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第三章:お父さんの魔法

「まもなく、終点です」

車内アナウンスが流れる。

男は、スッと背筋を伸ばし、膝の上のカバンを整えた。先ほどまで鼻の下で狂ったようにダンスを踊っていたあの「生き物」は、今は何事もなかったかのように、静かに男の唇の上に横たわっている。

私の顔面の筋肉は、出し切った熱量のせいで微かに痺れていた。

勝負は、引き分けだったのだろうか。それとも、最後に完璧な「無」に戻った彼の余裕が、私の僅かな動揺を上回ったのか。

プシュー、と空気の抜ける音とともにドアが開く。

男は流れるような動作で立ち上がると、一度も私と視線を合わせることなく、スマートにホームへと降り立った。

私は、吸い寄せられるように窓際に顔を寄せた。

このままこの男を、ただの「変な乗客」として終わらせたくなかった。

ホームのベンチには、三人の小学生が座っていた。

塾の帰りなのだろう、重そうなランドセルに背中を丸め、彼らの瞳には都会特有の、冷めた「退屈」が澱んでいる。スマホを見るわけでもなく、ただただ、終わらない日常に飽き果てたような、灰色の表情。

男は、その子供たちの前を、一歩、二歩と通り過ぎようとする。

その時だった。

男が子供たちの方へ、わずかに顔を向けた。

体は真っ直ぐ出口へ向かったまま、首だけを、まるでゼンマイ仕掛けのパペットのように。

そして彼は、車内では一度も見せなかった、本日最高の「魔法」を解禁した。

鼻の下の髭が、まるで意志を持ったプロペラのように猛烈に回転し始める。同時に、お菓子のお父さんの「渋い顔」が、一瞬にしてパッケージそのままの、いや、それをも凌駕するほどの「満面の、あまりに完璧な作り笑顔」へと変貌した。

それは、チャップリンが最後に観客に見せる、あの切ないほどの愛嬌と、内村光良さんが演じるキャラクターが持つ、あの突き抜けた滑稽さが融合した瞬間だった。

「……!」

子供たちの一人が、弾かれたように顔を上げた。

「うわっ、今の見た!?」「おじさん!髭!髭回ったよ!」

灰色の澱みは一瞬で消え去った。

ホームに、割れんばかりの爆笑が響き渡る。

「ぎゃははは!すごーい!」「もう一回!もう一回やって!」

子供たちはベンチから立ち上がり、腹を抱えて笑い転げている。

男は、一度も振り返らなかった。

満足げな微笑を浮かべることすらなく、再び感情を定年退職させた「無味無臭」な背中に戻り、夕闇の雑踏へと溶けていった。

私は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。

そこには、さっきまでの強張った、何かに怯えるような私の顔はなかった。

口元が自然に緩み、心なしか世界が少しだけ鮮やかに見えている、一人の男の顔があった。

電車が再び動き出す。

ホームでいつまでも手を振っている子供たちの姿が、遠ざかっていく。

私の鼻の下でも、ほんの少しだけ、何かがくすぐったそうに震えたような気がした。

(了)

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