第13話 何も起きなかった夜の残骸
夜明け前の草原は、ひどく静かだった。
風が吹くたび、焼け焦げた草の匂いがわずかに立ち上る。
それは血の匂いでも、魔物の腐臭でもない。
ただ、魔力が過剰に使われた跡の匂いだ。
アルヴァリア・イオルは、その中心に立っていた。
杖を地面に突き、周囲を一度だけ見回す。
そこには、もう“敵”はいない。
残っているのは、深く抉れた地面と、
結界の名残として微かに揺らぐ魔力の膜だけだった。
「……終わりましたね」
独り言のように呟く。
肩に乗った黒猫――モルが、ゆっくりと尻尾を揺らした。
『完全消滅。欠片も残ってない』
「ええ。想定通りです」
淡々とした声。
だが、内心がまったくの無風というわけではなかった。
(――やはり、魔物ではありませんでした)
あれは“人”だった。
改造され、壊され、使い潰される途中の。
イオルは、地面に視線を落とす。
爆心地から少し離れた場所に、
不自然に無傷なものが転がっていた。
小さな金属片。
いや――装飾具だ。
拾い上げる。
貴族が身につける指輪。
家名を示す刻印が、内側に彫られている。
「……やはり、ですね」
王都の外で処理した理由の一つが、これだった。
魔物が落とすはずのないもの。
騎士団に拾わせてはいけないもの。
『貴族の身分証明かぁ』
モルの声は、どこか皮肉めいている。
『表に出たら、面倒だね』
「ええ。ですから、ここで終わりです」
イオルは指輪を布で包み、懐にしまった。
これは、“証拠”だ。
だが、今はまだ出すべきではない。
⸻
王都では、夜が明け始めていた。
南区では、倒壊した建物の瓦礫が片付けられ、
騎士団が慌ただしく行き来している。
「魔物は、討伐されたと見ていい」
「詳細は不明だが、暴走型だろう」
「市民の被害が少なかったのは幸運だったな」
そんな会話が、あちこちで交わされていた。
誰も、“誰が倒したか”を知らない。
それでいい。
イオルは、屋根の影からその様子を眺めていた。
すでに魔力は完全に抑えている。
今の彼は、ただの病弱な王子だ。
「……王都は、平穏ですね」
モルが小さく鳴く。
『何も起きなかった夜、って顔してる』
「それが、一番怖いのですが」
イオルは苦笑する。
何も起きなかったと思い込めるほど、
人は安心する。
だが――
(確実に、何かが動いています)
今回の件は、偶発ではない。
魔物の暴走でもない。
意図的に、王都の内部で起こされた事件だ。
⸻
地下へ戻る通路は、相変わらず冷えていた。
石壁に触れながら歩くたび、
王城の喧騒が遠ざかっていく。
円卓会議室に戻ると、
すでに何人かが戻ってきていた。
「……終わったみたいね」
最初に声をかけたのは、ミレアだった。
外套を脱ぎ、椅子に腰掛けている。
戦闘の痕跡は、ほとんど残っていない。
「夜は、よく喋る人が多かったわ」
微笑みながら言う。
「聖循教の名、あちこちで出てる」
「やはり、ですか」
イオルは頷く。
やがて、ロガディン、双子、ラヴァンも戻ってくる。
全員、無言で席についた。
戦いは終わった。
だが、空気は軽くならない。
「一体、だったな」
ロガディンが低く言う。
「だが、あれは……」
「魔物じゃない」
イオルが静かに続けた。
全員の視線が集まる。
「人です。
正確には、人だったもの」
その言葉に、誰も反論しなかった。
ラヴァンが、興味深そうに目を細める。
「複数の魔法式を、強引に押し込んだか」
「ええ。成功する前に、暴発する設計でした」
「……実験用、か」
その一言で、全員が理解する。
誰かが、
人を素材にして何かを試している。
⸻
イオルは、指輪の包みを机に置いた。
「これは、現場に残っていたものです」
刻印を見た瞬間、オルフェが目を細める。
「坊ちゃん……それは」
「中級貴族の家名ですね」
イオルは淡々と告げる。
「表には出ません。
出す意味もありません」
だが。
「覚えておきます」
……覚えておきます」
イオルの言葉は、淡々としていた。
だがそれは、記録でも記憶でもない。
選別だ。
今は動かない。
だが、忘れもしない。
その空気を、全員が理解した。
オルフェは小さく息を吐き、肩をすくめる。
「賢明だな。
今これを振りかざせば、話は“事件”じゃなく“政争”になる」
「ええ。こちらが望む形ではありません」
イオルは指輪を包み直し、再び懐へ戻した。
「今はまだ、“何も起きなかった夜”です」
その言葉に、ミレアがわずかに眉を動かす。
「……でも、裏では?」
「血の匂いは、もう回っています」
静かな断言だった。
騎士団。
聖循教。
王都の地下で蠢く組織。
どこかが、必ず今回の件を“失敗”として処理している。
それだけで十分だ。
「失敗は、焦りを生む」
イオルは視線を落とし、机上の地図を見る。
「焦った者は、必ず次を急ぎます」
それは予測ではない。
経験でもない。
――直感だった。
⸻
会議室を出た後、イオルは一人、回廊を歩いていた。
ロウは少し距離を取って付き従っている。
声はかけない。
今の主が、言葉を必要としていないことを知っているからだ。
足音だけが、石床に静かに響く。
ふと、イオルは立ち止まった。
「ロウ」
「はい」
「……今回のことで、私の評価は変わりますか」
唐突な問いだった。
ロウは一瞬だけ考え、首を振る。
「いいえ」
「即答ですね」
「昔から、無茶をするお方です」
その返答に、イオルは小さく笑った。
「無茶、ですか」
「命を賭けることを、選択肢の一つとして扱う。
それは王族としては欠点ですが……」
ロウは一拍置く。
「主としては、信頼に足る性質です」
イオルは何も言わなかった。
ただ、歩き出す。
その背中は、相変わらず細く、頼りなく見える。
だが今夜、
確かにその背中は、王都の外で“何か”を葬った。
⸻
地下から地上へ戻る途中、
朝の光が、回廊の隙間から差し込んできた。
王都は、今日も動き出している。
商人は店を開き、
子どもは通りを駆け、
騎士は巡回に出る。
誰一人として知らない。
ほんの数時間前、
この街が“試験場”にされかけていたことを。
(……まだ、序盤です)
イオルは思う。
これは警告でも、宣戦布告でもない。
「モル」
『なに?』
「次は、もう少し慎重に行きます」
『うん。でも――』
黒猫は、イオルの肩で身じろぎする。
『向こうは、慎重にならないと思う』
「でしょうね」
イオルは、王都の空を見上げた。
澄んだ朝だ。
何も起きなかった夜の、続きの朝。
「だからこそ……」
その声は、誰にも届かないほど低い。
「次は、こちらが一歩早く動く」
杖をつく音が、一つ。
それだけで、日常は続いていく。
だが、確実に。
王都のどこかで、
次の“失敗作”が準備されている。
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