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20000回のレースの一つについて 〜人と馬が織りなす奇跡の物語〜  作者: くら・すこ


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1/1

五年と半年の旅路の帰結 第59回 スプリンターズステークス

「ほらーっ、お父さんのレース始まるよー!」


 アキはバタバタとエプロンで手を拭きながら二階に居るだろう娘に声を掛けた。すると素直にリビングのソファーにやってきて座ってくれた。


「どうせパパ、勝てないじゃーん」


 テレビの前に座ってはいるがスマホの画面から目を離そうとしない中学生の娘。溜息一つ吐いてから隣に座った。


「まぁ、そうなんだけどね……」


 ふと馬上の亭主の顔がテレビに映った。最初の頃は画面の中に映るだけでも興奮したし、大きなレースの前は胸が張り裂けそうなほど緊張もしていたものだった。

 しかし、今では大した感傷も湧かない。


『十一番人気のウインカーネリアンが……』


 誰も大した期待をしていない。それでも、アキはいつも祈るように亭主の闘う姿を見ていた。


(私だけでも応援しますよ)


 心の中だけで勝利を強く願う。もう何年も前から大っぴらに願いを声に出さないようになっていた。十八年、G1(グレード1)で勝てないというのはある種の諦めを生むには十分な時間だ。

 だから黙ってテレビに映る亭主だけを追いかける。


「あれ……?」


 ふと、チラリと映った亭主の雰囲気がいつもと違うように見えた。遠くを見ているような、いつもの少しだけ焦った無理矢理に気合を入れている顔じゃない。

 それは初めて見るような顔だった。


◇


 コーセイは、ふと気付くと騎乗していた筈のウインカーネリアンと向かい合っていた。何故か真正面からじっとこちらを見つめている。


(俺……お前に乗ってたんだけど……)


 ほんの少し不思議な感じはした。そこは地平線しか見えない『無』の世界。だが、ここが何処かは分かっていた。


――ただ、心の相棒と会話が出来る場所


 何故かそれだけは深く理解できた。なんとなく小躍りするような気分の良さもある。だから馬に喋りかけてみた。


「よう相棒」

『やるぞ』


 すぐに返事が返ってきた。気合いが漲っているのが声からでも分かる。

 しかし、それを不思議には思えなかった。


「あぁ、やってやろう」


 それだけを返す。

 刹那に輪乗り中のウインカーネリアンの背中に戻っていた。恐怖も不思議さもない。旧知の友人の何気ない一言を思い出したような心地良い、そんな感傷だけが残っている。

 ポンと首の辺りを軽く叩く。そして前だけを向いた。


◇


 ユタカはコーセイの雰囲気が変わったことに気付いた。ゾクっと背筋が凍るような雰囲気。いつもの飄々とした雰囲気が消えて研ぎ澄まされた刃物のような気配を感じた。


(これは……)


 コーセイを先行させて二番手を突く。それが今日の作戦の全てだった。しかし、それでは負けるとアラート(警告)が頭の中に鳴り響く。百戦錬磨の勘が全力でそれを告げていた。


「奇数番はゲートへお願いします」


 少しだけ焦る。レース前に緊張することは少なくなってきた。しかし、今だけは作戦を立て直す時間が欲しかった。


(こうなったら先に封じるしかない)


 ゲートに向かいながら作戦を反芻する。ふとナイフのようなピリつく雰囲気が消えていたように感じた。


(いや……違う)


 コーセイとウインカーネリアンからは無駄な感情が全て消えているように思えた。ゲートインは各馬共に順調に進み最後のウインカーネリアンを残すのみとなった。


「大外のウインカーネリアン号はゲートに入ってください」


 大外枠のゲートに音も無く入っていく。


(ゾーン……なのか)


 自らも経験したことのある無我の境地。ここで係員が小走りに出ていくのが見えた。

 ほんの数秒の沈黙。


『スプリンターズステークス、スタートです!』


 一斉に万を超す観客が歓声を上げる。


『おーっと、ヤマニンアルリフラは最後方から!』


(関係ない。ハナを取り切ることだけ考えろ)


 抜群のスタートを見せたユタカのジューンブレアは後続に早くも一馬身の差をつけていた。


(行けただろ……いや)


 しかし外枠から一頭が追い抜かんばかりの走りを見せて追いついてきた。


「やはりお前か……コーセイ!」


 いつもの焦った雰囲気は感じられない。淡々とハナを取りに来ているのが分かる。完璧なスタートについてくるということは、相手も完璧なスタートだったということ。そして互いにハナを取ろうとする二頭で外枠の馬に並ばれるということは、向こうのほうがスタートが良かったということだ。

 少しだけの苛立ちを感じる。


「ならばこのまま!」


 少しだけ手綱を緩めると、その分だけジューンブレアは加速した。


(良い子だ)


 半馬身ほど先行する。そのためウインカーネリアンは外側を走るしかない。つまり、その分だけ長い距離を走らせることに成功したということだ。


(後はペースだけ……)


 無闇にペースを変えず跨るこの馬が最後までバテないギリギリのペースを維持する。これは百戦錬磨のユタカにしかできない技だ。完璧な体内時計と完璧なペースコントロールをする技術がいる。

 すぐ外側にいるウインカーネリアンは半馬身差を維持して追走してくる。相手も先行馬だが外側を回らせて余分な距離を走らせることには成功している。

 つまり、この二頭でスタミナ勝負をする作戦は正しい。


(だけだが……)


 しかし、何か背中の冷たい汗はまだ無くならなかった。


◇


「よし、いつも通りの前目の位置だな」


 跨る愛馬に聞こえるように呟くと、なんとなく少しだけ嬉しそうな気配を感じた。


(ペースはこのままで良いぞ)


 今度は心の中で呟く。それに反応するように無理に抜かそうとペースを上げるようなことはしなかった。まるで相手の馬の練習相手として追い比べでもしているような感じだ。


(そうだ。相棒。それで良い)


 そのまま第三コーナーに侵入していく。


『先頭はジューンブレア。二番手をウインカーネリアンが追走している。サトノレーヴはまだ中程の位置。ナムラクレアは……』


 実況アナウンスがスピーカーからスタンドに鳴り響いている。それが耳に入るが人気馬が中段に固まっていることが不満そうにも聞こえるアナウンス。


(今日は……観客の皆様の……期待には……添えませんよ)


 そのまま最終コーナーへ二頭で進むが軽々と追走できている。相棒のあまりの調子良さに口笛でも吹きそうになる。


(なんだよ、年下の可愛い牝馬でもいたか?)


 思わず軽口が出る。


『くだらん。気を抜くな』


 最終コーナーに差し掛かったところで余裕のない声の戒めが聴こえた。


(分かった。お前の好きに走れ。お前を信じる)


『行くぞ!』

「おうっ!」


 全てをウインカーネリアンに任せることに決めた。

 最速で内枠を駆け抜けるジューンブレア。それに対抗するように刹那に凄まじい加速をしながらコーナーを抜け出していく。

 後は最後の直線を残すのみだった。


◇


 ここで観客達は、ある異変に気付いた。よもや定番のジョークになっている『ある男のG1勝利』についてだ。最終コーナーに飛び込む二頭を見ると、ある種の緊張感が観客に走った。


「えっ? もしかして……」

「いや、まさか……」


 困惑の声がそこかしこで聞こえる。しかし、最終コーナーを抜けた二頭が後続を突き放すのを見ると、それは言葉になり始めた。


「コーセイ……勝てるんじゃ……」


 刹那に大歓声が沸く。


「行けーーっ! コーセーーイ!」


◇


 最終コーナーから出るところで外側の馬が一気に加速した。半馬身の差はなくなり今は完全に横並びだ。限りなくロスのないコーナーワークで最内を駆け抜けたが、ウインカーネリアンはアウトコースに少しだけ膨らみながら爆発するような加速をしていく。

 もはや完全に横並びになっていた。


「コーセイ、行くぞ!」


 思わず叫んでしまう。刹那に返事が聞こえてきた。


「はい!」


 これには思わず笑ってしまう。今日だけはジョッキーカメラがついていないことに感謝した。そのまま口を真一文字に引き絞るとジューンブレアに最後の指示を鞭で伝える。


「行けっ!」


 コーセイも必死に鞭を振るっているのが横目で見える。調教の追い比べのような体勢で突き進む二頭。

 残すは直線三百メートルのみ。


◇


「ママ……パパ勝っちゃうよ! ねぇ、ママ! ママって!」


 しかしアキは返事ができなかった。手が青白くなるほどに握り締め画面に映る二頭を見つめることしかできない。


(神様……お願い……神様……)


「お願い、コーセイを勝たせてください!」


◇


 鞭を打つ。これは痛みで走らせている訳ではない。ただ意思疎通する為に、最後の気力を振り絞るポイントを共有するための合図に過ぎない。


「カーネリアン!」


 祈りながら鞭を打つ。正面スタンドをただ相棒を信じて駆け抜けていく。その時、ふと後方から迫る蹄の音に気づいた。


「頼む……」


 無情にも後続たちの反撃が始まった。一気に四、五頭が加速して迫ってくる。気配と足音が近づいてくる。


『さぁナムラクレアとサトノレーヴが迫る!』


 絶望と希望の混じり合う数秒。

 その時、観客たちの歓声に気付いた。


「コーセーーイ! そのままいけーーっ!」

「勝っちまえーー! コーーセーーーイ!」


 観客の皆が自分の名を呼んでいる。


「た、頼む……」


 ゴール板はもうすぐだ。しかしすぐ横には最強の騎手、後方からは名手と雷神が迫る。


「頼むぞ、カーネリアン!」


 その瞬間、ゴール板を駆け抜けていた。


『八歳での初G1勝利を手にしたウインカーネリアン! そして十八年越しにG1勝利を手にした三浦皇成……』


 アナウンスが聴こえた気がした。


「うぉぉーーーっ!」


 自然とガッツポーズをしていた。すると、すぐ横から声が掛かった。


「おめでとう。長かったな」

「ありがとうございます!」


 反射的に礼を言う。そして『長かったな』、そのセリフだけが何度もリフレインする。


「ぐっ……」


 涙を我慢する。叫び出しそうに、嗚咽しそうになる。でも、それは嫌だった。そんな恥ずかしいところを見せるわけにはいかない。


『やったな』


 相棒から一言だけの賛辞が聴こえた。その瞬間、涙が溢れる。でも、まぁ良いか。今日は泣いても良いか、そう心から思えた。


「あぁ、ありがとう!」


◇


「わーーん、パパ勝っちゃったよーー!」


 娘は感極まったのか涙を拭きながら絶叫していた。


(先に泣かれると涙は出ないものね……)


 でも分かっていた。顔を見たら涙腺なんて最も簡単に崩壊するんだろう、そんなことを考えながらテレビをじっと見つめていた。するとポンポンとスマホが音を立て始めた。手に取って画面を見てみると「おめでとう」「良かったね」と通知が溢れ始めていた。


「あらあら……」


 自然と笑顔が溢れる。


(くす玉買ってこなきゃ。どこに売ってるかな……)


 取り止めもないことを考えるが嬉しさが滲み出てきた。


「さぁ、お祝いの準備するわよ!」


 多分、今日は忙しくなる、笑いながら覚悟を決めた。



了

Appendix

最強:タバルでまだ最強と判明

名手:天才の一撃

雷神:マジックマンもかっこいい

コーセイ:元天才騎手。ダートは強いぜ

カーネリアン:種牡馬で活躍してくれ!

アキ:元最強(現最年長)グラビアアイドル

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