マンションの上階から聞こえる騒音は私の心をむしばんでいった
私はきょうもいつものベーカリーカフェに来た。
窓際に席をとり、文庫本を読みながら、一時間くらいかけてほうれん草のキッシュとエスプレッソコーヒーを交互に口に運ぶ。それがなくなってしまうと、今度はチョコレートブラウニーかスノーボールクッキーといっしょに二杯めのコーヒーを注文する。 文庫本はやがてファッション雑誌か写真集に替わる。
パラパラとページをめくってみるけれど、どこかの街角の騒がしい風景も、美しいモデルが着こなすレエスのワンピースも、もう何も私の心を動かさない。
私はあきらめて雑誌をひざに置き、ガラス窓を通して、ここからほんの十数メートル先にそびえ立つ高層マンションに視線を移した。秋の日が陰るのは早くて、夕方の五時を過ぎるともう薄闇があたりを支配し始める。やがてその部屋には明りが灯る。マンションの二十二階だ。だけどすぐに遮光カーテンがひかれて無人の部屋を装う。私はその黒い窓をじっと見つめる。そこで何が行われているのかを想像する。私に不都合をもたらしている何かだ。それはこのカフェの椅子に座っていても知ることはできない。ここにいても何の解決にもならないのだ。そう考えると私はまたそわそわし始める。
ベーカリーカフェの客はとぎれることはない。皆コーヒーとパンをかたわらに本を読み,談笑する。白いワイシャツに黒いエプロンの衣装を着けた店員たちが気持ちよく立ち働き、食器の触れ合う音や人々のざわめきは静かに流れる音楽に融合する。しかし私にだけはその異質な音は聞こえる。厨房で、誰かがカフェの作業とは違う音をたてる。ゴミ箱を蹴飛ばしているのだろうか。乱暴にドアを開け閉めする音、この地響きのような鈍い重低音は、カフェの真下にある地下鉄の駅に電車が発着する音なのかもしれない。カフェの音と違う音はきっと客には聞こえない。それは私の耳にだけ届く種類の音なのだろう。
それから私は支払いを済ませ、顔見知りの店員にいつも長居をしていることを詫びて店を出た。そしてたった今までずっとガラス越しに眺めていた高層マンションに向かって歩きはじめた。イルミネーションで飾られた木々に囲まれたアプローチを通り、自動ドアを過ぎて正面玄関の鍵を開け、それから広々としたエントランスを抜けて笑顔のコンシェルジュに目礼する。そしていつものようにエレベーターに乗り、二十二階の真下、二十一階のボタンを押した。
鍵を開けて中に入り、ラジオをつけようかと少しのあいだ考え込む。その音で少しでもあの音をかき消そうか、それともしっかりと耳に刻もうかと。西側の窓から地上を見下ろすと、ついさっきまで私が居たベーカリーカフェのオレンジ色の明かりがちりちりと揺れるように点滅して見えた。そのカフェが入っているショッピングモールや地下鉄の出入り口、周辺の商業施設のネオンサインは闇をまとうごとにきらびやかな光を放つ。そしてこの街全体を包み込むように位置する広い森は、まるで魔女の住処のように今夜も深くビロード色に沈んでいる。
私は目を閉じて耳を澄ませた。その無遠慮で暴力的な破壊音は、私の住む部屋の真上二十二階から、今にも必ず聞こえてくるはずだ。そう考え始めるといつものように心の奥が波打ち、熱く燃え、汗が噴き出す。電話の着信音が鳴ったのはその時だった。
「近くまで来ているの。行っていい?どうせユウジさん、今夜も居ないのでしょう?」
同級生のユミコからの電話だった。
「来てよ、待ってるから、早くね」
私の返事は叫び声になっていたかもしれない。彼女の弾むような声に救われる思いで、すぐにキッチンに立ち簡単な料理を始めた。
「ユミコ、昨日、二十二階に警察が来たわ。夕方の五時過ぎに向かいのカフェから戻ったら正面玄関にパトカーが停まっていた。嫌な予感がしたわ。絶対に二十二階に来たのだと思ったから、階段室の踊り場近くまで上がって耳を澄ませて様子を伺っていたの。そうしたらちょうど警察官があの人の部屋のドアから出てくるところで、彼女が”それじゃお願いします“と言ったら、警察官が”わかりました。また何かありましたら“って言って出て行ったの。きっとばれたのよ、私のことが!だからあの人、警察を呼んだのだわ」
シンコは、ワインを口に含みながらニンジンのスティックをバーニャカウダソースにからめるようにしながら無意味にくるくると回している。
「もしそうだとしたら、どういう経緯でばれたのよ」
「きっとあのひと、すぐにおかしいと思ったのよ。それできっとコンシェルジュやマンションの管理会社に探りを入れたのよ」
「まさか。考えすぎじゃないの?全然違うことで通報したんじゃない?たとえば自転車が盗まれたとかさ」
「ねぇ、あのことがばれたら私何かの罪に問われるの?私の姿は防犯カメラに写っているはずだから、それを解析すればすぐに特定されるわよね」
私は西側のコーナーに配置した食堂テーブルを離れて席を立ち、三十畳ほどあるリビングの真ん中あたりまで進んで南向きの広々としたベランダの窓に目をやった。その透明な大スクリーンから見える風景は神秘的で、いつもどんなに長い時間眺めていても見飽きることはなかった。それは、今ここで見ているものは本当にこの世のものなのだろうかと思うほど美しく、私はそのたびに幻想と現実の間にある境界線を確かめなければならなかった。はるか遠くの街の繁華街の灯りや線路を走る電車や夜空に浮かぶ橋を渡る車のライトは、今確かに私の目の前で、今夜もキラキラと瞬きしながらあたり一面の中空にこぼれ落ちるように揺らめいている。
天空に浮かぶこのマンションの二十一階に私は住んでいる。私はここを気に入っていた。ここからの眺めはどんなものよりも価値があると思っていたし、どんなものよりも愛しいと思っていた。私にはもうここしか残されていないのだ。五十歳を過ぎ、血のつながった家族のいない私には、もうこの場所しか自身に付属するものはないのだ。ここを守るしかないのだった。
「今回のことを二十二階のひとが通報したのだとしたら、少なくともアサヒ、あなたが考えていたあの女に前科があるのではないかという線はこれで消えたかもね」
「そうね」
私は二本めのワインを開けた。そして前科があるのではないかという想像はもちろん、今現在か過去に何らかの反社会的な行為を行っていて、それがまだ明るみに出ていないだけなのではないかという極めてサスペンスドラマチックな仮定も捨てざるを得ないのだということに心底落胆した。