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不確かなノイズ  作者: チョコレートブラウニー
16/28

放課後のビートルズ、長くて短い夏休み

 夜の闇の中で赤く燃えるちょうちんを見つけて私は暖簾をくぐる。油で磨かれたような黒い木のカウンターの隅に座り、私はハリモト君を待っている。大勢の客たちの話し声や笑い声、どこか海辺の町の郷土の歌、炭火で油がはじけて焼ける匂い、開け放たれた入り口扉から冷たい外気が流れてきて、ネオンサインが地面に揺れる。それで私は突然雨が降り出したことを知る。私はもしかしたら彼は来ないかもしれないと少し思っている。なにもかも、あの時と同じだ。ちっとも変っていないではないかと思う。私はあの時、なにをしてしまったのだろうと考える。


 雨のしずくをまといながらハリモト君がやってきた。彼は私を見つけると小さく微笑んだ。ちょっと照れたような、私だけに向けた一瞬の笑みだ。私もほほ笑んだ。嬉しくて少し悲しい。彼のことが懐かしいのかどうかともう一度考える。やっぱり、懐かしいのではない。ただ、あの時に戻って、あの時の続きをしているだけだ。放課後のビートルズも、長くて短い夏休みも、空の蒼さに泣いたことも、そんなに遠い記憶ではないのだ。


 それから私たちは日本酒で乾杯した。

 「Xデーはもうそう遠くはないわよね?」

 私は希望を込めて彼の横顔に問いかける。口ひげにビールの泡がついている。

 「僕はそう思っている。そうでなければおかしいよ。今現在は民事事件だけれど、県警はもうすでに捜査を行っていると思うよ」

 「でもヨシダ町はまだ刑事告訴をしていないのでしょう?それはなぜなの?」

 「そうするだけの材料がまだそろっていないんだろうな。金の出し入れは領収書もなくすべて現金でやりとりされているし、町の責任も問われることだからそうスムーズに聞き取りできないというのが本当のところだろう。だけど、僕らが放送したドキュメンタリーもそうだけれど、この問題は多くのメディアやいろいろな立場の個人が取り上げ指摘している。これだけ世論が高まっているということは、そのこと自身が捜査の端緒になり得るからね」 

 「時々そういうケースがあるよね。どうしてここまで証拠も突き止めて矛盾点を突いた報道がされているのに、警察はただ傍観しているのか、と思ったら突然の逮捕劇があったとかね」

 彼は自分自身に確認するかのようにゆっくりとうなずいた。

 「次のドキュメンタリー第四段のオープニングはササキエイイチ逮捕の映像ね」

 「そう思って準備しているよ」

 「サトウユカリもあのマンションから連れていかれるわよね?彼女の映像も撮っておくのでしょう?」

 彼は少し考えるような表情をした。

 「やはりササキは、妻や愛人であるサトウユカリにも当然現金を渡していると思われるが、その証拠がどこにあるのか。追及されるとしたらそこだろうな」

 「動く画像を用意しておいた方がいいでしょう?誰も彼女の顔を知らないのだから私が手引きするわ。もうすぐ幼稚園も秋休みに入ると思うから、彼女の出入りの時間も特定できなくなる。明日にでも来てちょうだい。毎朝七時半頃に出て八時十分には戻ってくるのよ。インタビューが無謀なら隠し撮りだけでも」

 「そうだな・・・。僕は明日から名古屋に出張なんだ。今、2,000年に起きたバスジャック放火事件の被害者たちのその後を取材している」

 そういうことなら他の記者に指示をしていってはくれないのだろうか。それとも、私にとってサトウユカリが逮捕されて、その顔が白日に晒されることこそが重要事項だが、この事件全体の比重としては彼女の罪はそれほどのことではないのか。

 「そうね。この問題ばかりに時間を使っているわけではないのよね」

 「アサちゃん、幸せに暮らしているのか」

 厨房の焼き台にはホッケやサンマ、焼き鳥がおいしそうにもくもくしていて、働いている人たちが威勢のいい声を張り上げている。店内はいつの間にか満員だ。そこに縄のれんをくぐってサラリーマン風の男性客がひとり入ってきた。店員はどこからかスツールを運んできてこちら側に向かってきたので、私たちは彼の席をつくるために少しだけ横につめた。話しは中断したけれど、彼は私の答えを待っているようだった。

 「そうね、この一件がなければ」

 本当は、ハリモト君と会えなくなってから、こんなにも長い間喪失感を抱えながら生きてきたのだということを伝えたかった。彼はあれからどんな日々を送ってきたのだろうか。私ではなく、オレンジ色のコートの女性と。

 「君は門限はないの?」

 夫が出て行ってから、あのマンションには私ひとりだ。でも、今はそんなことは言いたくなかったし、言うべきではないと思った。

 「極端に遅くならない限りはどうということはないわ」

 時計は十一時をさしていた。


 それから私たちは店を出て、大通りを並んで歩いた。あの頃、私たちはこうしていつもお酒を飲み、話し、抱き合って眠った。こんな事件をきっかけに再会し、またこうして並んで歩いているなんて。この世で起こることはすべて不思議で謎に包まれている。

 駅裏にある彼が住む単身者向けのマンションの前まで来ると、彼は少しだけ寄ってコーヒーを飲んでいかないかと言った。私は笑いながら首を振り、きょうはこうして二人でお酒を飲むことができただけで十分、満足よ、と答えた。

 私たちは握手をしてそれぞれに帰る。私はまたこうしてハリモト君と会い、横顎を見つめ、声を聞き、手に触れることができた。秋の風はまだ少し夏の匂いを含んでいて、それは私に学生の頃の三学期に入る前の短い秋休みを思い起こさせた。あの頃は携帯電話なんて便利なツールはなかった時代だ。授業がある日はいつでも会えたけれど、休みの日になると家の電話だけが唯一連絡する方法だった。だから私は、すぐにどこかに居なくなってしまうハリモト君からの連絡を待って、一日中家から離れられないでいることがよくあった。それは三十年以上も前のことだ。こんなに時が経ってしまうと、それが本当にあったことなのかどうか少し信じられなくなる。記憶は思い出すたびに遠のいていく。


 私は繁華街を抜けてマンションにもどり、思い立って部屋のかったづけを始めた。食器は本当に気に入ったものだけを残してあとは捨てる、洋服も、アクセサリーも、小物も。アルバムの写真は思い入れのあるものだけを、本は村上春樹とフランソワーズサガン、それからもう一度読み返しそうなものだけを残して明日図書館へ寄贈しよう。夫のものはすべて段ボール箱に詰めた。かたづけを終えると窓の外が少し明るくなっていた。窓を開け放つと今度は本当に秋の匂いがした。もう、本当に秋なのだ。私は少し眠ることにした。


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