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不確かなノイズ  作者: チョコレートブラウニー
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ずっと昔のいつかに似ている

 二十五年前、私は彼ではなく今の夫を結婚相手に選んだ。

 そして彼はその後年上の女性と知り合い、転勤を機にその人と結婚してモスクワへ行った。夫もその後すぐに偶然モスクワに転勤になり、私たちはそこで一年だけ暮らした。その間一度だけ、ベルスカヤ通りで彼と彼の奥さんを見かけたことがある。私は声を掛けなかった。彼らも私に気付くことはなかった。鉛色の雨が降る寒い秋の夕暮れ時のことだった。あの時、灰色の街で、鮮やかなオレンジ色のコートを着た長い髪の女性の姿に私は打ちのめされた。私達は本当に遠く離れてしまったのだと思った。もう届かないし、何も変えることはできない。私たちが決めたことがこうして目の前にあるだけなのだと思った。私は、きちんと言えなかったさよならが異国の街で彷徨い、ふたりの姿を見かけたことでこんなにも心が揺さぶられることに戸惑っていた。あの時、暗く煙った街で、もういい加減に彼の記憶は心のずっとずっと奥底に封じ込めようとやっと心に決めたのだった。そしてそれはきょうこの時までうまくいっていたはずだった。


 「ね、あの騒音は彼らが備品を運び出している音なのでしょう?どういうルートで売りさばいているの?」

 もう私たちのことを話題にすべきではないと思った。ずっと封じ込めていた想いが白日に晒されるのが怖かった。私は、彼がこの事件を追っている記者だから連絡をしたのだった。

 「ヨシダ町が事業の委託を打ち切って事実上業務が停止になった時、事業費で購入した備品の大半が所有権がはっきりしないまま彼らによって勝手に持ち出されている。それは電化製品などの生活用品から遺体捜索のためのボートや装備品など相当数のものだが、しかしそれらの物品に対しての領収書は残されておらず、彼らがにわかにつくったリース業を主とするトンネル会社の持ち物だと主張してNPOの事務所や自殺したアサダミキの自宅などに分散して隠し置いているんだ。それは僕が確認して映像に残している。それを彼らは、ネットオークションに巧みにidを変えながら出品しているんだ。なかには物品の性質を知っていて買い取った業者もある。それらはすべて取材済みだ。あのマンションがそれら物品の一部の保管場所となっていて、そこから梱包して出荷していたのではないかと考えるが」

 私はあの尋常じゃない物音と、真夜中に何度か見た運送会社の軽トラックを思い出した。大量に運び出しをしていた日などは、引き受け手に直接届けるための積荷だったのか。断片的な事柄がパズルのピースが組み合わさるように、少しずつ形をなしていく。


 私はハリモト君の横顔をみつめる。あの頃のように会話に夢中になり、見つめあっているうちに日が傾きはじめる。十六歳で同じ高校の同じクラスで出会ってから、二十五歳でこの歩道橋で別れるまで、私たちは何度もここで待ち合わせをし、この場所で時間を過ごした。いつの間にか日が傾き、夕日が透き通ったピンク色に染まった。風に乗ってどこからか枯草の匂いが漂ってきた。ずっと昔のいつかに似ている。放課後の空気だ、と私は思った。でも言葉にはしない。私たちはまた少し黙っている。それに気がついてあわてて話しをつなぐ。


 「不動産屋さんにはすぐ会えるようにしてあるわ。ヒガシオさんからも、重要な話しが聞けると思う」。

 彼は、ササキエイイチの世間には知られていない未成年の頃に犯した窃盗事件の内容や、サトウユカリ以外にも自殺したアサダミキとも愛人関係にあったこと、まだ報道してはいないが取材する中で知り得た多くの事実を、私の質問に答えながら話してくれた。なかでも自殺したアサダミキの実弟や、もうひとりの女性従業員ヨシダサチコの両親とは連絡をとり合い、情報交換をしているということは私をとても驚かせた。

 「アサダミキは、知らないうちに犯罪に加担させられ、やがて事の重大さに気付きはじめた。今年の春に、僕らエキスプレス社が彼らの疑惑を追及する番組を放送した時点で、自分はもう逃げられないと思い、弟に自殺をほのめかすような電話を何度かかけていたんだ。そしてとうとう、弟に遺書を残してあのマンションの部屋から飛び降り自殺した。ヨシダサチコの両親は、キミコがチャイルドネットワークに就職した直後から様子がおかしいと気づき、ササキエイイチから奪還しようと直接事務所を訪ねたり、警察に相談したり、できる限りのことをしてきた。しかし、ササキに恫喝され事務所前で門前払いされ、警察でも成人した大人のすることだから介入はできないと言われ、当のサチコは両親のメールにはいっさい返信をしないから全く様子がわからないとのことだ。彼女たちは、ササキに出会うまではそれぞれの地元で保母として真面目に勤務していたそうだよ」

 「ササキエイイチに実害を受けて、追い詰めて罪を暴きたいと思っている人間は、ヨシダ町周辺以外でもずいぶん存在するということね」。

 「ヨシダサチコの弟は、ササキが公金を不正流用したことを裏付ける、ある児童教材メーカーに宛てた偽装領収書の作成を依頼する文書の写しを入手して提供してくれたよ。それから明日、サチコの両親が九州からやってきて会うことになっているが君も来るかい?」

「行きたいわ」

私は迷わず返事をした。

 「サチコの両親も、君に会うことを望むと思うよ。なにせ、実の娘ながらもう二年半も

いっさい連絡が取れないし、ササキエイイチサイドからの情報も遮断されている。こんな敵対するような間柄とはいえ、唯一アサちゃんだけは現在のサチコの様子を知っていて話しが聞ける相手だからね」


 全く予想もしない展開になったことで、私の心の奥底はこっそりうかれている。私の身に起こった予期せぬ問題を解決するための行為が、彼との再会をつなげる行為とすり替わっていく。

 彼は、私と再会したことで新しい情報を得たと言って感謝し、会えてよかったよ、と言った。私は今後も彼女たちの動きを観察して報告すると伝え、これからは彼らが逮捕されることを共通の目標にして情報交換していこうと約束した。

 「とにかく、会えてよかったよ、アサちゃん」

 「私もよ、ありがとう」


 彼に会って、どうしてだか懐かしいなんて感情は起こらなかった。ただ、あの頃に時間が戻っただけ、だからあの頃の続きをしていけばいいだけだ。私たちはそれぞれの家に帰る。私はあの問題のマンションの二十一階に。彼は大通り駅前の単身者向けマンションに。

 きょうは二十五年ぶりに、こんな事情で彼と再会して熱に浮かされたような一日を過ごした。それは大事件だった。はしゃぎ過ぎた心をなだめ落ち着かせるために、私は冷たい紅茶をつくってバルコニーに置いた白いアイアンの椅子に腰を掛けた。中空に浮かぶ庭に初秋の風が吹き抜けて、そのひんやりと深い空気が彼と過ごしたいくつもの季節を思い起こさせ、そしてまた私は気持ちが高ぶっていった。



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