Sweet happy valentine
二月十三日の金曜日。ボクは夜更かしをした。
目が覚めると時刻は午前十時。布団に入ったのが午前三時過ぎだったから、睡眠時間は六時間半ほどか。ふむ。まあまあだな。
しかし何だろう。どうして昼近くまで寝ると頭がボーッとするのだろう。コレはアレかね。普段週五日は規則正しい生活をしていると、たまに生活のリズムが崩れると頭に負担がかかるのかね。
むう、いかん。
頭が回らん。日本語もどこかおかしい。
カフェインが必要だ。
早急にコーヒーを飲む必要がある。
ボクはしょぼしょぼした目のまま、階下の台所を目指した。
ウチもそうだが、子供部屋が二階にあるご家庭が多いのはなぜだろう。どうでもいいけど。
視界が磨りガラス越しの風景のように見えるのは、メガネをかけていないからだ。
それでも何とかなるのが住み慣れた我が家のステキ。
なんか下が騒がしいなあ。それに甘い匂い。チョコレートかな。
そう思っていると、
「あ」
「あ」
一階に下りたところで、髪の長い女の子と出くわした。
あー。どちら様でしょう。
母さん、ではないな。女の子だ。
妹はいるけど、こんなに髪長くないし。
むむむ。頭がボーッとしてるなあ。
びっくりして固まっているらしい女の子の顔を詳しく確認しようと、ボクは目を細めて近づいた。
「ひ」
女の子はさらに緊張して小さな悲鳴をあげた。
耳まで真っ赤にしているのが分かる少し地味めな顔。日本人形みたいだ。
えーと誰だっけ。妹の友達でこんなカンジの子。
何度かウチに遊びにきた事あるよな。
名前。名前は確か、
「ああ、エリちゃんか。誰かと思った。いらっしゃい」
急にあらわれた友達の兄貴に名前を呼ばれれば、そりゃ緊張もするよな。
蚊が鳴くような小さな声で、エリちゃんは「は、はいお邪魔してます」と返事をした。
馴れ馴れしいかな。でも、苗字を知らないんだよな。
「あれ? エリちゃんだっけ? リエちゃんだっけ? どっちだっけ?」
「あの……エリであってます……」
それにしても声の小さい子だなあ。
「何これ。何やってんの?」
キッチンに入ると、チョコレートの甘い匂いがより濃厚になった。
妹と妹の友達(こちらは名前が思い出せない。でも何度か見た事あるボーイッシュなカンジの女の子)が、ダイニングテーブルいっぱいにボールやまな板、その他モロモロを広げていた。
「おはようお兄ちゃん。今日は何の日でしょう?」
「今日? 十三日の金曜日の次の日だから十四日の土曜日?」
「何言ってんの?」
見えなくても分かったぞ。冷たい視線をお兄ちゃんに向けただろ。くそう。こないだケータイ失くしたってケータイから電話かけてきたちょっと知能指数低めな妹のクセに。
「アハハハ。お兄さん。今日はヴァレンタインっすよー」
「バレンタイン?」
「ヴァレンタインっすよー。『ヴァ』っす『ヴァ』。りぴーとあふたみー」
妹の友達が笑いながら教えてくれた。りぴーとあふたみーはしなかったが。
そうか。バレンタインか。
二月ももう真ん中か。先週正月だったような気がするのに、時が経つのは早いなあ。
それにしても、この子はエリちゃんと違って元気な声で好印象だな。
「アハハ。ところでお兄さんはチョコもらえるんすかー」
前言撤回。コイツのテンションやりづれえ。あ。思い出した。この子の名前はミヤちゃんだ。
無言のボクは冷蔵庫を開けて、買いダメしてあった缶コーヒーを取り出し、一口で半分ほど飲んだ。
糖分とカフェインが同時に補給される。
よーしよしよし。冴えてきたぞ。
「そうか。それで友達集めてチョコ作りか」
「うん。昨日言ったよ。エリちゃんとミヤビちゃん来るって」
ミヤちゃんじゃなくてミヤビちゃんだったか。
「そういや聞いた気がする。父さんと母さんは?」
「オバさんとこ。夕方には帰るって」
「家族の会話っすねー」
こらこらミヤビちゃん。家族の会話に入っちゃいけないよ。
「え。じゃ昼めしどうすんの」
「千円もらった。ねえ、コーヒー飲んだんならさっさと行ってよ。今日は女の子の集まりなんだから」
「へいへい」
缶コーヒーはまだ三分の一ほど残っていたが、ボクは退散する事にした。
「ごゆっくりどーぞ」
戸口に立ったまま固まっているエリちゃんを中に入るようにうながし、ボクは二階の自室に引き返す。
それにしても友達と一緒にチョコ作りか。
半分は自分たちで食べてしまうのだろうが、もしや好きな男子でもできたか。
妹の事とは言え、結局は他人事。
関係ないと言えば関係ないのだが、そうとも言い切れないところが血縁の情。
なんとなく複雑な心境のお兄ちゃんだ。
ベッドに横になり、昨夜読みかけだった小説を手にとった。
内容は一言で言うなら、いわくつきの館の密室で人が二、三人死ぬ話。
ページをパラパラとめくり、昨日の続きを探す。
場面は連続で発生した殺人劇に、いい年したオッサンがみっともなく半狂乱になって「お、お前たちなんか信用できるか! そうか! お前たちみんな犯人とグルだな! なら俺にも考えがある。俺は部屋に戻るぞ。扉にバリケードを作ってやる。警察が来るまで一歩も出るものか!」と宣言したところだった。
あーあ。この人死亡フラグ立っちゃったよ。一人になったら余計に危ないのに。
ボクの予想では、前半に行方不明になった霊能力者の女の人が犯人じゃないかと思うんだけど。
と、にわかに階下が騒がしくなった。
妹はよくしゃべる方だし、ミヤビちゃんも明るい性格だと思う。ボクの前ではあんなだったけど、エリちゃんも気の許せる人の前では明るいのかもしれない。
まあ、女三人寄ればかしましい、と言いますしな。
別に聞き耳をたてていた気はないのだけど、会話の断片が聞こえてくる。主に妹とミヤビちゃんの声だけど。
「えーエリちゃん」「マジっすか」「うん」「やめときなって」「でも」「エリが」「いつから」「大事なのは」「前から」「でもでも」「どうかな」「でも」「でもじゃなくて」「どうなの」「やっぱり」「応援」「うん」「がんばって」
……何の話かさっぱり分からん。
ボクは再び小説に没頭した。
やっぱり一人になったオッサンは殺された。
しばらくして、ボクの部屋のドアが開かれた。
ノックもなく急に開かれたものだから、ビックリした。
一瞬、殺人鬼がボクを殺しに来たのかとも思ったが、
「ねえ、お兄ちゃん。どんなチョコが好き?」
妹だった。
「え? まあ、甘すぎず苦すぎず、ミルクチョコっぽい奴かな?」
「ミルクね! 分かった!」
バーン! ドタドタドタ……「ミルク!」
一体なんだったんだ今のは。
まあ、妹の奇行はいつもの事だ。
えーと。どこまで読んだんだったかな。
しかし、それから一時間の間にボクの部屋のドアは何度も豪快な開閉を繰り返した。
ドタドタドタ……バーン!
「お兄ちゃん! チョコの中身は何がいい?」
「んー歯ごたえのある奴?」
バーン! ドタドタドタ……「歯ごたえ!」
ドタドタドタ……ドバーン!
「お兄ちゃん! アーモンドとピーナッツじゃどっち派?」
「しいて言うならアーモンド?」
ズバーン! ドダドダドダ! 「アーモンド!」
ドタドタドダ……チュドーン!
「お兄ちゃん!」
「ちょっと待て! 今の音おかしいだろ!」
「アーモンドは砕いた方が好き? それともそのまま?」
「え? あ、うーん。よく考えてみたら、アーモンドよりもコーンフレークの方が好きなんだよな」
ドッゴーン! ドタバタドタバタ……「ごめん! 中身変更! コンフレで!」「ガンバっす!」「う……うん。私がんばるよ……」
本当に何なんだ。
それに階下の騒がしさがヒートアップしている気がするんだけど。
あ。ドアが取れた。
読みふけっていた小説から目を離し、時計を見ると正午を過ぎていた。
どうりで小腹が空くわけだ。
と、
「お兄ちゃん! 試食して!」
もはやドアとしての機能を失った板が勢いでぶっ飛んだ。
妹とミヤビちゃん。そして二人に隠れるようにエリちゃんが乱入してきた。
「うわー。ここがお兄さんの部屋っすかー。案外汚ねえっすね」
こらこらミヤビちゃん。他人の部屋をジロジロと見てはいけないよ。それに思ってても汚いとか口にしたらアウトだから。
「お兄ちゃん食べてみて」
妹がチョコを差し出した。甘い匂いが鼻をくすぐる。
小腹も空いたし、ちょうどいいか。
「まずはアタシからっすよ!」
一番手はミヤビちゃんか。
白い紙を折って作られた小箱から、一口大のチョコをつまみ出す。
形は、
「……自由奔放だね」
ボクは言葉を選んだぞ。
「よく言われるっす! 『ミヤビはフリーダムだね』って」
誰に言われたのかは知らないが、フリーダムって言った奴は、もう少し直球な表現で言ってやった方がいい。
さて、味の方は――
「うん。チョコ味だ」
「当たり前っす」
もぐもぐしていると、ガリっと口の中で音がした。
え? 何これ。アーモンドともピーナッツとも違うミントな感じは――
「ミヤビちゃん」
「なんすか」
「中に何入れた?」
「キシリトールガムっす」
入れんな。んなもん。
どうりで爽やかな味わいが口いっぱいに広がるわけだよ。
「前にテレビでガムとチョコを一緒に食べるとガムが溶けるって聞いたもんで。どうっすかお兄さん。溶けてますか? トロットロっすか?」
「ああ、溶け出してるね」
友人の兄で試すな。
お次は、
「次は私!」
二番手は妹か。形はミヤビちゃんのチョコより丁寧だが、肝心の味の方は――
ガリ。
いきなり異音から来たか。
「チョコだね」
「うん」
「甘いね」
「うん」
「シャリシャリしてジャラジャラしてる。すげー甘い。もう予想できたけど一応聞いとく。中に何入れた?」
「角砂糖」
甘いわー。生まれて初めてじゃないか? 角砂糖かじったのって。
「歯痛い」
「虫歯? ちゃんと歯医者さん行った方がいいよ。あ、コレも作ってみたんだけど。カロリーメイトをチョコでコーティングした奴」
「いらね」
お前はアレか? チョコ一個で一日のカロリーをどうにかできる食品を作ろうとしてるのか?
最後は、
「大トリはエリっすよー!」
エリちゃんが押し出されるように、いや実際に妹とミヤビちゃんに押し出されて前に出てきた。
人見知りする子なのか、極度の上がり症なのか、見ていてちょっと痛々しい。
「……お願いします」
うやうやしく差し出された。別に審査してるわけじゃないんだけどな。
形は、他の二人に比べて少し小さめ。一つ一つが丁寧に作ってある。
先の二人の例もあり、ボクは恐る恐るチョコを口に入れた。
エリちゃんみたいな子が、スパーキングな事をするとは考えにくいが、万が一があるしね。
一口。
「あ。おいしい」
思わず声が出た。
「ホントっすか! ホントにおいしいんすか!」
なぜかミヤビちゃんが聞いてきた。
「いや、本当においしいよコレ。もう一個ちょうだい」
エリちゃんの返事も待たず、ボクはもう一個をつまむと口に放り投げた。
サクサクした食感はコーンフレーク。ミルクチョコは甘すぎず、ほんの少しまぶされたココアパウダーが程よい苦味。
「エリちゃんのチョコが一番おいしいな」
「やったー!」とエリちゃんの後ろでなぜか他の二人が歓声をあげた。
エリちゃんはうつむいて小さくなっている。垂れた前髪のすき間から、顔が真っ赤になっているのが分かった。
それから、三人でカラオケに行くと言って出て行った。
なんだかよく分からないが、お祝いらしい。
チョコ四つで昼食の代わりになるはずもないボクは、何かないかとキッチンへ向かった。
キッチンは、戦争でも起こったように酷い有様だった。
使ったものくらい片づけてから遊びに行けよなー。
目を覆いたくなる惨状のテーブルの上から、冷蔵庫へと視線をうつすと、マグネットで千円とメモが止めてあった。
メモには妹の字で「お兄ちゃん後ヨロシク」。
ボクは千円をポケットにしまうと、チョココーティングを免れたカロリーメイト(チーズ味)を発見したので、それをかじりながら片付けを始めた。
ボールと鍋を洗いながら思う。
三人でワイワイガヤガヤやってたのか。
いいなあ。楽しそうだなあ。
女の子だから許される事って、世の中案外たくさんあるよな。
ボクは自分が男友達と一緒にチョコを作っている風景を想像してみた。
それはそれは不気味な光景だった。
ボクは部屋に戻ると、小説の続きを読んだ。
犯人は霊能力者じゃなかった。
その夜、妹は父親に、
「はいっ! ハッピーバレンタイン!」
と、チョコを渡した。
父親は満面の笑みでボクが止めるのを聞かずにチョコを口に放り込むとガリガリと音をたてて噛み、飲みくだした。
「ありがとう。おいしいよ」
親の深い愛情を見た一瞬だった。
父親はいつも夕食後にコーヒーを飲み、砂糖を一さじ入れるのが習慣なのだが、その日は必要なかったようだ。
さて、日付も変わって二月の十六日の月曜日。
ボクは下校の途中に書店へ寄った。
いつものミステリー小説コーナーで、
「あ」
「あ」
妹の通う中学校の制服。
髪の長い女の子と出くわした。
驚いた顔をして固まっているこの子は、
「えーと、エリちゃんだっけ。リエちゃんだっけ」
「エリです……」
エリちゃんはうつむき気味に言った。
「推理小説好きなんだ?」
見た目本読むの好きそうだもんなー。
「作家は誰が好き? ボクは綾辻とか好きなんだけど」
「その作家さんはまだ……」
「そうなんだ。おススメだよ。じゃあ、赤川とか泡坂とか。渋めで内田とか」
ぶんぶんと首を横に振るエリちゃん。
うーん。会話が続かないなあ。
無理して妹の友達と話をする必要もないのだけど、自分から話しかけといて、「じゃ、ボクはこれで」と場を離れるのもなあ。
何か話のネタはないかと考えを巡らせると、一つ話題を思いついた。
「バレンタインのチョコ渡せた?」
みるみる顔を赤くしていくエリちゃん。
面白い子だな。この子って。いや、この場合は面赤い子と言った方が正確なのかな?
ボクはエリちゃんの反応が楽しくて調子に乗った。
「あ、じゃあ好きな人いるんだ。彼氏かな? あ、違うの? あれだけおいしいチョコだったんだから、もらった相手も喜んだと思うよ。でも残念だったね。今年のバレンタインは土曜日で休みだったし、今日学校で渡したの?」
顔を真っ赤にしたエリちゃんは、涙目で『やばい調子に乗りすぎた』と反省しはじめたボクを見上げ、
「も、もう」
一度深呼吸を挟んで、
「もう、好きな人にはその日に食べてもらいましたからーーー!!!!」
信じられない大声を張り上げると、同じくらい信じられないスピードで走り去って行った。
あのーエリさんここ本屋ですよ。つか意外と足速いな。
まあ、いいか。
ボクはからかい過ぎた事を後悔しながら、本を選びはじめた。
口の中で甘い味を思い出す。
まったく。
ボクはエリちゃんのおいしいチョコが食べられた幸せ者の事を心底うらやましいと思った。
―――― Sweet happy valentine.
今から2年くらい前に書いた作品です。
そのため、二月十四日が土曜日。
季節柄ちょうどよさげだったので、投稿してみました。