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不確かなノイズ  作者: チョコレートブラウニー
12/28

歩道橋の上で

「はい、ハリモトです」

低くて伸びのいい懐かしい声が耳に飛び込んできた。

「アサヒです。ご無沙汰しています」

ほんの少しの間沈黙があった。一秒の何分の一だろう。

「アサちゃん?」

とても驚いているようだったけれど、少なくとも拒絶をするような感じはない。声って変わらないのだ。彼の声だ。

「はい。お仕事中にごめんなさい。お願いがあって電話したの」

二十五年ぶりに、私をどう受け入れてくれるかが怖かったのから、挨拶もそこそこに用件を言った。

ハリモト君が追っているチャイルドネットワークが、ヨシダ町の事業費から私的流用したとされる金で購入したマンションの、すぐ真下の部屋に住んでいて騒音に苦しんでいること。やがて正体を知って彼らのことを調べ始めたことを手短に話し、そして最後にあらかじめ用意しておいた質問で締めくくった。

「私が知りたいのはただ一点なの。ササキエイイチが逮捕されたら、愛人のサトウユカリはあのマンションから出ていくことになるでしょう?それはいつなの?私はいつまで我慢すればいいの?」

私は極めて特殊な事情で記者としてのハリモト君に電話したのだ。それは全く偶然だった。ほかのどの社のどの記者でも要件は満たさず、彼である必要があったのだ。そしてお互いが匿名で協力し合っている、彼を追及するためにブログを立ち上げているニュートリノさんが、一番情報を持っているのはハリモト君だと言ったので、その人の勧めで電話したのだということを強調した。

「アサちゃん、ゆっくり話そう」         

あの頃みたいに優しく、穏やかで、あたたかい声だった。


私はハリモト君に提供するために、これまで集めた資料を整理した。時系列でまとめた彼女たちの動き、多分もうとっくに入手しているとは思ったけれど、マンションの登記簿とNPO法人立ち上げの際の書類、それから隠し撮りしたサトウユカリと女性従業員ふたりの写真。それから東北ナンバーの外国車と、「ササキ」の表札を掲げた内玄関前と、地下にある居住者専用の物置の内部の写真をプリントした。この物置は、天井に空間があり、薄い鉄製素材で四方を囲んだだけの簡易な造りになっている。二十二階の物置はうちと薄い壁を隔てただけの隣り合わせだ。私は自分の物置の中からよじのぼって内部を写していた。

私の持つわずかな情報でも、ハリモト君の取材した情報と合わせれば、点が線になり、面になっていくだろう。明日は二十五年ぶり にハリモト君に会うのだ。私はこれからドラッグストアに行って、白髪染めを買ってくる必要があることを思い出した。

「私は念入りに白髪を染める。薄いピンク色のネイルにキラキラしたストーンをのせる。出かけ際に慌てないように洋服を選んでおく。綿レエスの白いワンピースがいいだろう。白い色は少し若く見える。

もう二度と会えないと思っていた。二十五年前にあの歩道橋で別れてから、会えるはずもないと思っていた。だけど状況は変わったのだ。


夜の九時も過ぎた頃、上階からいつものように物音が聞こえ始めた。足音のような、大きなものを落とすような、引き戸や開き戸を力を込めて開け閉めするような。私はそれを聞いて笑みを浮かべた。なんだかきょうは物足りないくらいだと思った。あるいはもっと激しいほうが都合がいいと思った。


翌日、私たちはあの歩道橋で待ち合わせをした。約束の午後一時よりも少し早く行くと、彼はもう先に来ていて歩道橋の上から国道の車の往来を眺めていた。あの頃と同じだ。

「こんにちは。ご無沙汰しているのに、突然のお願いでごめんなさい」

「アサちゃん、変わらないな」

ハリモト君は、照りつける太陽のせいで少し眩しそうな顔をしながらそう言った。私たちは目を見合わせてほほ笑んだ。そうせずにはいられなかったのだ。彼は少し白髪が目立ち、口ひげをはやし、以前よりもがっちりした体形になっていた。

「私の知りたいことは、ササキエイイチの逮捕はあるのか、そしてあのマンションからサトウユカリが出ていくのはいつなのか、ということなの」。 

私は揺れる心を隠そうと、少し事務的な口調で彼に尋ねた。

「今はまだ民事訴訟だから、これからヨシダ町が刑事告訴して、逮捕、起訴ということになるだろうと思っているけど、アサちゃんの望みはそれからまだ少し先になるだろうな。使途不明金のうち、あのマンションを購入したことを立件できるか。そしてもし競売にかけられて所有権が移っても、速やかに退去すればいいけれど居住権を盾に居座るかもしれない。だいたい、ササキエイイチがこちらで事務所として借りているビルだって、三年間一度も家賃を支払っていないんだから」

早速もたらされたディープな情報に私は興奮気味に声を上げた。

「どうして?そんなことが許されるの?」

「ビルの外壁に亀裂が入っていることを欠陥だと言って滞納している。かといって開け渡すこともしない。この件については来月、こちらの地方裁判所で裁判があるんだ」。

どちらにしても彼らはあちらこちらでいろいろと派手なことをやり散らかしているようだ。

 「サトウユカリの顔は知っている?」

 「いや、見たことがない。マスコミは誰も知らないんじゃないかな。」 

 私は先日二十一階のバルコニーから隠し撮りした写真を見せた。

 「う~ん。これはかなり上から狙っているからちょっとわかりにくいなぁ。まあ、でもなんとなく骨格とか雰囲気はつかめるけれど」

 「彼女は毎朝決まった時刻に子どもを幼稚園に送り迎えするのよ。その時にハリモト君、本人にインタビューをしてよ。当然取材拒否はするだろうけどね。それからマンションの一階に入居者用のゲストルームがあるの。その部屋を私が借り切っておくからここから隠し撮りをしておいて逮捕されたら使えばいいでしょう?」

 私は思いがけずハリモト君と再会して、この歩道橋でこんな話しをしていることが不思議だった。

 私たちがここで初めて待ち合わせをしたのは十六歳の時だった。以来何度もここで会い、ここから映画館や喫茶店に出かけて行った。そして彼が年上の女性と結婚してモスクワに転勤することを聞かされたのもここだった。

 「相変わらず人の通らない歩道橋だね」

 ハリモト君がそう言った。きっと今、同じことを考えていたのだろう。

 「ハリモト君がつくったドキュメンタリー番組を動画サイトで観たわ。人に教えられるまでぜんぜん知らなかった。でも、あの番組を放送日に観ていたとしても、その愛人がサトウユカリで、その問題のマンションが私の住むあのマンションだとはたぶん気が付かなかったと思うわ。映像はバルコニーの部分だけをクローズアップしていたし、おまけにぼかしがかかっていたでしょう?それに、番組のディレクターがハリモト君だってことも、たぶん見逃していたと思う。でも、ハリモト君がこの地に勤務になったことはひとから聞いて知っていたのよ、私。二年前の春でしょう?」

 「そう。モスクワには五年居て、その後東京勤務になって、二年前の四月に二十五年ぶりにここに戻ってきた。現場が好きだから、今だに昔と同じことをやっているよ」

 彼はそう言って背負っている大きなバックパックを私の方にみせる仕草をした。

あれから時代は変わって、この大きなバックパックの中にはどんな七つ道具が入っているのだろうかと想像した。カメラもずいぶん小型化しただろう。汗拭き用のタオルは、きっとあの頃よりも少しはこぎれいなものになっているだろう。少なくとも○○商店などの文字が入ったそっけないものではなくて、きっとそばにいる人が、もっと毛足の長いおしゃれなタオルを持たせているだろう。

 「だけどアサちゃん、僕がここにいることを知っていたならどうして会社にでも連絡くれなかったの?僕からはアサちゃんを探しようもないし、連絡のしようもないんだから。そもそもアサちゃんが今もここにいるとは思わなかったよ、転勤の多いご主人だと聞いていたから」

 彼はごく自然に、優しく微笑みながらそう言った。本当にそう思ってくれたのだろうか。

「できなかった」

私はすぐにそう答えた。


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