3-2 セフィリア・ブランジェ
今年の夏はとにもかくにも暑かった。
気温が35度に達する日が幾何日にも続き、熱中症・日射病・脱水症状を起こした人の数は例年を大きく超えた。テレビでは10年ぶりの猛暑の年とさえ報道されている。
しかしそれでもこの年は記念するべき私の高校生活初めての夏であり、花火大会に海水浴、キャンプなどなど中等部の頃から憧れていた数々のことを体験できた。
もちろんそれだけではない。二学期こそは“打倒月城”を達成するべく、学園の訓練場に行って魔法の修行も励んだ。相手が名門神田ゼミだからといって、私は絶対に負けを認めたくない。
しかし正直なところ、こちらの修行は必ずしもうまくいっているとは言い難かった。
誰よりも強くなりたいと思って2年生、3年生の内容にまで手を出してみたけれど、何せ一人で修行しているために魔法のキレだとか完成度だとかがどれくらいなのかが分からない。
それに使える魔法の種類にも不満があった。学校で教わるような魔法は確かに戦闘においても非戦闘においてもとても便利なもの。だけどそれは魔術師なら誰でも使える魔法であって、他の人と大きく差をつけることができないのだ。
高校生レベルを超えた魔法というのは魔術師のみが購入できる魔術書に納められている。私のお父さんは一応魔術師なのだけどデスクワーク派なので私が望むような戦闘用の魔術書はほとんど持っていない。だから会得したいのならば師であるゼミの先生に教えてもらうのが定石。
だけど九條先生に教えを乞うなんてとても無理だろう。確かに九條先生は高度な空間魔法を使えたり多くの依頼人から腕を認められていて能力としては私よりずっとすごいのかもしれない。
しかし性格が最悪すぎた。たとえ何度も頭を下げてお願いしても鼻で笑って無茶難題をふっかけてくるに違いない。九條先生はそんな人なのだから。
そして今日私は夏休みのゼミ活動として九條魔法事務所に向かった。やる内容はその時に決めるとのこと。
冷房がガンガン効いた廊下を抜け、どうか今回こそはまともなゼミになりますように、と願いを込めて私は扉を開く。
「九條先生、おはようございます。今日はいったい何をやるんですか」
事務所に入って九條先生に挨拶をする。
九條先生は定位置のチェアでふてぶてしくデスクに足を乗せてくつろいでいた。ただいつもと違ってどことなく元気がなさそうであった。といってもだいたいゼミの時はあまりないのだけど。
「姫宮くん、……今日は休みだ」
「えっ?」
あれ、そんなはずは……。ちゃんとスケジュール帳には今日って書いてあったんだけど……
「今日は暑すぎる。こんな日にゼミなんてやっていけるか」
「……は?」
「姫宮くん、わざわざここまで来てくれてご苦労だった。さ、もう帰っていいぞ」
「ちょ、ちょっと! いきなりそんな暑いから休みだなんて言われても困ります。お休みにするならちゃんと事前に連絡するべきですし、第一夏バテ程度でゼミを休みにするなんて非常識にもほどがありますよ! 横暴すぎます!」
「何が横暴だ。ここの事務所の主は私なんだ。主である私が休みと言えばそれでもう休みになるんだよ」
これにはさすがの私も腹が立った。こんなバカみたいに暑い日にわざわざ来たのに早々に帰れとは何事だ!
この夏の猛暑は九條先生のやる気を削いだようだが、どうやら私の場合結果的に怒りを倍増させるものでもあったらしい。
「分かりました、分かりましたとも! こんな悪徳事務所、もう来てやるもんですか!!」
私は、『フン』と思いっきり鼻を鳴らしその場を後にしてやった。
(本っ当に信じられない! 何であんな奴が私の師匠なんかに――)
もう絶対にあんな奴頼りになんかしない。私は自分自身の努力で強くなってやる。
私は心の中でそう強く誓った。
だけど怒りのあまり他のことに気が回らなかったせいか、事務所を出てすぐに人とぶつかってしまった。
「あっ……、すみません。大丈夫ですか?」
俯いた顔を見上げると、そこに映ったのはびっくりするくらいに綺麗な女性だった。私よりも色素の薄い金の髪にスラリとしたモデルのような体型。顔つきはとても整っていて、肌はシルクのように白かった。
「こちらこそごめんなさいね」
紡ぎだされた言葉はどこかイントネーションに訛りがあった。外国から来た人なのだろうか。
「それよりあなたここの事務所の方かしら。よかったら案内してくださらない?」
私はさっきの九條先生のやりとりを苦々しく思い出す。
「別にいいですけど……、でも何でも今日はお休みらしいですよ。とってもバカみたいな理由で」
「あら、それは困ったわね。せめてお話くらい聞いて下さらないのかしら」
「お通しするぶんにはいいと思いますけど……、多分気分を悪くされますよ」
何だかんだ言っても一応私もここのメンバーなわけで、女性の頼みを無碍に断ることができなかった。私は深くため息をつきながらも再度事務所のドアを開けた。
「何だ。まだ何か用か? 夏休みのゼミはこれで終わったことにしていいからもういいぞ」
九條先生の一語一語にムカつきが募ったが私は後ろに依頼人である女の人がいるのを意識して、怒気を強引に抑えつけた。
「依頼したいという人が来られたんですが、どうしましょう?」
「今日は休みにすると言っただろう。九條は今他の依頼が立て込んでいて大変忙しい、とでも言って帰ってもらえ」
一瞬、思いっきり何か物を投げつけてやろうかと思った。
だけどそうする前に女性が腰まで届く長い金髪を揺らしてひょいっと事務所のなかへ入ってしまった。
「あら、そうなんですか……、それは残念ですわね。せっかくここまでお越ししたんですけど……」
するとその女性を見た途端、九條先生はくわっと椅子から立ち上がった。
「……姫宮くん、そちらの方は」
「そちらの方って……、その依頼しに来たクライアントの方に決まって――」
私はセリフを言い切ることができなかった。言い切る前に九條先生が目にも止まらぬ速さで自室に戻られたのだ。
そして突然のことに茫然としてしばらく、九條先生が入られた部屋の扉が開かれた。身だしなみを整えてかっこよさげに頭に手を添えている先生が出てきて。
「いやはや、見苦しいお姿をお見せいたしました、マダム。私がこの事務所の魔法士、九條秀です」
――あまりの変容っぷりに度肝を抜かれた。こいつ誰? と
「失礼ですがお名前をお聞きしても?」
「セフィリア・ブランジェですわ」
「いい響きですね。太陽が燦々と降り注ぎ澄み渡るように青い地中海、そんな情景が思い浮かびそうだ」
「あの、私イタリア出身ではなくフランス出身なのですが――」
「ジャパニーズジョークというやつです。ささ、セフィ、話はこちらでうかがいましょう」
何だろう。猛烈に頭が痛くなってきた。
私の知る九條先生はベタな口説き文句を言ったり、馴れ馴れしく人を愛称で呼んだりもしない。
さらに信じられないことに椅子を引いてセフィリアさんをエスコートする始末。
「あら、東洋の人にしては紳士でらっしゃるのね」
「こんな麗しい女性を相手にするんです。男なら紳士的になるのは当然でしょう。ま、私は根っからの紳士ですがね。はっはっは」
どこが!?
少なくとも私はさっきの対応の100分の1も受けたことないんですが……?
「九條先生、今日はもうお休みにするんじゃなかったんですか?」
「何を言っている、姫宮くん? たとえ休みだろうがクライアントが来たのなら身を粉にして尽くすのが魔法士というものだろう」
そんな言葉、九條先生の口からお聞きできるとは夢にも思いませんでした……
「けど入ってくる時依頼が立て込んで手が回らないとの声をお聞きしたような……」
「いやだな、セフィ。たとえ100の依頼があろうとも私にとっては負担でもなんでもないさ。そんなことよりこんなにも綺麗な君の依頼をみすみす逃してしまう方が心を傷めてしまうよ」
「まぁ面白いことを言うのね」
納得いかない。
どうしてセフィリアさんに対する好意を私に1ミリも与えてくれないのか。せめて馬鹿にするのをやめてくれればそれでいいのに。
ふと、九條先生がある一点を見つめているのに気が付いた。その先にはセフィリアさん、いやセフィリアさんの豊かな胸部があった。夏ということもあり服が薄めなせいか余計に強調されているようにも見える。
こんなスラリとしてかつ出るとこは出てるスタイル本当にありなのか。日本人ではこんな人ほとんどいないに違いない。胸なんて私のよりもひとまわり、ふたまわり……、とにかくとても大きいのだ。
……どうせ私はまだまだ子どもですよ
◇
「それでセフィ、この私にぜひとも頼みたい依頼というのは?」
いつにも増してむかつくほどに輝いている九條先生がセフィリアさんに問うた。
「私は中東でお父様が経営されている魔鉱石発掘企業の役員をしていて、今回は北海道にある発掘場の視察のため来訪しました。けれどそこに行くには魔境を通らないといけないんです。私は魔法なんて使えないものですからそこまで行くのに護衛の方達が欲しくって」
「なるほど。発掘場の視察ですか。しかし大企業の社長令嬢なら専用のボディガードもすでにいるのでは?」
「もちろんいますわ。しかし何というか私のボディガード、胃腸が極端に弱くて。日本の食事が合わず、今入院なさってるの。ですからお父様のご友人よりこちらを薦められておうかがいしたのですわ」
「なるほど、よくわかりました。しかしそのボディガード、自分の健康管理すらままならないとは問題ですね。どうです? これを機にこの私をボディガードにしてみるのは? いかなる時もあなたを護るだけでなく、朝から夜まであなたを飽きさせませんよ?」
「はい、お茶です。ど・う・ぞ」
「あっつっ!」
九條先生がセフィリアさんの手をとろうとしていたので、私はカップから飛び出るくらい波立たせて九條先生の前に紅茶を置いてやった。結果、九條先生は滑稽な顔をひけらかしてくれた。私としてもそんな先生を見れてちょっとは気分を晴らすことができた。
「あら? このダージリンティー、もしかしてシルバーティップスかしら」
ふと紅茶に手をかけたセフィリアさんが口を開く。九條先生がお客様に出す緑茶や紅茶はどれも高そうなものなのであるが、セフィリアさんはそれを飲んだだけで品種を当てたみたいだった。
「ほう、セフィ、あなたは紅茶の造詣が深いのですか? これは驚いた」
「ふふ、私こう見えて大の紅茶好きなの。学生の頃はよく同級生たちとお茶会を開いたものだったわ。ところでよくこの紅茶が日本で手に入りましたわね。苦労なされたでしょう」
「ええ、それはもう。しかし私は専門店の主人と仲が良くてね。優先的に回してもらえるんですよ。私がその主人に会ったのは私の事務所に主人が依頼を持ってきたのがはじまりでしてね。その依頼というのが幻の紅茶を探して欲しいという大層なもので――」
九條先生とセフィリアさんはそうして楽しそうに紅茶談義にいそしみ始めた。そこまで詳しくない私には何が何だかさっぱりだ。ティーバッグかどうかはかろうじて判別できるけどそれだけだ。
だから何だろう……、こうやって通な話を繰り広げてる二人を見てると羨ましいというかすごいというか……
しかしふと淹れた紅茶の缶を見ると、そこには『マンガラン(アッサムティー)』との文字が書いてあって――
「どうした、姫宮くん?」
私は咄嗟にその缶を二人の死角の位置に隠した。
紅茶を飲んで品種を言ってみせたセフィリアさん(盛大に間違えている)や、紅茶の博識な知識を喋り続ける九條先生(おそらく知ったかぶってる)にこれを見せるわけにはいかなかった。
「あらあら、マナちゃんにはまだ難しすぎたのかしらね」
「あはは、私はまだまだ若輩者ですから……」
引きつりそうな口元を必死に制し、私はセフィリアさんに愛想笑いをするしかなかった。
「――ところでセフィ、依頼料についてなのだが」
そう言って九條先生はセフィリアさんに一枚の紙を見せた。そこには請求額が書いてあって相変わらず大金をふっかけていたのだが、その上に斜線が引かれた数字があったことから本来はもっと高かったようだ。多分、美人割引ってものだろう。解せない。
だけどそれを見てセフィリアさんは困った顔をした。
「九條先生、申し訳ないのだけれど私あまりキャッシュを持ち歩いてきてないの。専属のボディガードが急に具合悪くなるなんて思ってなかったから」
その言葉に九條先生は少しだけ難しい顔をする。おそらくセフィリアさんの護衛ができることと依頼料を天秤にかけているのだろう。
するとセフィリアさんは九條先生の耳元で何かをそっとつぶやいた。
「しょうがないなぁ、セフィ。今回だけは特別価格だぞ」
九條先生が発したのは背中が冷たくなるような甘い声。何を言われたか聞こえなかったけど、何て言われたかちょっとだけ想像ついた気がした。大人って怖い……
しかしである。何だか腑に落ちないけれど、これは私にとっても嬉しいものだった。何せようやくまともそうな依頼にありつけるチャンスなのだ。まともな魔法修行が見込めない以上、こういったもので経験を積むしか道はない。でなければそれこそこのゼミに入った意義というのがなくなってしまう。
「じゃあ九條先生、私も今すぐ準備しに参りますね!」
「馬鹿を言え。せっかくのセフィとの長旅なんだ。貴様なんぞいらん。それに前の護衛の時にマジック・リングを壊してしまっただろう? なら前も言った通りお前がいても足手まといだ」
「うっ……」
確かにマジック・リングなしに障壁魔法を素早く展開できるなんて私じゃまだ無理だ。けれどせっかくの護衛の任務で遠出である。連れて行ってくれてもいいじゃないか。その……、せっかくの夏休みだし……
「あら、かまわないじゃありませんか。こんな可愛い女の子がいた方がきっと楽しい旅になりますよ。こっちのことわざでは可愛い子には旅をさせろ、というじゃありませんか」
と、ここでセフィリアさんが助け舟を出してくれた。セフィリアさんは私を見て微笑みを浮かべる。
しかし九條先生はセフィリアさんの賛同があっても、渋り気味であった。そこまでセフィリアさんと二人きりの護衛をしたかったらしい。
するとまたセフィリアさんはずいっと九條先生の前まで顔をだし、何か再びつぶやいた。
「まったくセフィはしょうがないなぁ。そこまで言うのならこちらとしても引き下がれまい。フフフ……」
九條先生はニタァ気持ち悪い笑みを浮かべて了承した。
大人って本当にサイテーだなって私は心の底から思った。