第二章:顔面という名のリング
「次は君の番だ」
男は一言も発していない。しかし、ふにゃふにゃと波打つ髭と、射抜くような無機質な瞳が、饒舌にそう語っていた。
私はごくりと唾を飲み込んだ。窓の外の闇はまだ続いている。車内の蛍光灯がチカチカと瞬き、この密室をヒッチコック的な緊迫感で満たしていく。私はただの乗客でいたい。しかし、この「お菓子のお父さん」が繰り出す、チャップリンばりの高度な顔面パントマイムを無視することは、表現者としての敗北を意味するような気がした。
私は、決意した。
まずはジャブだ。私は、意識を鼻の下に集中させた。鼻の下を限界まで伸ばし、上唇で鼻の穴を塞ぐ。そのまま、右の頬だけをピクピクと痙攣させるように動かした。
対面の男の眉が、わずかに動いた。判定は「有効」だ。
男が応戦してくる。彼は無表情のまま、突如として両方の眼球を別々の方向に動かし始めた。右目は上、左目は下。そしてその中心で、あの髭が今度は円を描くように高速で回転を始めたのだ。
「……ッ!」
私は危うく吹き出しそうになった。内村光良さんのコントで見るような、大真面目ゆえの狂気。男の背後には、見えないスポットライトと、無声映画特有の軽快なピアノ曲が流れているような錯覚に陥る。
負けてたまるか。私は、顔面の全筋肉を解放した。
私は両手で自分の耳を引っ張り上げると同時に、舌を左斜め下へ限界まで突き出し、白目を剥いた。顔全体を「熟しすぎて発酵した柿」のように歪ませる。もはや、自分がどんな顔をしているのか自分でも分からない。ただ、顔中の皮膚が悲鳴を上げ、毛細血管が浮き上がるのを感じた。
男の反応は、劇的だった。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、あろうことか「お菓子のお父さん」としての矜持を捨て去ったのだ。男は座席から一ミリも動かず、首から下は完璧な公務員のまま、顔面だけで「土石流に飲み込まれる阿修羅像」を表現してみせた。
眉間には見たこともない数のシワが刻まれ、口は不自然な四角形に固定される。そして仕上げに、あの髭が左右交互に、パタパタと翼のように羽ばたいた。
完璧だ。この男、プロだ。
私たちは、走行する電車のリズムに合わせて、変顔を次々と切り替えていった。
「溶けた雪だるま」から「驚いた深海魚」。
「怒れるブルドッグ」から「哲学するタコ」。
言葉は不要だった。私たちは、網膜と表情筋だけで、魂の交流を行っていた。この世の誰にも理解されない、しかし宇宙で最も熱いコミュニケーション。
ふと、トンネルを抜けた。
車内に平穏な昼下がりの光が戻る。
男は、突如としてすべての動きを止めた。
一瞬で、あの無味無臭な「お菓子のお父さん」に、箱の中に詰め直された商品のように戻ったのだ。
電車が速度を落とし始める。目的の駅が近づいていた。




