スナック「楽園」
”楽園”は、市場や商店が立ち並ぶ一角の古びた雑居ビルの二階にあった。
あらかじめここを知っていて目指して来たのでなければ、見逃してしまいそうなほど人目につかない店だ。周辺の商店やスナックの多くはシャッターを固く閉ざしていて、もう長いこと営業していないのだろう。かつて賑やかだったころの片りんが、成仏できない魂のようにまだあたりに気配を漂わせている。
私はためらわずに扉を開いた。薄暗い店内には六十代くらいと思われる女性店主がカウンターの中でただぼんやりとタバコをふかしていた。「こんばんは」と声をかけると、私の顔を、まるで家の中で偶然見つけた何かわからない謎の部品を見る時のような目をしてほんの数秒考えこみ、やがてあきらめて面倒くさそうに椅子から立ち上がって「いらっしゃい」と言いながらカウンターの一番奥のスツールをすすめた。客は誰もいなかった。私は少しだけ笑顔をつくり、会釈をして席についた。店主はカウンターの隅にある保温庫の扉を開けて熱々のおしぼりを絵巻物のように鮮やかに広げて私に差し出した。
「待ち合わせ?」
「いいえ、ちょっとお聞きしたいことがあってきたんです」
早く本題に入らないと、誰か客がきたら中断しなければならない。よくよく考えたら、どういう聞き方をしたら話しを引き出せるのか、何も考えずにここに来た。大嘘をつくか、正直に言うかどちらかだろう。
「サトウユカリさんって、ここに勤めていましたよね?」
店主は目を輝かせた。うまくいきそうだ、と私は思った。
「実は、ご存じかとは思いますが、彼女は例のNPO団体の業務上横領の事件に関係しているかもしれないということで、私たち、内々に準備をすすめています」
「警察のひと?」
「いいえ、テレビ局の者です。あぁ、ごめんなさい。私、名刺を忘れてきてしまいました。テレビはご覧になりましたか?」
そう言いながら名刺をさがす素振りをし、その代わりにノートとボールペンを取り出した。
「観ましたよ」
店主は生き返った人間みたいに全身に活力をみなぎらせた。
「あのコ、ここではユキエって名乗っていたんだけどね、ササキエイイチのことを旦那だって言っていたけど愛人なんじゃないの。たまに車で迎えに来ていたわよ。い~男ね~。映画俳優かと思ったよ。その旦那が震災のボランティアに行っているって自慢していたけどそういうことだったとはね~。店での気配りはよくできたよ。歌はうまいし、お客もずいぶん連れて来たしね」
「ササキエイイチのことを夫だと言っていたんですか?」
「そうだよ。あっちでは私財を投げ打って支援しているから資金が足りないんだって、それでずいぶんいろんなもの売りつけられたよ、ほら、このテレビもそうだしさ」
そう言って店主はリモコンのスイッチを押した。
「この冷蔵庫も、電子レンジもそうだよ。いつもNPOの社員の保母さんだっていう若い女の子ふたりを使って運んできてたね」。
「今年の三月までは勤めていましたよね?どうして辞めたんですか?」
店主は眉をひそめてハイライトに火を点けた。
「うちの亭主とね、亭主っていうか、ま、籍は入れてないんだけどさ」
そう言ってからつい今しがたユカリがササキのことを夫と言っていたことを話題にしたことを思い出したのか自嘲気味に鼻で笑った。
「うちのひとが個人で運送会社をやっていてさ、荷物運びに困っているようだったから時々手伝ってやっていたんだよね。それでいつの間にかあのふたりあたしの目を盗んでさ。一度なんか、あたしの留守に勝手に家に上がり込んでいたこともあったよ。何もあんなくたびれた男にちょっかい出すこともないのにさ。ふたりいっしょに辞めてもらったよ」
店主はあははと笑って棚からピスタッチオの入った小皿を出してきて私にすすめた。
「ママさんの前のご主人の会社は、北区の大型スーパーの真裏にある運送屋さんですね?」
私は夜中に何度か目撃した軽トラックに記されていた社名と、グーグルマップで見たその会社の前に写りこんでいたサトウユカリが使っている外国車のことを思い出した。
「あんた、なんでそんなことまで知ってるの?あぁ、テレビ局だもんね」
私はあいまいにうなずいた。
「そもそもあのコ、生活のためにスナック勤めなんかしていたわけじゃないと思ったね。いいマンションに住んでさ、しょっちゅう海外旅行行って、エステ行って、指輪買って毛皮着て外車に乗ってさ。援助してくれる男を探すために仕事していたんじゃないの?うちの亭主なんかたいした金も持ってないのに狙われちゃってさ」
「ママさん、彼女の写真なんて持っていませんよね?」
「あるわけないでしょう。あったとしたって破り捨てて燃やしてるわよ」
そう言ってまたあははと笑った。
「写真があるかどうかは知らないけどね、大通りに“スナック重役室”って店があるんだけどそこへ行ってごらん。うちに来たばっかりの時は少しの間その店と掛け持ちしていたからね」
私は店主にお礼を言って店を出た。それから“スナック重役室”という店名がおもしろくて、下を向いて少し笑った。時刻はまだ午後十時をまわったばかりだ。
私はそのまま大通りに向かった。