第二話
■ SAKURA ■
日曜。午後12時半。天気はそれなり。気温もそれなり。
アヤに言われたから、というわけでもないが、やはり待ち合わせで女の子を待たせるなんてのは言語道断。
約束の時間に遅れるのは問題だが、早く来ることは全く問題ない、ってなわけで俺は随分早くからここ、ナ像前にいた。
ナ像というのは、市街地の駅前にある待ち合わせポイントの一つ。ちなみに正式名称ではない。というか正式名称を知らない。
三角やら四角やら丸やらを組み合わせた物体の像。その集合体は人の形を模しているが、色々と歪で、頑張らないと人間には見えてこない。
制作者も、なにを目的として作られた像なのかも、そもそもこの像は一体ナニなのかも分からない。全てが謎。
そんなだから、一部の人間がこの謎の像を、ナゾの像。ナゾ像。……そして最終的にはナ像と呼び始め、今ではそれが定着しているのであった。
俺は何気なく周囲を見渡す。それなりにいる周囲の人たちの中に、見知った顔は見あたらない。さすがのアヤとケイも空気を読んだか。
隠れている可能性も否定できないが……まあ、ここは二人の常識力を信じることにしよう。
…………あれ? 何だか凄く不安になってきた?
いやしかし、他人の『デート』に隠れてついてくるなんてドラマや漫画の話で、実際にそれを実行に移す人間はいるんだろうか?
そもそも、本人達にバレないように後をつけるのはかなり難しいことな気がする。やったことがないから何とも言えないけれど。
それにしても、デートである。
デート。逢い引き。男と女が一緒に出かける行為。
自慢じゃないが、俺は生まれてから一度もデートをしたことがない。アヤ以外の女の子と一緒に出かけることすら稀だ。
しかもそのアヤとも、二人きりってわけじゃない。大体いつもケイも入れて、幼馴染みの3人組で出かけることになる。
つまり、俺に絶望的に足りていないのは、経験値だ。
女の子……しかもアヤのような、気が知れた仲ではない……とのデートに、言うなればレベル1の俺が緊張していないわけがなかった。
何を話せばいい?
どう動けばいい?
考えれば考えるほど分からなくなる。気持ちばかりが焦って、変な汗が出てきそうだ。
約束の時間の10分前。
落ち着きなくキョロキョロと視線を動かしていた俺は、向こうから歩いてくる女の子を見つけた。流れるような黒髪を揺らしながら、小さな足取りでこっちに真っ直ぐ向かってくる。
白いワンピースを着たその姿は、清楚、という言葉が似合っていると思った。そう、あれだ。つまりアヤとは真逆な感じ。
「す、すいません。遅れましたか?」
「いや、まだ時間前だよ。俺が早く来すぎただけ」
「そうですか。あ、でも待たせてしまったのは事実ですよね。ごめんなさい」
「いやいや、約束の時間前なんだから別に謝る必要ないって。堂々としてればいいよ」
「そ、そうですか。ごめんなさい」
「いや、だから……はは」
思わず笑ってしまう。たった3回会話しただけで、3回も謝られた。加島さんには少しも悪いところはないのに。
こんな調子で謝られ続けたら、果たして今日だけで何回「ごめんなさい」されるんだろう。
俺が笑ったのを見て、きょとんとする加島さん。どうしてか分からない様子だった。
ううむ、改めて思うが、随分と可愛らしい子である。こんな子が俺に手紙を出してデートに誘ってくる……本当に、夢みたいな話だ。
ドッキリじゃないだろうな。マジで。これで後になってアヤとケイが笑いながら出てきて、「ドッキリ大成功ー!」なんて言ってきたら勢いでサツガイしかねないぞ。俺。
「それで、今日はどうするんだ? 行きたいところあるんだよね?」
「い、いえー、特には……」
「え? だって、俺とどこかに行きたいと思ったから誘ってくれたんだよね?」
「え、は、はい、そうです。あの、佐倉さんと一緒に、どこかに行けたらな、って」
「……えっと、『どこか』に?」
「は、はい、『どこか』に」
ふははなるほど。この佐倉櫻と一緒なら、どこに行くことになっても構わないと、つまりはそういうことなんだな?
……ちょっと待って下さい。今回は加島さんが誘ってくれたから、てっきり行きたいところあるんだろうなーとか思って、行き先のプランなんて何も立ててないよ?
加島さんがどういうことが好きで、どういうことが嫌いなのかも分からない現状で……い、一体どこに行けばいいんだ?
「あ、あのっ」
お互いしばしの沈黙の後で、加島さんが意を決したように言った。
「も、もしよかったらなんですけど……いつも、佐倉さんが行くところに連れて行ってくださいませんか?」
え? 俺がいつも行くようなところ?
いや、そうなるとゲーセンとかカラオケとか、そういうところになるんだけど……いいの?
「はい。私、もっと佐倉さんのことが知りたいんです。何が好きなのか、いつもどういうことをしているのか」
でも、それで俺だけ楽しくなったりしたら悪い気がするんだけど。
加島さんの苦手なこととか、そういうのだけ教えてもらえるかな? そういう場所は除外するからさ。
「い、いえ、構いません」
……はい?
「わ、私が苦手だとしても、それを佐倉さんが好きだと言うなら……私も、好きになります」
真剣な表情で加島さんはそう言った。
で、でも、そこまでしてくれなくても。嫌いなことはやっぱり嫌いだし、それを好きになるなんてかなり大変だと思うよ?
無理して付き合ってくれても、俺が楽しくないから。やっぱり一緒に行動するんなら、二人で楽しまないとね。
「で、ではその、一つだけ……」
うん。遠慮無く言って。
「……ちな、ところとか」
へ?
ごめん、聞き取れなかったからもう一回言ってくれるかな。
「………とか」
いやいやさっきよりも声が小さくなってるよ?
そしてなんでそんなに赤くなってるのかな。俺、何か恥ずかしいことを聞いた?
「あの! え、えっちなところとかは! ……そ、その、苦手っていうか、だめだっていうか、わ、私にはまだ早いって、思って」
加島さんは顔を真っ赤にしながら、吐き出すようにそう言った。
……ちょっと待って加島さん。それって、俺が常日頃からえっちな場所に行ってそうってこと?
「さ、最近の高校生はススんでる、って話を、友達から聞いて……あ、いえ! 別に佐倉さんが特別そういう風な人だと思っていたわけではないです!」
慌てて手を振りながら否定する加島さん。
……いや、そりゃあ俺だって男だし、そういう場所に興味がないと言ったら嘘に……
って俺は何を言ってるんだ。別にそれは今話すべき事じゃないだろ。
相手がアヤとかケイなら余裕で言えることなんだが、加島さんに対して言っちゃダメだ。自重しろ俺。
「す、すいません。変なこと言っちゃって」
おーけーおーけー。気にしなくていいよ。とにかくそういう場所は徹底的に除外して考えてみるから。
とは言っても最初からえっちな場所なんて選択肢にないわけだが。レベル1の俺だって、そこまで愚かじゃない。
そもそもえっちな場所ってどこだよ。夜の繁華街? でもそんな場所は夜しかしてないと思うから、行っても無駄だろうし。
てか落ち着け俺。俺高校生。未成年。酒も飲めない煙草も吸えない。夜の繁華街なんてまだ早い。具体的に言うと4年ぐらい早い。
「こういうところには久々に入りましたけど……最近のクレーンゲームの景品はすごいんですね」
俺がいつもアヤたちと行くゲームセンターに来て、とりあえず中をぐるりと一周した後の感想がそれだった。まあ、取れるか取れないかは別にして、景品は進化を続けていると思う。ぬいぐるみからキャラクターものの日用品、生き物、お菓子などなど。あのアームで取れるものならば何でも入れるんじゃないかって勢いだ。
「小瓶に入ったエビとかありましたよ。取って景品口に落としたときに割れたりしないんでしょうか?」
いや、そこはちゃんと計算してると思う。さすがに取ったのに壊れたら景品として成り立たないし。
加島さんが言っているのは小さなビンの中に入っていた、全長1センチほどの小さなエビだ。なんでもエサを与えなくても大丈夫らしく、そのままの状態で部屋においておくことが可能だとか。
「おなか、空かないんでしょうか?」
食べないで生きていける生物はいないと思うから、何かしら食べてるんじゃないかな。微生物、とか?
「は~……なんかすごいですね」
感心したように加島さんが言う。結構前に、初めてクレーンゲームに伊勢えびだっけかが景品として登場したときにニュースになった気がしたが、生き物を遊びの景品として扱うことには否定的ではないみたいだ。
「あの個室になっていた機械はどんなゲームなんですか?」
ゲーセンの隅のほうにあったそれは、今とても人気があるオンライン対応対戦型メカアクションゲームで、名前は『コア・シューター』という。プレイヤーはそれぞれコクピットのようになっている個室の中に入り、まるで自分が実際に操縦しているかのようにゲームができるのだ。
でもあのゲームはライトゲーマーには向かないだろう。覚えることもやることもたくさんありすぎて、加島さんみたいなタイプには合いそうにない。
「佐倉さんはやったことがあるんです?」
あー、アヤに誘われてちょっとだけ。あのバカ、自分が散々練習して操作覚えてからいきなり勝負ふっかけてきて、でも完全初心者の俺に負けるという伝説を生み出したよ。
「佐倉さんはゲームが上手なんですね」
いや、この場合はアヤが弱すぎただけで、俺は普通なぐらい。たぶん加島さんとアヤが勝負しても、もしかすると負けるんじゃないかな、アヤのほうが。
「さ、さすがにそれはないと思いますけど……」
いやそれが普通にあるんだなぁ。システムとか操作を理解しても、実際操作してると頭がついてきてなかったり、頭がついてきてても下す判断が終わってたりするわけだよ。
……いや待てよ? 加島さんのリアルどじっ子属性もかなりの破壊力があるんじゃなかろうか。現実ではどじするけど、ゲームだと俊敏になるとはとても思えない。仮に自爆ボタンがついてたりしたら、まず最初にそれを押しそうな気がしてならないぞ。
「付いてるんですか、自爆ボタン」
いやないけどさ!
とまあ、そんな感じでゲーセン一周してきたわけだけど、面白そうなのあった? 見てるだけじゃ意味ないから、何かやろうじゃないか。
「どれもこれも難しそうで、私には上手くできそうにないんですけど……」
や、別にね、上手くやることなんてないんだよ。上手いに越したことはないかもしれないけど、ぶっちゃけ楽しめればいいんだ。ここでは。
てなわけで、楽しそうなのを選んでくれたまえ。やったことがあるやつなら教えられるし。
「えっと、そう言われると……おすすめとか、ないんです?」
お勧めって言われてもなー。加島さんみたいな女の子には、やっぱりクレーンゲームとか、パズルゲーム、ってところかなぁ。
「あのコア・シューターっていうのはできそうにないです?」
あれまさかの興味アリですか?
勝手なイメージで、ああいうのは女の子は好きじゃないって思ってたけど。
「ゲームの中で、ロボットを自由に動かせるんですよね? 少なくてもあの、レバーとかついててガチャガチャしてるものよりはできそうな気がします」
ん、格闘ゲームのことかな。確かに格闘ゲームは敷居が高い気がするね。特に対人とか、やりこんでる人相手だと一方的なサンドバックになるし。
とりあえず、俺たちはコア・シューターの筐体が設置されているところへとやってきた。何人かのプレイヤーがゲーム中のようで、コクピット型の個室筐体がぐわんぐわんと揺れている。ゲームでの振動や機体の傾きが、そのまま反映されるのだ。
「うごいてます……」
その筐体の動きをじっと見つめる加島さん。ああいうのが珍しいんだろう。
このコア・シューターというゲームは、やるとしたら専用のプレイヤーカードを作らないといけない。そのカードにはプレイヤーのデータや戦歴が残せるのだが、今回は俺のを使うことにしよう。ちなみに1プレイ300円である。財布には決して優しくない。
空いていた筐体の中へ加島さんを誘導する。椅子に座らせて、シートベルト装着。簡単に操作の説明をして、100円玉を3枚、投入口に飲ませてやった。
ゲームセレクトでチュートリアルモードを選択。あとは画面にしたがっていけば、基本は問題ないだろう。
「って、え、佐倉さん行っちゃうんですか!?」
いやこれ個室だし。ちゃんとドア閉めてやらないと危ないからね。だいじょぶだいじょぶ、ちゃんと近くで見てるから。
「や、やっぱり無理です一人でなんてそんな、え、ドアを閉めてくださいって警告が出てます? いや閉められると困りますってあああ佐倉さんが裏切ったぁぁー!」
ガチャン、という音がして、筐体のドアが閉められた。いや閉めたの俺だけど。
とにかくこういうのはやってみるべきなのだ。別に無理だったからって失うものといったら、俺の300円ぐらいだし。
半透明の窓の向こうから、ちょっと怒った様子の加島さんが俺をじっと睨んでいた。しかし怖いというよりそれは可愛く映る。ああ、可愛いは正義ってどこかで見たことあるけど、あれは正しいんだなぁ。
俺は前を見るように指で指示する。もう既にゲームはスタートしていて、きっと今は「右のレバーを動かしてください」的なチュートリアルが展開してるはずだ。
さて、と俺は一息ついた。ここまでは大きな問題もなくやってこれているが、この先は一体どうすればいいのだろう。まさかずっとゲーセンに入り浸るわけにもいかないだろう。やっぱり小腹がすいてきたところでどこかでお茶でも飲んで、あとは……俺がいつも行くところとなると、ボウリング、カラオケってところなんだが、どこもイマイチな気がしてならない。
俺が考えていると、グワングワンと動いていた加島さんの乗る筐体の動きが止まった。少し遅れて、加島さんがドアを開けて出てくる。ゲームは無事に終了したようだ。
「おつかれー。どうだった?」
感想を求めてみる。
「あ、はい。思ってたよりも簡単でした」
おお、これも意外な反応。あたふたおろおろして何もできないまま終わるかもしれないなと思ってたんだけど。
「なんだか操作してたら、いきなり目の前が茶色系の色で染まってですね。攻撃ボタンをずっと押しっぱなしにしてたら、爆発して、勝ちました」
……んん?
ねえ加島さん。それ本当に勝ったの?
「勝った、と思いますけど。だって私、勝負に勝ったから解放されたんですよね?」
それ違う! 勝ったら解放されるっていう発想がまず違う!
俺は自分のカードを戦歴確認用の筐体に挿入してみた。結果は負けとなっていて、敗因は『自爆』とある。
「こ、この子……自爆ボタンがないからって、自らの武器を使って自爆するなんて……ッ!」
「え? なんですか、もしかして私、すごいですか?」
「ああ、すごいよホントにすごい! やっぱり加島さんにこのゲーム無理だわ!」
目の前が茶色で染まった、ということは、加島さんは地面に向けて自分の武器を発射しまくり、爆風やら破片に巻き込まれて破壊されたのだろう。チュートリアルモードで撃破されたという戦歴が、俺のカードに未来永劫刻まれることとなった。まあ、別にそんなの気にはしないが。
コア・シューターから離れ、近くにあったクレーンゲームコーナーに移動。各種様々なプライズ品が、ガラスの向こう側で俺たちとの出会いを待っている世界だ。
「何か欲しいのあったら、取れるかどうか試すよ?」
クレーンゲームにはアタリハズレがある。どんなに取れそうに見えても、アームの力が弱すぎたり、景品が予想以上に重かったりしたらお手上げだ。
「結構簡単そうに見えますけど……あのアームで掴み上げるんですよね?」
やったことがない人間はそう考えるのは極めて自然のことなので仕方がない。でも現実はもっと厳しいのだ。
俺は適当に、目の前にあったクレーンゲームに100円を入れる。そして加島さんが見守る中、何も考えずに景品……ぬいぐるみの真上にアームを移動させてセット。あとは自動的にアームがぬいぐるみまで降りてきて、掴んでくれる。
「佐倉さん上手いですっ! これで……ええっ!?」
加島さんが驚きの声を上げた。アームは完全にぬいぐるみを掴んでいた。がっちりキャッチしていた。けど、上に持ち上げる動作の途中で、するすると力なくすり抜けていく……!
「とまあ、最近のアームはこんな感じで、めっちゃ弱く設定されてるのさ」
「そんな! こ、これじゃあ取れるものなんて一つもないんじゃ……?」
「いや、そこが頭の使いどころ。持ち上げられないのなら、動かして落とせばいいじゃない戦法」
「動かして、落とす……?」
しばらく考えていた加島さんは、ぽん、と手を叩いた。
「わかりました!」
ガシィッ、とクレーンゲームの筐体を両手で掴む!
「動かして、落とすんですね!」
動かすのはそれと違うーーーー!!
ちょっと冷静に考えよう! 筐体をいくら頑張って揺らしたところで、景品を景品口に落とすのなんて無理でしょ! よっぽどの怪力で、筐体を持ち上げるぐらいの勢いで揺らせるなら話しは別だけど!
「つまり、体を鍛えて出直して来いってことですか!」
違う違う! アームを使うの! 肉体は使っちゃダメなのー!!
ゲーセンを出た後、俺たちは付近の店をぶらぶらと回った。
特に何かを探しているわけでもなく、実際に買ったものもなかったが、自分と感覚が違う人と一緒に買い物をするというのはなかなか楽しい。小物雑貨店で「かわいい」の基準についての議論をしたのだが、これがまた白熱した。女の子のかわいい、って、男の俺にはなかなか理解できそうもない。キモかわいいとか、もう無理な領域である。
で。
お金がない学生の選択肢はそれほど多くない。お洒落な喫茶店で雰囲気を作るのもいいが、それで珈琲一杯400円とか500円とか、俺の財布が爆発してしまう。
そんなわけで加島さんの了解を得て、最後にやってきたのが近場のマックなのであった。
お互い注文を済ませて、席に向かい合う形で座る。近くにいる他のお客さんたちが、ちらり、と加島さんの方を見た。気のせいじゃない。明らかに視線を集めている。それに加島さんは気づいているのかいないのか……いや、気づいてないだろう。気づいてるならこんな平然としていられるとは思えん。
加島さんの腕の中には、それなりに大きく、目つきがとてつもなく悪いウサギの人形があった。
それは正直言うと今の加島さんの容姿とはかなりのミスマッチで、例えばパスタの上に寿司がポンと乗せられてるっていうか、そういう色々ぶち壊して残念な感じになっているのであった。
やばい、俺、ゲーセンで取ってあげる景品を完全に間違えた。今更ながらそう思うが、もはや手遅れもいいところである。もう加島さんはその悪ウサ(勝手に命名)を、買い物途中もずっと大事そうに両手で抱き締めて離そうとしない。
「にへへへー」
しかも幸せそうに笑ってらっしゃる。ちょっと変な笑い声だが、それを完全に帳消しにしてなお余りある笑顔だ。もうダメだ。俺にはもう、あの悪ウサを取り上げるなんて、そんな悪魔じみたことはできそうもない。
「加島さん、ごめん……」
「え、な、なんで謝るんですか佐倉さん」
「隣のクマにしておけばよかったね……」
「あの、何故か水着を着てセクシーポーズをとっていたクマのことですか。だったら、このうーさんの方が絶対に可愛いですよ!」
うーさんって。今うーさんって言った!
もう呼び名すら決まっちゃってる!
「ありがとうございます……もうこれ、私の家の家宝にしますから!」
勘弁してください!
帰りの電車の時間が迫っているので、もうあんまり時間はない。でも俺は帰る前に、こうやって座ってゆっくりと加島さんと話をしたいと思っていた。
俺は加島さんのことを何も知らない。知っていることと言えば、俺にラブレターを出してきて、こうして週末に一緒に出かけようと誘ってきた同級生の可愛い女の子、ということだけだ。お互いのことを知ること、これ大事。
「てなわけで、佐倉サクラです。よろしくお願いします」
「え? い、いきなりどうしたんですか佐倉さん?」
「改めて自己紹介しておこうかなーって。ほら、やってなかった気がするし」
「そうでしたっけ……? え、ええぇっと……加島ユズっていいます」
そう言ってペコリと頭を下げる加島さん。うーん、律儀だ。
加島さんはゆっくりと頭を上げると、恥ずかしそうにうーさんに顔半分を埋めながら、
「あ、あの、苗字じゃなくって、ユズ、って名前で呼んで欲しいな。とか」
呼び名は親しさの証でもあるが……。
女の子の名前を呼び捨てるというのは、結構ハードルが高い気がした。加島さんはおとなしそうに見えて、やるときは一気に踏み込んでくるタイプみたいだ。
「さすがにいきなり呼び捨ては気が引けるから、ユズちゃんでいいかな」
「は、はい……その方が助かるかもです。私の心臓への負担が」
少しホッとしたように加島さ……いや、ユズちゃんが言った。
しかし名前を呼ばれただけでドキドキするかぁ。可愛いよなぁ。
「しつこいみたいだけど、ドッキリじゃないよね?」
「は、はい? なんの話です?」
きょとんとするユズちゃんである。演技じゃない、と思いたいところ。てかこれが演技だったら、俺は確実に女性不審になるわ。もう女の人を信じられなくなりそう。
「そういやさ。俺たち同級生なんだから、敬語使わなくてもいいよ?」
ふと思いついて俺が言った。会ってからここまで、ユズちゃんはずっと俺に対して敬語を使いっぱなしだ。なんだか後輩みたいなイメージが付き始めているが、同学年なのである。
「いえ、別にこれは佐倉さんに気を使っているとかそういうわけじゃなくて、私の素がこれなんです」
素で敬語なのか。珍しいよね、と言葉に出しかけて俺はふと止める。そういやクラスメイトにも敬語を使う人はいるし、あんまり珍しくもないのかも?
「私の友達からも、なんだか余所余所しいからやめなさいって言われたりもするんですけど……」
まぁねえ。でも素でずっとやってきたのに、いきなりやめろって言われてもなかなかできないよなあ。
「佐倉さんは、敬語を使われるのは嫌ですか?」
俺? 別にこだわりはないから、どんな言葉遣いだって気にしないよ? 身近に恐ろしく口が悪い人間もいるしな。底辺を見てると、他がかわいく見えてくるもんだよ。
俺はホットコーヒーに手を伸ばす。ちなみにブラックではない。ブラックコーヒーを飲むとカッコいい気がするとか、真のコーヒー好きは余計なものを入れずにブラックを飲むとか、そんなのは幻想なのである。コーヒーが好きだと言うのなら、もれなく全てのコーヒーを愛すべきなのだ。
……まあ、コーヒーは今はどうでもいいか。
「ユズちゃんに質問いいかな」
「はい、私に答えられることなら」
最初から気になっていたこと一つ。
この前の教室が初対面であり、今まで接点という接点がなかったのに、どうして……
「俺のどこを気にいってくれたんだ?」
本気で疑問だった。
今後のためにも、是非にも聞いておかねばなるまい。
「え! い、今言うんですか?!」
「できれば」
「う、うぅうう……ほ、ほんとうに?」
「ほんとうに」
「うぐぐ」
ユズちゃんは恥ずかしそうに目を泳がせまくっていたが、じっと凝視し続ける俺の視線にやがて観念したのか、小さく深呼吸をした。
「……佐倉さんのクラスって、学校でも有名じゃないですか」
喜んでいいのかどうかは微妙なところだが、ユズちゃんの言ってることは本当だ。うちのクラスの委員長はとにかくぶっ飛んだ人間で個人としても有名なのだが、その委員長に引っ張られる感じで2年9組という学級そのものも一目置かれる存在になっている。良い意味でも、悪い意味でも、だ。
「去年のクラス対抗球技大会のときに、9組は面白そうだから、って友達みんなで見に行ったんです。佐倉さんたちのバスケットボールを」
ああ……去年の球技大会ね。そういえば俺たちのクラスがバスケの試合したとき、決勝でもなんでもないのにやけにギャラリーの数が多かった気がする。ちなみに結果は一回戦敗退……つまり、その大勢のギャラリーが見ていた試合で負けたってことだ。
「期待にそえるような試合でもなかったし、面白いことも何もなかったと思うけど?」
「いえ、その、試合内容もかなり予想の斜め上をいってましたけど……」
いつの間にかボールが1個増えてたり、相手チームの靴が床に張り付いて盛大に転んだりな。全部審判に見つかって主犯の委員長が退場食らってたが。
「佐倉さん、かっこよくて。私、ずっと見てました」
「へ? いやいやそんなバカな。俺、あの試合で1点も取ってないけど」
ぶっちゃけ目立ってなかったと思う。
カッコいいと思われるようなことをした覚えがないんだが。
「いーえ。佐倉さん、かっこよかったです!」
ええ? 俺、そんな特別な事やったっけ?
俺より活躍してたやつなんてごろごろいると思うんだが……。
「目立っていればかっこいい、ってわけじゃないんですよ」
うーん、そういうものかねえ。
でもま、目立つだけじゃあダメだろうなぁ。もし目立つだけで異性を虜にできるのなら、うちの委員長は今頃逆ハーレム状態だろう。毎日違う男と一緒に歩いてそうだ。
「9組の委員長さん、すごいですよね」
うん、すごいねあれは。
でもユズちゃんは真似しちゃだめだよ。あの手は遠くから眺めて楽しむのが一番いい。
「ちょっと羨ましいって思うこともありますよ。あそこまでアクティブに生きていたら、毎日が楽しいだろうなーって」
巻き込まれる周りの人間は迷惑極まりないけどな?
「でも、嫌いじゃないんですよね」
あれが嫌われてたら、今頃委員長の座から引きずり下ろされてるわ。誰も委員長って役職はやりたがらないだろうけど、あれに任せるよりはマシだろうって考えるだろうし。自分ひとりだけで暴走するだけならいいんだけど、あれはクラス全体を巻き込むからなぁ。
ふと見ると、ユズちゃんが小さく笑っていた。
「いいなぁ。私も9組に行きたいです」
「え? そんなに苦労を背負いたいの?」
「楽しそうじゃないですか。いい思い出、たくさん残せそうです」
俺はそれを否定しようとして……やめた。委員長のやることに巻き込まれるのは大変で、たまに迷惑することもあるが……うん。終わってみてから考えると、楽しかったと言えるかもしれない。何年か先に、笑いながら話せることになるだろう。
「それに9組には、佐倉さんも……いますし」
恥ずかしそうに言うユズちゃん。すごい破壊力だ。これだけで撃沈する男がいてもおかしくない。本人にその意思があるかどうかはわからないが、どちらにしろ恐ろしい子である。
「さ、佐倉さん」
ユズちゃんは、ずっと腕の中にあったうーさんを隣に置いた。
「今日はお付き合いいただいて、ありがとうございました」
小さく頭を下げる。
「でも……このままお別れして曖昧になるのは嫌なので……はっきりしたいです」
これ以上ないぐらいに顔を赤くして、だけど視線はじっと俺を見たまま逸らさないで。
「──好き、です。私と、付き合ってください」
<>
「わたしのまえを、あるけるおとこになりなさい」
『彼女』はそう言った。偉そうに腰に手を当てて、胸を張りながら。
「いまのままじゃ、たよりないからね。わたしもしんぱいなんだよ?」
意地悪っぽく笑う。それはいつものことだった。
いつも俺を引っ張りまわしたその少女は、その日、
「もしね、わたしのまえを、あるけるようなおとこになったら」
その日、
「わたしのことを、まもれるようなおとこになったら」
その日、
「わたしを、あげる」
その、ひ、
<>
ユズちゃん、がんばる。