二
秋月恵子は長い前髪を手で分けると、着席した状態から僕のほうを見上げ、表情のないままに瞬きを四度した。呆けているというよりは、値踏みするような、じっとりと落ち着いた、纏わり付く仕草だった。
予鈴が鳴り、方々からひとつの教室の中へ生徒が集まってくる。それらに逆行する形で、秋月恵子は席を立ち出て行った。恐らくは、付いて来いという意味だろう。
どこかのクラスがグラウンドで体育の授業を行っているのを尻目に歩みを進め、体育館横のプレハブ小屋の前で、ようやく彼女は立ち止まった。文芸部や軽音楽部といった、スポーツ校の枠組みからぽいと放り出された哀れな部活の部室が寄り集まったそこは、当然のように、閑散としている。春には花びらを散らす桜が、今は枝をむき出しにし、僅かに揺れていた。
「それで」
秋月先輩は小さく言葉を漏らすと、顎を撫でるようにして掻いた。緩く巻かれた髪が肌を刺激したのだろうか。
「秋月に会えと、男の先輩に言われたんです。ほら、今、入院している」
「ああ、大吾くんか。逸見くんのことを言っていたのね」
一人合点した様子で呟くと、彼女はそれきり黙ってしまった。
あの日、隣で先に飛び降りた彼は、現在集中治療室に入っていると聞いた。両足複雑骨折に加え、内臓をいくつかやられたらしい。意識の有無は聞かなかったが、どちらにしても辛いだろうと思う。
彼がそうして落ちていったことを、プラスに考えたわけではない。例えば「死は怖いだろう」と身を持って諭してくれたとも思わないし、あるいは「この高さじゃ死ねないんだよ」と馬鹿にされたとも感じない。ただ、純粋にそのとき思ったことは「男同士の心中と思われたらいやだな」だけだった。
秋月恵子のことは以前から知っていた。入学して半年間だけ所属した、まさしくこのプレハブに追いやられた文芸部の先輩だった。
「厄介なやつに絡まれたわね」笑うでもなく、哀れむでもなく、淡々と言葉を吐いていく。「それで?」
「命を預けてみないかと」
「その話か」
一言の返答で十全に事態を理解した彼女は、腕を組んでから首を回す。生きているだけで、身体は疲弊を訴える。完全無欠に見える彼女でさえそうなのだから、生に執着すべきではない。
「一体、何の話なんですか」
「教えてもいいけど、聞いたらただでは帰さないわよ。最悪、殺してしまうかも」
冗談のようには聞こえないが、この平坦さこそ彼女らしかった。
「どうせ棄てた命ですから」
「そう」
向こうで叫ばれた言葉は、すでに意味を失い、雑音としてここまで届いてくる。ばたばたと駆けずる音。てん、と跳ね上がるのは、ボールだ。明確なゴールが全てに存在すれば、明確な勝ち負けが厳然と存在すれば、もっと生き易かったかもしれない。
「私と大吾くん、それから君と同じ二年生の本橋さんの三人で、自爆テロをしようって計画してるの」
「自爆テロ……、ですか」
特に感慨のなさそうな声音で言われると、迫力はない。それゆえに真実味を帯びているとも思えたが、所詮高校生の戯言だ、とも言える。
彼女の目は、立ち姿は、凛としている。
「渋谷、新宿、秋葉原。今のところこの三箇所で、同時に行う予定よ。君が参加するなら、そうね、永田町でも加えましょうか」
「それが、意味のあることなんですか?」
「意味は必要? 大事なことかしら。それじゃあ君は、ほかの子たちと変わらない。口ではなんと言っても、やっぱり命が惜しいんだわ。がっかり」
「いえ、そういうわけでは」まごついている自分が、いかにも彼女の言うとおりに思えて、情けなかった。「僕たちが自爆テロをして、どうなるんですか」
大吾、が言った「変わるのは世間さ」の意味はわかったが、それはどうも机上の空論にしか思えなかった。
一方で、死して尚何かを求める必要が、本当にあるのだろうかとも思う自分がいる。結局、大吾が飛び降りたところで、一週間の休校になっただけ。フェンスさえ取り付けられなかった。一時は溢れたマスコミも、すでに話題性の風化を機敏に察知して、残っているのはハイエナのような人間ばかりだ。
何が変わった? 何も変わっていないじゃないか。
でも、それでいいと、なぜ思えない?
命が惜しいと思ったことはない。飛んでいく灰よりも薄汚い小さな揺らめきを、なぜ惜しいと感じるだろうか。ふっと息を吹きかけるだけで消える、灯火を。
「別に、どうにもならないよ」
「どうにもならないのに、なぜやるんですか?」
「どうにもならないから、やるんだよ。生きていても死んでみても何も変わらないんだよ。私たちは、誰一人をとってもそうなの。総理大臣だろうが、引きこもりだろうが、人の死は、人の死でしかない。いくらでも代わりがいる、なんてことは言わないけど、いくらも変わらないんだ。その人が居た世界と、居なくなった世界では。抗いようがないんだ。わかるでしょ?」
「わかりません」
「じゃあ君のことはここで殺す。大吾くんは居ないけど、仕方ない。君を殺したら本橋さんに連絡を取って、二人で何とかやってみるよ」
女の細腕で、何を言うか。
思ったのも束の間、そこに在るのが当たり前だと言わんばかりの滑らかな動作で、ポケットからバタフライナイフを取り出した。慣れた手つきで弄んでいる。
「人を殺すのが怖いのはなぜだと思う? それは、人に殺されるのが怖いからだよ。同調意識なんてクソだよね。逸見くんならわかるんじゃない? でも、私と君は別の人間だから、君に刺さっても、私は痛くない。当たり前だよね。君の痛みはわからない。じゃあ、君が死ぬのも、私には怖くなんてないよ」
それまでと変わらない歩調。どこかで歓声が湧いた。草を、虫を踏み潰して、一歩、一歩。
滅茶苦茶だ。この人も、大吾も、言っていることは滅茶苦茶だ。
滅茶苦茶だと考えている僕は、じゃあ、正常なのか。ずっと、ぐちゃぐちゃになっていた頭で考えることが、本当に正常なのか。忌み嫌う一般論を振りかざして、誰かを否定することは、美徳なのか。
「人体を解剖する趣味はないから、大丈夫。飛び降りるよりずっと綺麗なままで居られるよ。それも、君には関係がないけど」
「わかりました」
秋月先輩は歩みを止め、首を傾げた。
「何が? どこまでを理解したわけ?」
「協力します」
「協力じゃないよ。協力が欲しいわけじゃない。君が居なくてもできるんだから。驕りだよそれは」
「命、預けます」
「別に、もういいよ。要らないって。だって今君、命が惜しくてそんなことを言っているんでしょ?」バタフライナイフをまたポケットに忍ばせると、すっと息を小さく吐いて、「興醒めだ。最初から殺すつもりなんてないよ。刺されて尚やらせてくださいって言うなら巻き込んであげてもよかった。君はテストに落ちたの。残念だったね」
振り返り、去ろうとする。
「待って」声を投げるが、届かない。「待ってください」
プレハブ小屋を離れ、体育館の脇を進んでいく。もうすぐグラウンドが視界に入る。
秋月先輩は黙々と進んでいく。スカートの裾と髪の毛が同じリズムで揺れている。
「先輩のことが好きだったんです。ずっと。初めて会ったときから。先輩のことが」
それでも彼女は止まらないまま、まっすぐに、校舎に向かった。
僕はもう、追うことをやめた。