その物音は寒気がするほど下品で暗い秘密に満ちている
二十二階に彼女が引っ越してきたのは昨年の十一月のことだった。
年齢は私と同じ五十歳前後くらいだろうか。ラデュレのマカロンを持って引越しの挨拶に現れた時には、体型にそぐわないミニスカートをはいていたことが心に引っかかっただけで、あとは全く取るに足らない出会いのシーンのはずだった。彼女が去った後、私はすぐにきれいに包装された箱のリボンをといてふたを開け、三個並んだマカロンの美しさに少しの間見とれ、その中から薄いグリーン色をしたピスタッチオの風味のものを口に入れた。そして紅茶を入れて飲みながら、しばらくの間、引越しの挨拶をすることの常識と、サイズの合わないミニスカートを着用することの人それぞれの考え方の違いについて思いを巡らせた。
そのすぐ直後からだった、あの騒音が始まったのは。最初は引っ越しが長引いていて、その荷物運びかなにかの音だと思っていた。家具を配置したり、ベッドを組み立てたり、うっかりしてカトラリーが入った段ボール箱をひっくり返してしまったり、人の出入りだっていつもより多くもなるだろうと。しかしそのうちに、いくらなんでもその物音が激しいうえに長く続きすぎるのではないかと思いはじめ、マンションの裏にある駐車場で偶然彼女に出会った時に、決心してさりげなく聞いてみた。
「引っ越しが長引いているのですか?ちょっと、音が聞こえるのですけれど。家具でも組み立てているのかしら」
私はなるべくにこやかに、つとめてそれは大した問題ではないのだけれど、という様子をつくろって言った。
その時彼女は前もって用意していたかのような笑顔を貼り付けて、
「小さい子どもが居て注意しても走り回るんです。きっとその音だわ。気を付けます、ごめんなさいね」
と言って会釈をして、これ以上の質問は受け付けないわとでもいうように、きつくカールした長い髪を翻して足早に自分の車の方に向かい、それに乗ってどこかへ行ってしまった。その時も明らかにサイズの合わない黒いミニスカートをはいていた。
私は彼女にそんな小さな子どもがいるということに驚き、そしてうらやましくも思いながら、それにしても木造のアパートとは違うこんな近代的な造りのマンションで、小さい子どもの走り回るような音がそんなに響くものなのだろうかとも思った。
その後もその騒音は一向におさまる気配はなかった。それどころかどんどん助長していくようになっていった。しばらくは音楽をかけたり、寒いのを我慢して窓を開けて風が渡る音で紛らわせたりしていたが、街を歩いていて、小さすぎるサイズのミニスカートをはいている女性ばかりに目がいってしまい、しかもそれとセットで私の心拍数も激しく上昇することに気付いて深刻な危機感を覚え、ある時、ちょうど玄関ホールの掃除をしているマンションのコンシェルジュと出くわしたので、彼に事情を話して直接注意をしてもらうようにお願いすることにしたのだった。
コンシェルジュは六十歳代の静かな雰囲気の男性で、日ごろから住人には控えめな笑顔で接し、必要に応じてごく短いセンテンスで季節に合わせた挨拶やねぎらいの言葉をかけるような、コンシェルジュとしては理想的なタイプだった。私が騒音で悩んでいる経緯を話し直接お願いをしてくれないかと頼むと、彼は今まで見たことのない種類の表情で「う~ん」とうなり、モップの柄を巻き込みながら腕組みをしてしばらくの間そのままの姿勢で動かなくなってしまった。彼の表情を今まで笑った顔とリセットされた顔との二種類しか知らなったから私は困惑した。
「わかりました。私の判断だけで行うわけにはいきませんので会社に相談してみます」
彼がやっとそう答えるまでの間、私も呼吸を止め、同じ姿勢のままじっと静止して待っ
ていた。会社というのは、マンションの管理や運営を統括しているマネージメント会社のことだ。彼はそこから派遣されている社員で、決められた業務以外のことは勝手な判断では行えないということらしい。
「生活音の範囲ならお互いさまですし、あくまでも”お願い“という形になりますけれどね」
と、彼はやっといつもの控えめな笑顔を取り戻してそう言った。
数時間後、コンシェルジュは「一応、お願いはしておきました」とだけ言いにきた。そしていつもと同じような笑顔を残して立ち去っていった。
彼女はどう感じただろうか。理不尽な思いで腹を立てただろうか。それとも言われて当然のことだと思っただろうか。
しかしその同じ日の夜のことだった。まるでコンシェルジュからのメッセージに強く反発するかのように、その音はある意思を持って確実に階下に住む私に向けて発せられた。その音には秩序とか規則性のようなものはまるでなく、唐突で暴力的で暗い秘密に満ちていた。私はもう迷う間もなく、階段を駆け上って二十二階へ行きドアのチャイムを鳴らした。
その重く固い扉は三回目のチャイムでやっと観念したかのように開かれた。彼女の顔はその時すでに怒りと憎しみでこわばっていたから、私の口調もそれに合わせるように感情をむき出しにした。
「いい加減にしてください!何をしているのですか。何の音ですか。迷惑しているんです。やめてください」
怒りに震えて唇がうまく動かない。
「なんのことですか!座ってテレビを観ていただけですよ」
こんな夜おそくだというのに彼女はミニスカートをはいていた。紫とグレーのストライプでニット素材のものだった。ずいぶん着込んだ感じで毛玉もついていたから、きっと日常的に身に着けているものなのだろう。それにしてもサイズの合わないニットのミニスカートを着用した女なんてこんな夜更けに見たくはなかった。気分が悪いのを通り越して縁起が悪い。化粧を落とした素顔は頬がたるみ、口角が下がり、目じりの深いしわも、玄関の黄色いライトの下に残酷に照らしだされていた。私も同じだろう。こんな風に毛穴も開き醜くゆがんでいるはずだ。
「あんな小さい子を縛り付けておけというのですか。ここに住むなとでも言うの?」
ドアの隙間から覗き込んだ玄関フロアの奥には夥しい数の段ボール箱が天井まで積み上げられている。引っ越してきて半年以上はたっているというのにまだ荷解きをしていないのだろうか。
「縛り付けろとかここに住むなとか、私はそんなことは言っていないし、それをどう解決するかはあなたの問題でしょう。ただ静かにしてくれさえすればそれでいいんです。でもこの騒音はお子さんが走り回る音だけでしょうか?階下で聞いている限りではとてもそれだけの音とは思えません。何をしているのかは知りませんがとにかくもうやめてください」
私がやっとのことでそう言い終えた時だった。
「子どもを産んでいない女だからこれが騒音に聞こえるのよ」
彼女はそう言って勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。彼女の背後には黒い大きな目をした四~五歳くらいの女の子がいて私をただじっと見つめていた。セルロイドのような質感のまるいおでこに、やわらかなまき毛が羽のようにはりついていた。その小さな生きものは、私を黙らせ、退散させるには十分すぎるほどの威力を持っていた。
「とにかく、この申し入れを無視して今後も騒音を出し続けた場合はこちらにも考えがありますから」
私は冷静になるように自分に言い聞かせながらそう言い、彼女の顔を真正面から睨み付け、重い扉を力まかせに閉めてまるで逃げるように階段を走り降りて自分の部屋に戻った。
リビングは広く静かだった。こんなに広くて静かなのは私がいつもひとりだからだろうか。夫はどれくらいここに戻っていないのだろうと思って飾り棚の上の小さなカレンダーに目をやったがそんなことを考えるのはすぐにやめた。でも、その代わりのように私の父が久しぶりにうちに戻ってきた日のことが思い出された。あれは何日ぶりだったのだろうか。その時私は6歳だった。父はその日本当に帰ってきたのではなくて、仕事に必要な書類と替えのワイシャツと少しの身の回り品を取りに来ただけなのだということは私にもすぐにわかった。それからずっと大人になってから、父だけが身勝手だったわけではなかったのだということにも気が付いた。この世の中は、本当に愛し合っている者同士が結びつくべきなのだ。ただ、人はしばしば回り道をしてしまう。私も夫も、父も母も。
それから私は泣きたかったけれど涙が出てこなかったので、南側のベランダからただ夜景を見つめ続けた。いつもなら無数のオレンジ色のライトが私の心に寄り添うように輝くのに今夜は少し違っていた。あの漆喰のような黒い瞳を持つ小さな生きものの視線が、まるで私の心の奥底にあるずっと隠していたものを裁くように、いつまでも消えずにダメージを与え続けたのだ。その罪のない瞳は、私の失った若さをあたかもあざ笑うかのように濡れて輝いていた。