彼女の常識と私の常識、物ごとは静かに進んでいく
帰宅して正面玄関から中に入ると、サトウユカリが裏玄関から入ってきて、私たちはエントランスホールで鉢合わせした。
彼女は白髪が目立ち、手には白髪染の箱が入ったビニール袋をぶら下げていた。私の姿を見つけると憎しみに満ちた視線を向けて決して自分からはそらそうとはしなかった。女性従業員が飛び降りたのも、自分が追い詰められているのも、すべてが私のせいとでも言いたげだ。少し疲れているようにも見えた。そしてずっと以前から不幸せであるようにも見えた。黒いミニスカートは自動ドアから吹き付けてきた風に喪服のように揺れていた。
「サトウユカリさん」
私は彼女の名前を呼んだ。
「あの物音はなに?何を運び出しているの?」
サトウユカリは眉を寄せ小鼻を膨らませながら声を上げた。
「いいがかりをつけるのもいいかげんにして!あなたには常識というものはないの!私に接近しないでちょうだい」
彼女の常識と私の常識には大きな隔たりがあるようだった。私は私の、そして彼女は彼女の常識できょうまで生きてきたのだ。
「ま、時間の問題でしょうけれどね」
私はそう言って先にエレベーターに乗り二十一階のボタンを押した。
部屋に入り、私は待ちきれない気持ちでコーヒーとビスケットを用意してパソコンに向かった。そしてインターネット上の動画サイトで彼らの疑惑を追及したドキュメンタリー番組を探し、三十分構成の第一弾と第二弾を続けて観た。
第一弾は、震災直後で混乱のさ中にあるヨシダ町にいち早く駆け付け、寝る間も惜しんでボランティア活動に励むササキエイイチ率いるNPO団体の様子を紹介したもの。
第二弾はそれから数か月後の様子だ。これまでの働きぶりを認められて緊急雇用創出事業を受託した法人が、予算を年度途中で使い果たして従業員を突然解雇した。そのことで以前から囁かれていた一連の疑惑がクローズアップされ、ササキエイイチ本人がカメラの前で弁明したり、ヨシダ町の議会や第三者委員会が不明朗な金の使い道を追及し、訴訟に向けて動き出すところを映し出していた。
ササキはよく笑い、怒りをぶつけ、開き直り、そしてよく泣いた。取材しているのはハリモト君だ。彼の低い声、ちょっと猫背気味の背中、横顔が写りこむ。
インターネット上には、チャイルドネットワークがヨシダ町で起こした事件にについて、何人ものひとがさまざまな立場で書き込みをしていた。被災者である町民や県内外のひとたち、ブログを立ち上げて事件の流れを記録しているひともいた。そのなかでも特に、内部事情にかなりくわしいと思われる人物が立ち上げたあるブログに注目した。
NPO団体の不適切な金の流れや運営方法に早くから疑念を抱き、内部資料をもとに情報収集をして事実と照らし合わせ、ひとつひとつ矛盾点を指摘している。ササキ本人への疑惑はもちろんだが、身元の不確かな彼らを無審査で受け入れて多額の税金を任せたヨシダ町の責任も厳しく追及している。私はメールフォームを開いた。
「はじめまして。彼らが横領した金で買った問題のマンションには、ササキエイイチの内縁の妻が住んでいて不穏な動きをしています。住所は・・・です」
このブログを記録しているニュートリノさんは、文面からすると比較的若い男性だろう。マスコミ関係者とは違うようだ。公務員かもしれない。ヨシダ町かその周辺に職場があって、なんらかのかたちでササキエイイチの活動と接点があった人物か。しかし、そんなことはどうでもいいことだ。私もニュートリノさんも向いている方向は同じだ。
彼からは一時間もしないうちに返信があった。
「はじめまして。そのマンションは、もうすでに仮差押えになっていますよ。あなたはR市にお住まいなのでしょうか。それでしたらお願いしたいことがあります。R市役所の市民活動課に行って「チャイルドネットワーク」が法人を立ち上げた時の申請書類と事業報告書をコピーしてきていただけないでしょうか。当方がそちらの市役所に電話でその書類を送ってほしいと何度も頼んだのですが、事務所内での閲覧や直接来訪してコピーして持ち帰ることは可能だが、職員が郵送することはできない、とその一点張りなのです。引き受けていただけるとありがったいです。無理を言ってすみません。もし可能であればです」
仮差押えになっている?もう着々と追い詰められているではないか。物ごとは静かに進んでいるのだ。