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何が何やらさっぱり分からなかった。斬りかかったはずなのにいつの間にやら凄まじい衝撃に吹き飛ばされてね。泉の中で助かったよ、土の上なら大けがでもしたかも知れないんだから。
「う、おっ!?」
「あが……なんでしょうか、魔力もありませぬぎゃ――」
気を取られて動かない男が泉の外を向いたと思ったら、今度は更に大きい衝撃と爆音だ。
死ぬかと思ったよ。衝撃で息吐いちゃって水は飲むし、溺れ死ぬかって焦ったけどミルチェが手を引っ張ってくれて助かった。
「コルネギス、大丈夫?」
「げほっ! あ、ああ……助かった……」
「そう、ならいいわ。一秒でも早く逃げるわよ」
ドレスも水浸しのまま、止める間もなく俺を引っ張って泉の外まで跳ぶミルチェ。ひとっ跳びで何メートル跳ぶんだよってくらいの勢いでさ、俺の肩が外れなかったのは結構奇跡的だったんじゃないかな。
ちらっと後ろを見ると男が仰け反っててね、どうもあの衝撃はミルチェが男を蹴り飛ばした結果らしい。でも傍にいた俺まで吹き飛ぶような蹴りのはずなのに大して効いてなかったみたいで、俺達を追ってまた水の上を歩いてくる……亡霊と違って体があるのが逆に怖いもんだね。
しかも物凄く早いんだ。どれくらいかって言うとそうだな……窓の外、あそこに高い建物があるだろ? 大体歩けば4、5分は掛かりそうな距離だけど、瞬きしたらあそこにいた人が目の前にいるってくらいだよ。
さすがにミルチェも仰け反って一瞬動きが止まって。それを見逃す男じゃないわけだ。
「おや。まあいいでしょう、いただきまひゅ――」
「っ、コルネギス逃げてッ!」
言われるまでもない。幸い男はミルチェに向かって大口を開いてたから、目の前に現れた瞬間に脱兎の如くってね。
そう言われてもねえ……泉で立ち向かったのは絶対逃げられないからっていうのが第一の理由だったんだよ。逃げるチャンスがあるならアルエルナの仇でも逃げる、命あっての物種なんだからさ。
「悪い、頼む!」
「いいから早く走って。なるべく長く時間は稼ぐから!」
後ろから響いてくる激しい殴打の音。凄まじい勢いだったからミルチェが殴りかかってたのかな、全力で前へ走ってたせいで見てないんだけど。でもかすかに聞こえた男の言葉が。
「んあ、効きませんが。邪魔ですので腕を千切らせていただきます」
マジかよって思ったけど、そりゃ正体がスライムみたいなもんだから効くわけない。後になって分かる事って本当に多いね。
俺もそこそこ走って距離も広げてて、いつの間にか二人からだいぶ離れてたから、どうしてるかなって振り返ったんだ。いやあ驚いた、同じタイミングで奴隷達も悲鳴を上げて逃げ出すんだよ。どうも連中ときたら呆けてたみたいだけど、ミルチェの両腕が千切られたのをきっかけにパニックになったらしい。
よく見たら商人が息切らしながら俺を追いかけて来てたのは良い判断だと思う。もしあの時ミルチェが壊されてたら、周囲の連中を食い尽くしてただろうし。
仮定の話だよ。実際には奴隷も無事、ミルチェも両腕を千切られただけで無事、俺も無事。それでおしまい。リアネアさまさまだったね。
「あはぁ、だめだよぉ。リアネアのお人形壊したらぁ、タモでも殺しちゃうよ?」
「はあ。リアネアの人形ですか……分かりました。ではあちらの人族達をいただきましょう」
「だぁめっ! ギルド様がぁ、そろそろ帰って来いってぇ」
「そうですか、では帰るといたしましょう。一食抜いたところで死ぬ体でもありませんので」
腕を失くしたミルチェは仰向けに倒れてて、それを庇うようにリアネアが男の腕を片手で掴んでるのは見えた。声は聞こえたのかって? リアネアは声が大きいからね。そう思うと男の方も結構な声量だったな。
ミルチェかい。痛そうじゃなかったけど、リアネアが出てきたことに対処しきれず固まってる感じ。
男の身体はあっという間に水みたいになって地面に広がって消えて行った。俺達には一瞥も無くて、本当に空腹を満たすためでしかなかったんだろうね。それも緊急じゃない程度の。
「もぉー。お人形さんの腕を取っちゃうなんてぇ、ダメだよねぇ? 今くっつけてあげるからねぇ」
「……あ、ありがとうございます」
「ふぇー?」
不思議そうに目を見開くリアネアの顔が、どんどん花が咲くような笑顔になってくのが見えたんだ。
嬉しかったんだろうね、お気に入りの人形が自分にお礼を言ってくれたのがさ。ミルチェは半分ビビリながらだったけど。取入っておけば俺が殺される可能性が低くなるか、って判断したらしいからさすがだね。
怯えてたのはむしろ周りの奴隷達のほう。リアネアが腕をグリグリ押し付けながら千切れた部分を握りしめると手の平が溶けて染み込んでいくんだ。なんだなんだと思ってるとあっという間に元通り、傷一本も残ってないんだから驚愕するってもんだ。
「あはぁ! いいんだよぉ、もぉ痛いところは無いかなぁ? お腹が空いてたらねぇ、その辺の人族をお団子にしてあげるから言ってねぇ」
張り切るのはいいんだけどね、小さくガッツポーズをとるのも見ていて微笑ましいし。内容が可愛らしくないうえに明らかに俺まで粘つくような、エサとしか思っていない視線の中に含まれてるのが問題だ。
「いえ……必要ありません。人族は私の主の種族ですから」
「そーお? でもぉ、食べたくなったらいつでも言ってねぇ。リアネアねぇ、ハンバーグ作るの上手なんだよぉ? あは、あははははぁ!」
もう大笑いも大笑い。頭をがっくんがっくん揺らしながら上機嫌で笑うんだけど、その声がまたやたらと大きくて、空気が震えるくらい五月蠅くて。奴隷達の中に妙に混乱して喚いたりしてるのがいたのもお約束だね。まあ、大なり小なり心に隙間があるのが普通だから仕方ない。
さて、あの男は帰ったけどリアネア……この時は名前を憶えてなかったから、この女の子はいつ帰るかな。頭の中を占めるのはその考えだった。なにせ五分くらい経った頃には俺とミルチェ以外は全員倒れたり発狂したようにのた打ち回ってるんだ。女の子が笑い始めてからそうなった以上、原因をそこに見るのも当然の事だからね。
でもあの男の腕をいともたやすく受け止めた女の子を俺が力で追い返せるわけもない。俺より強いミルチェでもできないし、とにかく自発的に帰ってくれるのを待つしかないわけだ。祈りが通じたのは……十分くらい経った頃だったかな。
「あははははぁ……あ、ごめんねぇお人形さん、ギルド様に呼ばれちゃったぁ。遊んでないで帰って来いってぇ」
誰も周りにいないにもかかわらずの発言で、一体この子は何を言ってるのか、って怪訝に思ったのは俺だけだ。ミルチェの方は魔族が遠く離れていても意思の疎通ができるって知ってたし、警戒するだけはしてたけど、早く帰れって顔にそう書いてあったよ。
名残惜しそうにミルチェの髪をくしゃくしゃ掻き回したと思ったら一瞬でその場から影も形も無くなった。リアネアにあんな芸当は出来ないはずだから、多分あのバカが呼び寄せたんだろうね。
残されたミルチェと俺は顔を見合わせてさ。疲れた顔のミルチェが一言。
「……コルネギス、早く帰りましょう」
「ああ。依頼主が起きてくれたら帰るように進言してみようか」
俺が指さした先には商人が寝転んでたんだ。当然リアネアの笑い声に当てられたせいで気絶中、起きた頃にはとっぷり陽が暮れてて、むくれたミルチェに蹴られて商人が楽しそうだったなあ。