第一章:鼻の下の隣人
その男の鼻の下には、意思を持った生き物が住んでいた。
それは、丁寧に整えられた一文字の口髭だった。茶色の三つ揃いのスーツに、磨き上げられた革靴。男の風貌は、昭和の時代からタイムスリップしてきた「お菓子のお父さん」そのものだった。明治のチョコレートの箱か、あるいはビスケットのパッケージに描かれている、あの温厚で、しかし私生活が一切見えてこない、記号的な父親像。
電車がガタゴトと揺れるたび、男の身体も規則正しく揺れる。その無味無臭な佇まいは、まるで背景画の一部としてそこに糊付けされているかのようだった。
私は、男の正面に座りながら、その「無」の圧力に息苦しさを感じていた。車内は空いている。午後の陽光が、埃の舞う車内に斜めに差し込み、ヒッチコックの映画のような、静かで不穏な陰影を作り出している。
異変が起きたのは、電車が長いトンネルに入り、窓の外が完全な闇に塗りつぶされた瞬間だった。
窓ガラスが鏡となり、男と私の視線が、逃げ場のない密室の中で真っ向からぶつかった。
その時だ。男の鼻の下の「生き物」が、唐突に覚醒した。
ふにゃふにゃ、と。
それは、まるでピアノの鍵盤が意思を持って勝手に波打つような動きだった。右から左へ、波紋が広がるように髭の毛先が躍動する。指一本触れていない。ただ顔面の、鼻の下のごく狭い範囲の筋肉だけが、チャップリンのステッキ捌きのような軽妙なステップを踏んでいるのだ。
「え……?」
私は思わず声を漏らしそうになった。男の目は、相変わらず感情を定年退職したような「無」のままだ。しかし、その鼻の下だけが、狂ったパントマイムを演じ続けている。
男が、ゆっくりと口角を上げた。
いや、「上げる」という生易しい表現では足りない。それは、重力に逆らって顔面のパーツが配置換えを始めたようだった。頬の肉が耳元まで引き寄せられ、鼻の穴が極限まで広がる。完璧な「お菓子のお父さん」だったはずの顔が、一瞬にして、熱で溶け出したゴムマスクのように歪んだ。
それは、見る者を不安にさせるほどに、完成された「変顔」だった。
私は戦慄した。この男、正気か? それとも、私にしか見えていない幻覚なのか?
私は助けを求めるように隣の乗客を見たが、大学生らしき青年はスマホの画面に没頭し、向かい側の老婦人は穏やかにまどろんでいる。この異様な「顔面の暴走」に気づいているのは、世界で私一人だけだった。
再び男に目を戻すと、彼はすでに元の無味無臭な聖徳太子のような真顔に戻っていた。
だが、男の目は逸らされていなかった。
じっと、私を見ている。
そして、その髭が再び、誘うように「ふにゃり」と波打った。
まるで、「次は君の番だ」とでも言うかのように。




