表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不確かなノイズ  作者: チョコレートブラウニー
17/28

人を支配したがる人間と、人に支配されたがる人間

 どれくらい眠っていただろうか。いくつもの夢の層に沈み込んでいた感覚が肌にまとわりついて、見慣れた部屋が視界に入ってもしばらくの間起き上がることができないでいた。

 カーテン越しに感じる外の空気感では、今が夕方なのか明け方なのか判別がつかない。のどが渇く。冷蔵庫の中のソーダ水の、ブルーグリーンの色と涼しげな気泡を思い、私は体を起こしてリビングに向かった。時計を見ると朝の八時半だった。夕暮れのような朝だ。

 モスクワの空もいつもこんな風だったことを思い出した。灰色の街と哀しみを帯びた重苦しい空の色を。東の空に放射線状の雲がのびている。


 バルコニーに出て駐車場を見下ろすと、二十二階のワゴン車の運転席にヨシダサチコがいてメールを打っている。サトウユカリを待っているのだろうか。デジカメを望遠機能にして彼女を観察する。五分ほどしてサチコが車から降りて来た。マンションの部屋に向かうようだ。様子から見ると、これから出かけるのではなく、今どこかから戻ったのだろう。部屋に戻る前に、ひとりの時にメールをしておきたかったのだろうか。それは、サトウユカリとは共有できない秘密ごとなのだろうか。もしかするとサチコは、彼女の両親の願うように、これまでとは気持ちが変わり、この場所を離れてあの人たちとの関係を断とうと考えはじめているのではないか。そんな期待が胸をよぎった。


 私はソーダ水のことも忘れて寝間着代わりのキャミソールの上からコットンシャツを着てショートパンツを履き、キッチンのゴミ箱から燃えないゴミの袋をつかみ、急いでエントランスに降りた。すると狙った通り、エレベーターの前でサチコに出会った。いつも同じようなジャージ素材の上下を着ていて、相変わらずガラス玉のような抑揚のない目をしている。私はサチコに視線を送った。私を信用してくれるならいつでも手を貸す用意があるのだという気持ちを込めた。サチコは携帯電話を後ろ手に隠すようなそぶりをしながら、一瞬だけ私を見て捉えてすぐに視線を逸らした。平坦で光のないまなざしだ。これまでのようなある種の意思もなかった。彼女の向こう側に、この間会ったばかりの両親の姿が浮かんで見えた。

 「おはよう」

 そう声をかけてみた。少し勇気が必要だった。それでもそうしたのは、私もかつて、かたくなに閉ざしていた心を許し受け入れてほしくて何度もこの言葉を待ち、この言葉に救われたことがあったから。

 「もしsosがあるなら、階段を下りて私の部屋のチャイムを鳴らして」

 サチコは何ごともなかったように私の前を通り過ぎエレベーターに乗り込んだ。何も見えない、何も聞こえないとでも言いたげに。

 エレベーターの扉が閉まった。私の言葉に少しでも心が動いたのかどうか、それもわからなかった。


 ハリモト君が言っていた。サチコは考えることをやめてしまった指示待ち症候群なのだと。そう、この世の中には人を支配したがっている人間と、誰かに支配されたがっている人間というのが確かに存在する。ササキエイイチの支配のもとに居場所をみつけたサトウユカリとサチコら従業員たち、あるいはこの世の中の多くの母と娘たち。きっと彼らは同じ匂いをかぎ分け、引き寄せ合う。サチコはササキに魅入られ運命の出会いに感謝さえしたかもしれない。蜘蛛の糸に自ら歩み寄りからめとられた哀れな小さな蝶だ。サトウユカリもサチコも、ササキエイイチの支配に探し求めていた答えをみつけた思いなのだろうか。


 睡眠時間は短いはずなのに、真夜中になっても私はベッドの中で何度も寝返りを打ち、本を読みかけては放り出し、キッチンに立ってホットミルクをつくったりして落ち着かない。そのうち真夜中の二時になって、私はデジカメを持って外に出る。駐車場に停車してある東北ナンバーのワゴン車に近づき、車のナンバーを入れてグレースマンションを背景にシャッターを押した。それから自宅へ戻り、そこから階段を使い1フロア上がってサトウユカリの部屋の前まで来た。しかしそこには、数日前には確認できた「ササキ」の表札が外され、無記名のステンレスプレートだけが光っていた。私はそれを写真に収めた。何かを思って表札の印字を裏返して無記名のプレートにしたのだろうが、ドアの前に置かれたアイアンの傘立てと表札のあった場所の真下にかけられていたドライフラワーのリースは、ここが同じ人物の部屋であるということを告げていた。真夜中のグレースマンションは深い眠りについていた。皆やわらかいベッドに深く沈み込み眠りをむさぼっている、きっと誰もが。サトウユカリも、サチコも。空調室の設備機器だけがブーンという重低音を響かせている。


 私は部屋に戻って暗闇の中で画像をパソコンに取り込み、ニュートリノさんに送信した。チャイルドネットワークに関係する人物たちのこちらでの生活ぶりを、彼のブログで広く知らしめることは意味のあることだ。そしてその情報を送ることができるのは私しか居ないだろう。彼のブログはあくまでも個人のものだから、都合のいいことに新聞やテレビなどの媒体とは違い、厳密に裏を取ることもなく、主観を交えて記述しても公の問題にはなりにくい。


 同じ日の昼過ぎ、私の送った情報と写真はニュートリノさんのブログに早々とアップされた。一枚目はヨシダ町の復興予算で事業のために購入したはずの乗用車の写真だ。ナンバーがはっきり読み取れるほど大写しになっている。それからカメラをぐっと引いて、グレースマンションを背景に同じ車を写したもの。それから、表札が掲げられている時と取り外された時の玄関前の写真。そして、駐車場の車から降りてマンションに向かってくるサトウユカリとヨシダサチコの首から上をぼかした写真だ。警察の動きが全く伝わってこない現状では、ヨシダ町民はじめ、被害者、関係者たち、そしてこの問題に関心を寄せている多くの国民は、このブログが発進するニュースに大いに注目している。サチコの両親も、彼女の近景をここで確認することになるのも皮肉な話しだ。

 ハリモト君は、ササキたちもこのブログを逐一チェックしていると言っていた。ササキエイイチとの雑談の中で知ったのだろう。頭頂部も写るような写真のアングルや、部外者が入ることは困難なセキュリティの中で玄関前の画像までも写しているのだから、彼らだって情報提供者が私だということははっきりとわかるだろう。でも、彼らを追いつめ、そしてハリモト君にも私と再会して仕事にも役立ったと思わせるような情報を集めることに私は夢中になっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ