邂逅
鬱蒼と茂った森は昼間ですら驚くほど暗い。柔らかな腐葉土のカーペットでくつろぐ蛇のように木の根がうねり、気まぐれに足を引っ掛けてくるのだからベルセリアにはたまらない。じい、と睨みつけようとしても薄らと輪郭が窺えるだけで、何事も無さそうに歩く男性陣には舌を巻いてしまう。八つ当たりに文句でも言おうかと口を揺らしてみるも、彼女のプライドが紡いだのは妙に余裕そうな中身のない話題だった。
「良かったのかい? コルネギス君はともかくミルチェ君の方は相当強いよ。今回の依頼にもついて来てもらった方が安心できるだろうに」
「分かってはいるんだけどね。ただ今回は僕達四人を名指しした依頼だし、急に他の連れがいるとなると不信感を持たれる可能性もある。ただでさえ食糧や装備の準備資金が少ないんだから」
「そうですね……日数から考えると、二人を連れていくための必要経費で足が出てしまいます。私達もお金に余裕がある訳じゃありませんし今回は仕方ありません。ええ、本当に残念ですが……」
後ろへ目を向ける事すらなく笑うディムルトの言葉を継ぐように傍を歩くアトワールの声が響く。酷く落胆した声色からするに相当ミルチェに入れ込んでいるらしく、心配性のイクティニスだけでなく普段は飄々としたベルセリアですらその愛で方にはため息が漏れてしまう。
特に酷かったのは一週間ほど前の湯浴みで、半ば強引に浴場へ連れて行った際に全身という全身を撫で回し、とても公衆の面前とは思えない痴態を晒してくれたほど。人の目がある場所では比較的おとなしく、今のように仕事の最中もさほど表には出さないのが救いであった。
それにしても、と胡乱げに乱立する樹木に目を向けてみるとやはり奇妙だ。ベルセリア達が依頼人の青年から聞いた話では森の中心地にかつて魔族が封じた小さな洞窟があるということだが、それにしては魔物が少なすぎる。遠巻きに窺っているというのならともかく、気配すらしないというのは普通の森と何ら変わらない。口に出してみるとディムルト達も同じように考えていたらしい。真っ先に口を開いたのがイクティニスだという事が、彼らの内心に広がる不安を示すように。
「魔族のいた土地なら……魔物がいる事も多い……だが、魔物どころか動物の気配すらロクに感じないぞ……」
「ああ。道は教えられた通りみたいだけど、どうも妙だ。この半年ほど誰も森に入ってないって話のわりに道はそこそこ新しい。いつ戦いになっても良いように心構えをしておこう」
「それがいいだろうさ、大体あの依頼人からしてイマイチ信頼しきれない。軽薄そうだけれど腹の中に何を抱えているかわかったもんじゃないね」
「確か……ギルドという名前の……洞窟に妙に詳しい様子だったな……」
「近所の方の話だと穏やかで心優しい方らしいですけど、魔族の伝承が残る地にしては普通過ぎる感じがしました。そういう場所は規模がどうであれ聖教から人が送られているはずなんですが……あ、洞窟ってあれのことでしょうか?」
アトワールの白い指が示した先には、申し訳なさそうに小さく入り口を開いた洞窟が木々の隙間から顔をのぞかせていた。
僅かな物音すら立てないよう慎重に慎重をかさねて近付く四人が徐々に訝しげな表情になっていくのも無理はない。ゆるやかに地下に向かう道は差し込む光が土埃を照らし、不気味な雰囲気を漂わせているが、それ以上に問題なのは真新しい足跡が奥に向かっているという事だった。
「これは参ったね、どうするかな?」
努めて軽く尋ねようとして、実際に漏れ出た声にベルセリアは内心で舌を打つ。洞窟に反響して帰ってきた声は妙に固く四人の耳に響き渡ったのだから。
「アトワール、この跡はどうだい」
「嫌な感じがします。魔族は見たことが無いのでその気配かは分かりませんが、少なくとも聖教にとって良くないような、気味の悪い魔力……」
薄暗い中でもアトワールの顔色の悪さを見て取ることは容易で、それだけに他の三人も不安の高まりを禁じ得ない。腐っても聖教の神官である彼女が魔力だけに当てられるような相手なら、弱く見積もっても魔物であっても兵士十人程度を屠る事は出来るだろう。緊張に目を細めたディムルトを含め四人共がそれなりに強いとは言っても、地の利も無く相手の事すらも分からない状態で挑むのは死ににいくのと同じ。あまりにも馬鹿馬鹿しい。
「どうする……時間はまだある、一旦戻るか……?」
「私はその方が良いと思うね。それこそ多少足が出るにしてもミルチェ君に依頼して一緒に来て貰った方がいい。特に魔族云々に関して言えば彼女の方が知識もあるかもしれないからね」
「そうですね、それと依頼者の方に改めて話を聞いておく必要があると思います。あまり考えたくはありませんが、何か知っているかもしれません」
ディムルト以外の三人も及び腰だが責める事などできないだろう。死にたがりならともかく、ともすれば命の危険がある以上は慎重に慎重を重ねるべきには違いない。
もっともそれは、戻れる状況であればこそ。背後から忍び寄る気味の悪い声を耳で捉えた瞬間、彼らは一種絶望に近い気持ちを一様に抱くことになった。
「いやさすが、あの方のおっしゃる通りのようで。男二名女二名の人族四名で相違ありませぬ。皆様のお力を見させて頂きたいのですがよろしいでしょうか」
振り向きざまに各々構えられたのは彼らの腕が確かで、心の隙間が小さい証明でもある。相対する相手がとぼけた顔の優男であろうと一切気を抜かない事も、思わず顔を背けたくなるほどの薄気味悪さから目を離さないことも。
だからこそ優男は感心した様子で手を打ち、ご褒美とばかりに四人が話し合う事を許したのだ。
「確証はありませんが、恐らく魔族です。すごく、気持ちが、悪いです……」
「参ったね、どうする? 一人くらいは逃げられると思うかい」
「……わからない……でも、俺達の敵う相手じゃない……ディムルト」
諦めの色が籠った言葉にディムルトが返すことが出来たのは、残念な事に前向きなものではない。震える剣先をピタリととどめ、優男へと突き出しながら呟く。
「さっさと死んだ方が楽かもしれないね。僕は一番最初に行くよ……もしできそうなら、誰か逃げてくれ」
洗礼剣で良かった、とあまり意味のない慰めがよぎる。恐らく魔族であろう相手にもしも剣が効くのなら、神の力を受けた剣がいい気がする。
地面を踏み締める力も剣に込めた力も淀みなく優男に向かって突き進む。ひゅ、と音を残して空気を縫いとめるような速度で放たれた一撃は、ディムルトのこれまでの人生で最高の物に違いなく。
「はあ、素晴らしい剣筋です。どことなく痛みもあるとは侮りがたい」
今放てる最高の一撃が優男の身体を貫いてなお、飄々とした表情は僅かにも変わらない。そうだろうな、と水面のように波打つ男の身体を見ながらディムルトは力の限り叫ぶことにした。それ以外に出来る事は無く、無駄だろうと悟りながらも。
「みんな走れ! 僕じゃ抑えられない!」
「はあ、それはそうでしょう。ですが逃げて頂くのは困ります。主からは貴方がた四人の力を見ておけと言われていますので。ああ、貴方はもう分かりましたのでこのまま大人しくして頂けると非常に助かりますがよろしいでしょうか?」
「ぐ……! く、そ!」
粘つく水に絡め取られた剣はどれだけ引こうと押そうとピクリとも動かず、逃げようにも手を掴まれては無駄というもの。せめて三人は、と振り返ってみるものの、目に入ったのはやはり絶望的な状況だった。
「はは、すまない。けれど速さ自慢のイクティニスも捕まっていることだし、大目に見て貰えると嬉しいね」
「……駄目、か……」
同じように粘つく水に捕えられた二人は同じように手にしていた武器が水に突っ込まれているあたり、斬り飛ばすなりしようとしたのだろう。その傍で倒れ込んでいたアトワールを見て思わず息を飲んだディムルトに対し、ベルセリアは苦笑を浮かべていく。
「大丈夫だよ、おそらく魔力か何かに当てられて限界を超えてしまったんだろう。気絶しているだけさ……今のところはね。さしずめ、まな板の上の何とやらという奴だね」
「ご安心頂ければ。殺すなとも言われておりますので。そもそもこの度は力を見せて頂くだけでして、主の許可なく命まで取るつもりはありませぬ」
優男の言葉を疑おうとして、ディムルトは首を振る。どのみち実力に差がありすぎる以上殺される時にはどうあっても殺されるのだから。
したたかなのはベルセリアで、諦めか好奇心か、粘水に包まれながら悠然として男に話しかけていく。
「貴方は魔族かい? さっきから主と言っているから誰かに従っているらしいけれど、どうして私達の力を見る? あとこの粘液はスライムという魔物に似ているが同質のものなのかな」
「はあ、確かに魔族です。主の名は言えませぬし、私は命令に従うだけでして。貴方のいう魔物が私の思うモノと同じであれば、それは私を真似て作ったモノですので同質ではなく劣化というべきでしょう」
矢継ぎ早の質問に馬鹿丁寧に返される言葉。なんでもないように話す内容はディムルト達にとって全く驚くべき事で、それだけでも世界中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりかねない。彼らが知る限り魔族なんてものはお伽噺の中の存在で、最近でこそ魔導ゴーレムが現れたせいでもしかするとという思いもあったが実際に目の当たりにすると言葉も出なくなってしまう。
その中で唯一目を輝かせたのはやはりベルセリア。唾を飲むことすら失敗してムセるほどに焦って出そうとした言葉は、しかし誰かに届くことは無く。
「久しぶりにこちらに来るとお腹が減りますね。申し訳ありませぬ、少々食事へ参りますので皆様どうかご無事で。あいや、死ぬほどではありませぬのでご安心ください。ちなみにそこの洞窟は何の変哲もない穴倉でして……これにて失礼」
べちゃ、と意志を持つ水が土へ染み入り消えていく。言葉を失う四人を襲ったほんの一瞬の静寂、気を抜くべきでは無かったのだろう。そうすれば木の葉が擦れる音の中でも、身体に付着する粘液の変質する音が聞こえたはずなのだから。
「っ! みんな、粘液を――」
気付くや遅し。一瞬の間に膨れ上がり高熱を発しだした粘液はグルリとその色を変えていく。その姿はちょうど、爆発の魔法に近いものがあったのだと全員が察したのと同時に臨界が訪れる。
意識が途切れる直前の光と爆音から顔だけでも隠すことが出来たのがベルセリアと、上手い具合に倒れ伏していたアトワールの二人だったのは女の意地であったに違いない。
……どれだけの時間が経ったのか、丁度朝日が昇る時間に目が覚めたディムルトが抱いた疑問はそれだ。
「いっつ……! み、みんな、大丈夫かい?」
死んでいないのならそれで重畳。気絶する直前の言葉からするに殺す気も無かったらしいが、死んでもなんらおかしくない爆発ではあった。
見渡せばいまだ他の三人は倒れ伏しているものの、それぞれ死んではいないようで胸を撫で下ろした。
「死人は無し、か。それにしても魔族だなんてゾッとするね……どうしたものかな」
考えたところで出るような答えでも無く、頭を振って中身を入れ替える。今大事なことは現状の確認であって、国に伝えるにせよなんにせよ、どのみち今すぐにはできない以上考える事も後で良い。
全員生きているならまずは無事に帰らなければ。選び摘まんだその目的を果たすため、ディムルトは三人を起こしに痛む身体を引きずり始めるのだった。