雨に匿われて
翌日になっても雨はやまなかった。
それは午後をまわっても宿命のように降り続いた。だけど南の空は明るく、雨粒のひとつひとつは虹色に輝き、昨日とは違う匂いを含んでいた。私は雨の日を感じるために部屋を出て、車で十分ほど離れた高台にある美術館に向かった。雨に濡れて佇む美術館のレンガの壁はブランデーの染みた角砂糖のようだ。私は扉を開けて中に入り、ロビーにある大きすぎる椅子に腰かけてガラスの壁を伝う雨粒を見ていた。美術館を取り巻く小さな森の樹木は青く濡れて輝き、まるでここだけ世界から切り離された空間のようだ。やがて私の心の中にも雨が染み渡る。ひたひたと、しんと、静かに。
それから私は同じ敷地にある図書館に向かう。雨の匂いを含んだ本の匂いが恋しくなる。書庫の片隅には、知らない誰かの伝記が長い眠りについている。もう誰もページを開くことはない。忘れられてしまったのだ。でもこの人たちは確かにこの世に存在していた。私もいつかそう遠くない先にこの世から離れて長い眠りにつく。そしてこの本の中のひとたちのように、誰にも思い出されることもなくなる。サトウユカリも同じだ。それはあらかじめ決められていることだ。
書庫の片隅で雨音を聴いていたらバッグの中の携帯電話が振動した。きっとハリモト君だと思った。三十年ほど前、まだ携帯電話での通話もメールもなかった頃、お互いの家の電話で連絡を取り合っていて、彼は私からの電話をベルの音で聞き分けることができると言った。そして受話器を取ると、声を発する直前の息の吸い方で確信できると言った。この振動の仕方はきっとハリモト君だろう。このタイミングや温度、属性。私のこれまでの統計学的な根拠だ。ハリモト君のことは、私はまだちゃんと覚えている。もしかするとオレンジ色のコートのひとよりも。私は携帯電話をバッグの中で押さえながら図書館の外に出た。
「アサちゃんか?」
ハリモト君の声は弾んでいた。
「ええ、お疲れさま。出張から戻ったの?」
「いや。君は今どこにいる?サチコがきょうこれからあのマンションを出るそうだ。今お父さんから連絡があった。サトウユカリが不在中に決行する。その前に君に礼を言いたと言っている」
サチコがサトウユカリたちと決別するということか。いつから、どんなふうに心が動いていったのだろう。私が一度だけエレベーターホールで彼女に声をかけた時はもう、あの女の呪縛から解かれはじめていたのだろうか。
「お父さんは今、君のマンションの周辺にいるよ。サチコが出てくるのを待っている。君の部屋番号のインターホンを押したそうだが留守だったと言ってきた。できることなら最後に挨拶だけしていきたかったそうだ。きょうのことを事前に君に連絡するのもためらったらしいが、いざこうなると最後に会っておきたいと思ったのだろう」
「私、今戻るわ」
あの親子にはこの先もう二度と会うことはないだろう。私は急いで図書館を出た。
雨は降り続いていた。細かい霧のような雨粒が街全体を覆っていた。私はマンションの駐車場に入ってから車の中でサチコの父親の携帯に電話をかけた。
「お父さん、よかったですね」
「ありがとうございます。あなたにはずいぶん迷惑をかけました。今、キミコがサトウユカリに頼まれていた洗濯物を、クリーニング店に受け取りに家内といっしょに行っています。その用事が終わったら出発します」
「お父さん、今、近くにいらっしゃるのでしょう?サチコさんたちが戻るまでうちにいらっしゃいませんか?お茶でも飲んでいらしてください。彼女が一年間暮らした部屋の真下ですよ。同じ間取りです。ご覧になったらいかがですか?」
この提案にサチコの父親もそう思ったのだろう。「そうですね、では少しだけ」と言って電話を切った。
部屋に戻って五分ほどで父親はやってきた。
私たちは挨拶を省略してお互いの顔を見合わせて共犯者の笑みを交わした。
「広いんですね」
彼はそう言って真っ直ぐに天井を見上げた。
「急展開ですね。とにかくよかった」
「これまで家内が一方的に送っていたメールに、先月からポツポツと返信してくるようになりました。そのうち“帰りたい”と言ってくるようになり、それがやがてここを出るための打ち合わせになっていきました」
「サトウさんも納得済みで出るのではなく脱出なんですね?」
「そうです。サチコは傷つき、後悔しています」
そう言った時、父親の携帯電話がなった。
電話の相手はサチコだ。父親は今、私の部屋に居ると伝えている。もう出発する準備は整ったようだ。
「お父さん、サチコさん、うちにいらっしゃいと伝えてください。いつも押しているエレベーターのボタンを、二十二階ではなくて二十一階に変えるだけでいいのよって」
父親はすぐにその通りを伝えた。サトウユカリと決別するキミコは、一転してもうこちら側の人間だ。もし私と彼女が話しをする時間が持てたなら、数十年ぶりに会った旧友のように話題はつきないだろう。
「恥ずかしいと言っています」。
父親はまるで自分が照れているかのようにはにかんでうつむいた。
「そうですね、こんな特殊な出会い方をしてこれまでまともな会話をしたことがない私たちですものね。さぁ、もう出発した方がいいわ、あの人が戻ってくる前に」
父親は私に深く頭を下げて急いで玄関口に向かった。私はその時、この人たち三人を見送ることを思いついていっしょにエレベーターに乗り込んだ。迷ったり考えたりしているひまはなかった。
私たちが裏玄関から出て駐車場内を見渡した時、すぐに道路側の入り口に紺色のレンタカーが到着した。雨は、先ほどとは様子が変わって、アスファルトの地面に叩き付けるようによりいっそう強く降り、父親が私に何か言う言葉もかき消されるほどに激しさが増してきた。でもこの雨は、キミコの出発を安全に行わせようと天が擁護しているかのように私には思えた。
父親が数メートル先の車に乗り込むために雨の中に走りだそうとした時、その車は少し前へ進み、そしてこちら側に車の後尾を向け、そのまま真っ直ぐバックして私たちふたりの目の前に停まった。父親がその車に乗ろうと前へ進もうとしたのと同時だった。助手席のドアが開き、サチコが降りてきた。それは私が今まで一度も見たことのないサチコだった。私の目を真っ直ぐに見てほんの少し笑っている。その消え入りそうな笑顔をひと目見ただけで私は多くのことを理解した。私は近づいてきた彼女の手を両手で握り、そして抱き寄せた。雨と埃の匂いが鼻をくすぐった。
「幸せになってね」
私はやっとそう言葉にした。涙があふれてうまく発音できなかったかもしれない。私は自分の流した涙に戸惑っていた。サチコは何も言葉を発しない。だけど濡れた黒いまつ毛とはにかんだような瞳は、私に言葉にならない何かを語りかけていた。
そして三人は雨の中を紺色の車に乗って走り去って行った。私はしばらくの間その場に立ち尽くして、午後の水色に透き通った雨をみていた。雨はいつも、ほんの一時だけ今いる世界から切り離しかくまってくれる。私たちは身をゆだねるだけでいいのだ。




