたモスクワに戻る。当初から二年だけという約束でここに来たんだがササキの問題を追い始めてまだ途中だということと、アサちゃんに再会したことで、もう少しここに居させてくれって頼んだんだけれど、今朝、正式に辞令が出たんだ」
彼はオレンジ色のコートのひとの待つ場所へ帰るのだ。二十五年前に、あの歩道橋で告げられたことを、またもう一度繰り返されている。
「やっと会えたのに。それじゃあ、どうしてこうして再会したのかしら」
もし運命というものがあってそれが私たちを出会わせたのなら、どういう意味があるのだろうと思った。
「今会えなかったら、たぶん一生会えなかったと思うよ」
「そうね」
本当に、きっとそうだ。
「私、どうしてハリモト君に電話したんだろう」
サトウユカリの罪を公にするために、ニュートリノさんに情報を送り、そしてエキスプレス社の記者がくわしく取材していると知らされる、そして、ハリモト君に連絡する十分な言い訳を得て電話をすることになった。
「会いたかったからだろう?」
ハリモト君に突然答えを言われて、そこで私はまわりくどい言い訳を考えることをやめた。
「そう。会いたかったら」
マンションのこの部屋は、学生時代の彼の部屋を思い起こさせた。何も飾られていない白い壁が殺風景で、私が訪ねるといつも机の上には参考書とノートとシャープペンシルが一列に並べて置かれていた。デジタル時計付のラジオからは低い音量で音楽が流れ、べランダの白いレエスのカーテンが風に揺れていた。はじめてお互いの肌に触れた時は、反射式のストーブが赤く燃えて部屋の中を温かく照らしていた。私は今でも、あの日の冬の匂いと、窓から見上げた夜の星たちが光りさざめく音を思い出すことができる。この部屋には、少なくともオレンジ色のコートのあのひとの気配は感じられなかった。私は目を閉じて、彼がモスクワに行ってしまうことのダメージを受け止めようと努力してみた。
「ハリモト君のことはずっと好きよ。ハリモト君は?」
「ずっと好きだよ」
「もう、これからはずっと好きよ」
本当にそう思った。
それから私たちはワインを飲み、いくつかの果てない約束をして別れた。




