第5話 噂は影より先に走る
王都において、噂はいつも夜から生まれる。
それは書類にも記録されず、
騎士団の報告書にも載らず、
だが確実に、人の心を伝って広がっていく。
南区――城壁に近いが、光の届かない一角。
酒と煙草と人いきれの匂いが混じる安酒場で、その噂は形を持ち始めていた。
「なあ……最近、変な話聞かねえか」
赤ら顔の男が、盃を置きながら声を落とす。
だが酔いのせいで、完全には抑えきれていない。
「黒い連中が出るってやつか?」
向かいの男が鼻で笑う。
「どうせまた、盗賊か傭兵崩れだろ。
王都じゃ珍しくもねえ」
「いや、それが違うんだって」
赤ら顔の男は、妙に真剣な目をしていた。
「顔が見えねえ。
全員、黒い外套で、口元だけ変なマスクしててよ」
「変なマスク?」
「ああ……鳥の嘴みたいな、でも短くて、妙に無機質なやつだ」
その場にいた別の男が、酒を飲む手を止めた。
「……それ、聞いたことあるぞ」
「だろ?」
男は頷く。
「北区の路地で、魔物が出た時だ。
騎士団が来る前に、もう終わってたって」
「終わってた?」
「血の跡だけ残して、死体も消えてたらしい」
その言葉に、酒場の空気が一瞬だけ冷えた。
王都では、事件は日常だ。
だが“誰がやったかわからない解決”は、異物だった。
「名前は?」
「知らねえ。
ただ……人によって呼び方が違う」
「カラスだとか、影だとか」
「黒い死神、なんて言うやつもいたな」
誰かが笑おうとしたが、声は上ずった。
恐怖は、説明を必要としない。
わからないものほど、人は勝手に意味を与える。
その夜、同じ噂は王都中を巡った。
娼館では、客の耳元で囁かれ、
賭場では、負けた理由の言い訳として語られ、
裏路地では、次に消えるのは誰かという話にすり替わる。
ミレアは、それらをすべて拾い集めていた。
娼館の奥、柔らかな灯りの中。
彼女は男の腕をするりと抜け、微笑みを残して席を立つ。
「続きはまた、今度ね」
扉を閉めた瞬間、表情が切り替わる。
艶は残したまま、目だけが冷えた。
別邸へ戻る道すがら、彼女は頭の中で情報を整理していた。
――共通点は三つ。
一つ、騎士団より先に動いていること。
一つ、姿を見せないこと。
一つ、必ず“何も残さない”こと。
地下通路を抜け、石造りの別邸に入る。
重い扉の向こう、静かな空気が彼女を迎えた。
「思ったより、広がりが早いわね」
外套を脱ぎながら、ミレアは言う。
香水と夜気を纏った声は、疲れよりも余裕を含んでいた。
これから始まる集会は、彼女にとっては嫌じゃないのだろう。
ーーーーーーー
「噂はもう、南北どっちにも回ってる。
下層だけじゃない。中層の商人連中も嗅ぎつけ始めてる」
対面の椅子に座るイオルは、静かに頷いた。
「王城には?」
「届いてるわ。
正式な報告じゃなくて、“妙な話”としてね」
ミレアは肩をすくめる。
「でも、こういうのが一番厄介なのよ。
誰も責任を取らないまま、警戒だけが膨らむ」
イオルは杖に手を添え、少しだけ姿勢を正した。
「騎士団の反応は?」
「上は静観。
でも下がざわついてる」
「若い騎士、ですか」
「ええ。
功績を欲しがる年頃ね」
ミレアは少し間を置き、視線を向けた。
「……それと」
「若い王子の噂、ですね」
イオルが先に言う。
「病弱な第六王子が、人を動かしている。
そんな話が出回っています」
ミレアは小さく息を吐いた。
「王子様ってのは、何もしなくても目立つのよ」
イオルは苦笑した。
「困りましたね。
私はまだ、何もしていないのですが」
「してないからよ」
ミレアは即答する。
「動かない存在ほど、勝手に意味を盛られる。
特に、“王子”なんて肩書きがつくとね」
地下室の静けさの中で、イオルは目を伏せた。
「……王都は、静かすぎます」
「嵐の前?」
「ええ」
イオルは淡々と続ける。
「宗教が動き、
貴族が沈黙し、
騎士団が様子を見る」
「どれも単体なら不思議じゃない。
ですが、同時に起きている」
ミレアは口元に指を当て、少し考える。
「聖循教……動きが早すぎる?」
「ええ。
宗教にしては、あまりにも実務的です」
イオルは視線を上げた。
「誰かが、裏から支えている」
「もしくは……」
ミレアは微笑む。
「裏が、本体か」
イオルは否定しなかった。
「今は、動きません」
その言葉は、決意というより判断だった。
「動けば、噂が確信に変わる。
それは、まだ早い」
ミレアは軽く肩をすくめる。
「じゃあ私は、まだしばらく夜を漁るわね」
「お願いします」
ミレアは、余裕よと言わんばかりに微笑んで見せた。
着々と、噂は市政を駆け巡っている。だがそれは、まだ噂に過ぎない。
「……だからこそ、観察する価値がある」
王都の夜は、まだ静かだった。
まるで、嵐の前の静けさだ。




