『王国の歩き方:ポケット版 悠暦1007年版』
『トスト市について』
トスト市は千年以上前から続く自由経済の都市として今も知られている。千年前には奴隷制度が強く残り当時の国家最大の奴隷市が置かれていたが、かのコルネギスとギルドヴォルグによる世界救済以後、急速に廃れていった。その事はごく一般的な歴史として知っている者も多いだろう。
ではなぜ廃れたのか、理由については様々な議論が残るところだが、もっとも知られているのはやはりトスト市の『アルエルナの泉』に違いない。
もはや改めて言葉にするまでもないことながら、おさらいにアルエルナについても書いておくとしよう。
アルエルナは当時王都にて栄華を誇っていたミガラ伯爵の長女であった。今も残っている姿絵や記録ではいずれにおいても、僅かな曇りもない蒼色の髪を持ち、絶世の美少女として書かれている。性質においても清廉潔白、人の痛みに涙するほどの美しさだったという。
そんな彼女であったが父親のミガラ伯爵は悪辣な卑劣漢であり、今なお『ミガラ伯爵を彷彿とさせる』という文句が人でなしの代名詞のように言われるほどの人物であった。アルエルナが生まれる前から麻薬や非合法な媚薬の製造と流通に手を染め、美しく成長したアルエルナに咎められるや否や彼女を数年にわたり屋敷に監禁。やがて後妻であったカシュア夫人により罪が告発されると、アルエルナにて奴隷商へ売り渡したうえに罪の一部を彼女のせいであると裁判の中で語った。この事は当時の裁判記録にも書かれている。
夫人はアルエルナを買い戻そうとしたが時すでに遅く、彼女の居場所は分からなくなってしまい、夫人とその息子(後の伯爵家跡継ぎ)は眠れない日々が続き、涙で枕を濡らしたという。(1)
16歳という若さで売られたアルエルナだったが、彼女は父親を止められなかったという罪の意識から常に粛々とした態度でいた。またどのような奴隷に対しても分け隔てない態度で接し、持ち主であった奴隷商人からも一目置かれていたとのことである。奴隷という立場から考えれば慰み者という最悪の未来もあったかもしれないが、そうはならなかったのは彼女の素晴らしい人格が成した結果だろう。
そしてその夏、彼女はトスト市(当時は小さな街であったが)の泉でコルネギスと出会う。この点については膨大な数の戯曲や小説の中で描写されており、そちらへ任せた方が読者諸君にとっては楽しめるに違いない。最低限を言えば、彼女は泉で沐浴をしている時、その護衛に雇われたコルネギスに出会ったのである。
当時、泉には弱い魔物が現れる事もあった。商人はアルエルナに対し敬意をもって接し、彼女に一人で沐浴へ向かう事を許していたが普段の護衛が使えないためコルネギスを雇ったのだという。
アルエルナは強く穏やかなコルネギスに惹かれ、コルネギスもまた美しく淑やかなアルエルナを愛し、二人は恋に落ちた。二日続いて二人きりの沐浴はおこなわれ、互いの絆を深めていったらしい。
しかし三日目になり悲劇が起こる。その日は二人きりではなく、奴隷全員で身体を清める行事があり泉は賑わっていた。そこに魔族が現れたのである。
もちろん魔族といっても、当時の過激派であり今の魔族とは行動原理が全く異なるものだ。当時の彼らは過激派と穏健派に別れ、アルエルナの前に現れた頃は過激派が暴れ出す少し前の事だった。
泉に現れた魔族は水魔の一種と言われているが確かな史料がなく定かではない。だが、目撃した者の記録ではいつの間にか音も無く泉の上に立ち口の形を変えたとのことであり、魔族からも水魔が妥当であるとの見解がある。筆者もその見解を支持するところだ。
閑話休題。
二人は魔族が現れた時、泉の中で寄り添い愛を語らっていたという。それゆえにかのコルネギスといえども油断があったのだろう。体勢を整える間もなく、コルネギスはあわや食い殺されるかという所だった。それをアルエルナは身を挺してかばい、彼の代わりに命を落としたのである。
魔族は激昂したコルネギスにより退けられたが、戦いの激しさは傍にいた者全てが気を失う程だったというから、彼の実力はこの頃から芽を伸ばしていたのだろう。
かくして彼らの愛は唐突に終わりを迎え、かの泉は悲恋の象徴として語り継がれるようになった。
今ではコルネギスの生家への観光の際には必ず寄る一大観光スポットとなり、夫婦や恋人が愛を誓う場になっているほか、泉の傍にはコルネギスが自ら残したというアルエルナの墓標代わりの大樹が泉を見守り続けている。人族に対して攻撃的な魔族は出ないので、家族連れでも安心して訪れて欲しい。