第17話 静かな日常に沈む影
王都は、表向きには平穏を取り戻していた。
市場は再び開かれ、露店には果実と香辛料の匂いが戻る。
酒場では、いつものように笑い声が響き、
子供たちは路地で追いかけっこをしている。
あの夜の騒動など、
最初からなかったかのように。
だが、完全に元通りになった者など、どこにもいなかった。
人々は、無意識のうちに空を見上げる回数が増え、
夜道では足早になり、
見知らぬ魔術師や僧侶に、わずかな警戒を向ける。
――何かが起きた。
理由は分からないが、それだけは確かだ。
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王城の一角。
アルヴァン・イオルは、いつも通りの部屋で朝を迎えていた。
薄いカーテン越しに差し込む光。
静かな空気。
杖を傍らに置き、椅子に腰掛けて紅茶を口に運ぶ。
表向きには、何も変わらない。
「……少し、苦いですね」
ぽつりと呟くと、
肩に乗った黒猫が尻尾を揺らした。
『気分の問題じゃない?』
「そうかもしれません」
イオルは微笑む。
その仕草も、声色も、いつも通りだ。
だが、胸の奥には、はっきりと残っている。
焼けた草の匂い。
消えた命。
指輪の感触。
(忘れるつもりはありませんが……)
同時に、表では忘れた顔をしていなければならない。
病弱で、政治にも軍事にも関わらない、
期待されていない第六王子。
それが、アルヴァン・イオルの“役”だ。
『今日は、どうする?』
モルの問いに、イオルは一瞬考える。
「……街を、少し見て回りましょう」
『また?』
「ええ。今だからこそ、です」
⸻
街は、確かに日常を取り戻していた。
パン屋では、焼き立ての香りが漂い、
鍛冶屋の前では、金属を叩く音が鳴り響く。
だが、イオルの目には、
ほんの小さな“歪み”が映っていた。
南区の一角。
瓦礫は片付けられたが、建物の壁には修復の跡が残る。
花が供えられている場所。
名も書かれていない、小さな木札。
通り過ぎる人々は、
そこを見ないようにして歩く。
(忘れたいのですね)
それは、弱さではない。
生きていくための、自然な反応だ。
イオルは、足を止め、
ほんの一瞬だけ黙祷する。
誰にも気づかれないように。
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一方、別の場所では。
「……妙に静かね」
ミレアは、娼館の一室で鏡を見つめていた。
化粧をし、微笑みを貼り付け、
夜の女として振る舞う。
だが、客の数は戻っているのに、
噂の質が変わっている。
「影を見た」
「黒い何かが、一瞬で消えた」
「騎士団より早かった」
どれも、はっきりしない話ばかり。
(でも、消えてない)
ミレアは確信していた。
人は、見たものを簡単には忘れない。
「……坊ちゃんは、相変わらずね」
直接会わなくても、
イオルが“表”に留まっていることは分かる。
それが、どれほど危うい均衡かも。
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地下。
ロガディンは、訓練用の空間で剣を振るっていた。
義手が風を切り、
鋭い一撃が虚空を裂く。
――速い。
――正確だ。
だが、止める。
「……」
汗を拭いながら、天井を見上げる。
あの夜、街で感じた魔力。
そして、街の外で消えたそれ。
(若いな……)
力の話ではない。
覚悟の質の話だ。
イオルは、まだ“王子”でいる。
それを、ロガディンは理解している。
だからこそ、
今は剣を抜かない。
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オルフェは、商会で帳簿を捲っていた。
「……数字は、正直やな」
物流は戻っている。
だが、南区周辺だけ、
微妙に金の流れが鈍い。
「恐怖は、長引く」
そして、それを利用する者が必ず出る。
オルフェは、指先で机を叩く。
「坊ちゃん……次は、早いで」
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王城では。
第一王子レオンハルトが、騎士団の報告書に目を通していた。
「……原因不明、か」
眉を寄せる。
何かがおかしい。
だが、それを示す証拠がない。
「守れなかった」
その事実だけが、胸に残る。
一方で、第二王子セオドリクは、
別の資料を眺めていた。
市民の反応。
噂の広がり。
王族への視線。
(……悪くない)
少なくとも、今は。
第三王子ガルムは、
部屋で一人、天井を見つめていた。
「……なんなんだよ、もう」
理解できない。
怖かった。
それだけが、正直な感想だった。
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夜。
王都に灯りが戻る。
イオルは、部屋の窓から街を見下ろしていた。
「……静かですね」
『嵐の後、ってやつ?』
「ええ。ただ――」
イオルは、目を細める。
「この静けさは、長くは続きません」
何かが、動き始めている。
まだ、形になっていないだけだ。
王都は、再び回り始めた。
だが、その歯車は、
わずかに噛み合っていない。
それに気づいている者は、
まだ、少ない。
アルヴァン・イオルは、
その中心にいながら、
静かに影へと身を沈めていった。
――序章は、終わりに近づいている。
だが、物語は、
ようやく息をし始めたばかりだった。




