表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不確かなノイズ  作者: チョコレートブラウニー
11/28

女の子なら、誰でも母親の呪いがかかっている

 私は翌朝さっそく市役所に出かけて行った。

 レンガ造りのアプローチを通り抜けて案内板に従ってエレベーターに乗り四階のボタンを押す。R市役所は老朽化が進んできたため、数年前から段階的にリフォーム工事が進められていた。市民活動課が置かれている棟はまだ建設当時のままで、エレベーターを降りると、古い紙と昭和の時代のビルディングの匂いがした。廊下には職員用のロッカーがあって、狭い通路の中央にパーティション代わりのように配置されていた。私は市民活動課のドアをノックし、職員に本年度と昨年度の法人の事業報告書と役員名簿をコピーしてもらった。職員は私が誰とも、目的は何とも聞かずに慣れた動きで書類を用意し笑顔で手渡してくれた。それから私は女性職員にお礼を言って部屋を出た。そして、エレベーターホールの片隅にあった黒いビニール張りのベンチに腰掛けた。

 ずっと忘れていた。ここには一度来たことがあった。ロッカーで隔てられた反対側は記者クラブだ。もう三十年以上も前に、新聞記者だった父がここで喀血して、連絡を受けた母と私が駆け付けたことがあった。救急車を呼ぼうとした同僚の記者に大丈夫だからと言って、このベンチで体を斜めにして目を閉じ、頽れるようにして座っていた。私と母が到着した時には、もうすでに父の恋人が来ていた。私は廊下のリノリウムの床に、血液の痕跡を見たような気がしてしばらくそこに座って父と母のことを思い出していた。父は母よりも恋人の方を選んだのだ。あるいは、母から逃れたかっただけだったのかもしれない。私はこの父と母の間に生まれ育って、何を与えられて自分をかたちづくってきたのだろうか。サトウユカリの両親はどういう人物だったのだろう。どんなふうに彼女を産み育てたのだろうか。


 「女の子なら、誰でも母親の呪いがかかっているわね」

と言ったのは母だ。私はいまだに、いい呪いも悪い呪いもかかったままだ。

 「アサヒ」

不意に呼ばれて振り向いた。

 「どうしたの?こんなところで」

 ユミコだった。自動販売機でお茶を買ってきてくれて、彼女は私の横に腰掛けた。

 「先月のはじめに、警察から市政クラブの担当に替わったばかりなのよ。あれから何か進展はあった?」

 私はこれまで知り得た情報を彼女に話した。

 「きょうは、チャイルドネットワークの疑惑をブログで告発している人にたのまれてここに来たのよ」

私は今受け取ったばかりの書類をめくった。

特定非営利活動法人チャイルドネットワーク。理事にササキエイイチの名前があり、サトウユカリと自殺したアサダミキの名前は社員となっている。

 「ここにヤマダマユミという名前があるでしょ?」

 ユミコが書類を覗き込んで説明しはじめた。

「この人物はササキエイイチの本妻よ。法人の届けで、役員総数が五人以下の場合、ここに親族は1人も含むことができないことになっているのだけれど、ほら、総数四人なのに監事にササキの本妻の名前がある。だから旧制で登録してあるのね。このふたりは戸籍上の婚姻関係にあるから」

 会計収支計算書の支出科目にはリース費として計上されているものが突出していた。これはすべて、資金を流用するためにつくられたトンネル会社に振り込まれている。


 書類はすぐにメールに添付してニュートリノさんに送った。するとその日のうちに、この事実は彼のブログで指摘され、合わせてその名簿の中には架空の人物がいることや、収支の矛盾、とりわけリース費として計上しているもののからくりなどが指摘されていた。

 ニュートリノさんは報道記者ではないことは明らかだ。だから、個人のブログに掲載する分には、ある意味、自身が確度の高い情報だと思えば緻密な裏をとらなくてもアップすることになる。私には具体的な金の流れや、ヨシダ町周辺で起きたことはわからない。ただ、彼らが流用した金で購入したとされるマンションやこちらの様子は詳しく観察しているし、そして、マスコミの誰も見たことがないサトウユカリの顔を知っている。私の仕事はこちらの様子を観察して知らせることだ。ニュートリノさんならすぐに採用してくれるだろう。時には暴走さえしてくれそうだ。


 翌朝、私はカメラを手にバルコニーに立った。曇り空で、空を渡る風が涼しく、どこかからかすかにピアノの音が聞こえる。私は朝のひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んで、天空を見渡した。そう、私の居場所はここなのだ。出ていくのはあのひとだ。私はしゃがみこんで、バルコニーの目隠しガラスの枠の隙間からカメラを構えてマンション裏の駐車場を狙った。

 七時四十分、彼女が子どもを幼稚園に送っていくために連れて出てくる時間だ。時間通りに、黒地に白いリボンの柄がついたレーヨン素材のミニスカートに、襟元と袖口がフリルになったサマーニットのロングカーディガンをはおった女が小さな女の子の手を引いて出てきた。カメラのズームアップ機能は、望遠鏡をのぞいているかのように詳細に見えた。私は息をひそめ、シャッターに人差し指を置いた。そして、子どもの様子を気にして振り向いた瞬間をとらえた。

 写真は振り向いた彼女の全身を捉えていた。私はそれをパソコンのデスクトップに貼った。彼女の長い髪がメデゥーサのように風になびいて、微笑んでいるように見える赤い唇は毒を持った生き物のようにてらてらと光っていた。それから私は駐車場に行き、彼女が使用している東北ナンバーの高級車を、マンションを背景にして写真に収めた。そしてエントランスに戻ってエレベーターに乗り、私の住む二十一階ではなく二十二階のボタンを押した。そして再びカメラを構え、玄関前の表札を写した。そこには「サトウ」ではなく「ササキ」の表札がかけられていた。愛人であるユカリのせめてものなぐさめなのだろうか。


 「ニュートリノさん、こんにちは。写真を送ります。一枚目はササキの愛人が使っている東北ナンバーの車、二枚目は”ササキ“の表札をあげたマンションの玄関です。車は、。あなたのブログでも問題にしていた、震災復興の支援活動で使用する目的で事業費で購入した外国車です。サトウユカリは今、例のマンションで従業員とされる女性と共同生活をしています。その従業員もまた別の東北ナンバーの高級国産車に乗り、マンションの来客用駐車場に長期間無断で駐車しています。マンションの管理人、マネージメント会社、理事長らはかかわりたくないとして容認しています。ニュートリノさん、先日自殺した女性、そして今同居している女性はいったいどういう人物なのでしょう」

 ニュートリノさんは相変わらず正体は明かさないものの、私が送る情報はすべて確度の高いものとしてそのままブログに掲載した。たぶん、彼に匿名で情報を送るのは私だけではないようだ。被災地でも、事情をよく知る立場の人物がササキらを追いつめようとそれぞれが動いている。皆、どういう立場の人間であろうと、目標はただひとつ同じ共同体だ。 

 ニュートリノさんからの返信はすぐに届いた。

 「こんばんは。ヨシダ町では議会で問題視されてはいるものの、結局は町としての責任も追及されることになるためかなかなか進展はみられません。刑事告訴はされるのか、それに関してもいまだわかりません。ご質問の件ですが、従業員の女性たちの来歴など、くわしいことは私もわかりません。そちらのメディアエキスプレスというテレビ局が、彼らがヨシダ町に入った当初から疑惑を持ち、どの社よりも一番詳しく取材をしていることはご存じですよね。そこにハリモトという記者がいます。彼に会ってみてはどうでしょうか。あなたの持っている情報も、彼にとっておおいに役立つものと思われます」


 “メディアエキスプレス”

私はニュートリノさんからのメールに書かれていたその文字を見つめた。私は今すぐにメディアエキスプレスのハリモト記者に連絡をした方がいいのだ。そうではない、しなければならないのだ。私はもうためらう必要はなく、十分な理由を持っている。ネットで番号を調べ、私はエキスプレス社に電話をしてハリモト記者につないでくれるように頼んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ