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マヨネーズの試験販売が始まってから三日後。
市場での予想以上の爆発的な人気を受け、エレナは小さな会議室を貸し切り、急遽「本格的な工場設立」の打ち合わせを開いた。使用人たちが目を輝かせて見守る中、エレナは白い紙を広げる。
「――この世界のマヨネーズは、まだ私たちだけが作れる“新商品”よ。だから、品質と安全を守るためにも、工場はバルツァーリ領に作りたいの」
エレナの声は凛としていて、これまでの“傲慢な伯爵令嬢”とはまるで違う。
それを見守る調理係のローザ、執事のフェルマン、メイド長のアリアの表情は熱っぽい。
「奥様……工場の図面までご自身で?」
「ええ。前世……いえ、私の“知識”から、衛生管理が何より重要だとわかっているから」
エレナが描いた図面には、洗浄設備、卵の殺菌工程、油の保管室、攪拌室……この国ではほとんど聞かれない単語が並んでいた。
「ここに流し場を大きく作って、作業前に必ず手洗いをする。“清潔”が売りの工場にしたいの」
「手洗い……?」
「そう。みんなに配るための“特製せっけん”も作りたいわ。香りはレモンにしようかしら」
ローザが思わず吹き出しそうになりながらも、楽しげに頷く。
「ほんとうに……奥様はいつも斬新でございますね」
笑い声がこぼれ、場が温かく満たされる――が、ふと部屋の入り口で衣擦れの音がした。
クラウディオが立っていた。
その精悍な顔は変わらず冷ややかで、エレナは一瞬だけ身を固くした。
だが、クラウディオの足は自然と会議のテーブルへと向かっていた。
「……工場計画の選定、と聞いた」
「ええ。マヨネーズの生産量が追いつかないもの。私としては、最低でも三十人は雇用したいわ」
クラウディオの眉がぴたりと動く。
「三十……だと?」
「ええ。領地の雇用を増やせると思うの」
その言葉に、クラウディオはエレナを見る視線を変えた。
以前のような軽蔑も、不信もない。
ただ、静かに“評価しようとしている”色があった。
「雇用拡大は、領民にとって間違いなく利益になる。……だが本当に回るのか。卵は?油は?瓶は?」
「油は商会で調達できるでしょう? 卵は近隣農村と契約をするつもりよ。この国の鶏は丈夫だし、飼育数も多いわ」
エレナは用意した紙束を差し出す。
そこには、養鶏農家の数、飼育規模、卵の安定供給量などがまとめられ、すでに交渉済みの農家の名前まで記されていた。
「……これを三日で?」
「はい」
「……馬鹿げた速度だ」
クラウディオの声に、陰はなかった。
むしろ呆れと、感嘆が混ざっていた。
「瓶はガラス職人に特注したいの。角が丸い方が“触り心地が良い”から」
「触り心地……瓶の、か?」
「見栄えもだけれど、手にしたときの“使う人の気持ち”を大事にしたいの」
クラウディオの目がわずかに見開かれた。
「エレナ……お前、いつからそんな考えを持つようになった?」
問いに、エレナは静かに答える。
「――変わりたかったの。あなたに嫌われたままの自分は、嫌だったから」
クラウディオの喉が、かすかに動いた。
だが彼は言葉を返さなかった。
代わりに、図面をじっと見つめる。
「……悪くない。いや、むしろ非常に優れている。安全、効率、利益……すべてが計算されている」
そしてゆっくり顔を上げた。
「本当に、お前が考えたのか?」
「もちろんよ」
「……そうか」
初めて、ほんの一瞬だけ、クラウディオはエレナに向けて柔らかい表情を見せた。
しかし彼はすぐに視線をそらし、いつもの冷静な色に戻る。
「工場の土地は、北側の平地を使え。水路が近く、流通の便も良い」
「えっ……あなた、協力してくれるの?」
「俺は経営者だ。利益になると判断しただけだ」
そう言う声に冷たさはあった――が、どこか拗ねたようにも聞こえた。
エレナは小さく笑う。
「ありがとう、クラウディオ」
「礼は不要だ」
そっぽを向いて歩き去るクラウディオ。
その背中を見送りながら、使用人たちは噛みしめるようにつぶやいた。
「……旦那様、あんな表情をされるのですね」
「ほんとうに……奥様のおかげで、あの方が変わり始めているのでは?」
エレナは胸にそっと手を当てた。
(――私は、変わりたい。そして、変えてみせる。この世界で幸せに生きるって決めたんだから)
その数週間後、工場は完成した。
クラウディオの協力もあり、驚異的なスピードで工場が建設された。
建設現場で働く職人たちは、口を揃えてエレナを称える。
「エレナ様は細かいところまで気づかれる。ほんと、頭が上がらんよ」
「働く環境まで考えてくれる貴族なんて、初めて見た」
雇用された若者たちは誇らしげに工場服を身に着けた。
「す、すげぇ……これが“マヨネーズ工場”か……!」
「エレナ様のために、俺たち頑張ろうな!」
エレナは胸が温かくなるのを感じていた。
(……本当に、領民の役に立てるんだ。私の“前世の知識”が、この世界で生きている)
工場の試運転の日、クラウディオが視察に訪れた。
白衣姿の従業員、清潔な作業場、規則正しく動く攪拌機……
すべてを静かに見渡したあと、クラウディオはぽつりと言った。
「……見事だ。エレナ、お前は……俺が想像していたより、ずっと優秀だ」
エレナは驚いて振り向く。
「クラウディオ……」
「領地の雇用は三十五名増えた。家計にとっても、領民にとっても利益が大きい。……正直に言おう。俺は、お前を見誤っていたのかもしれん」
その声は、これまでで一番――優しかった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
だがエレナは笑って受け止めることにした。
「私はまだまだ勉強中よ。だから……これからもっと役に立てるように頑張るわ」
クラウディオは、小さく息をつきながら目を伏せた。
「……好きにすればいい」
しかしエレナは気づいていた。
その言葉が、以前よりもずっと“柔らかい”ことに。
工場が動き始めて一ヶ月。
市場では連日、マヨネーズ瓶が売り切れた。
「これが噂の……! うちでも買えるのか!」
「娘の嫁入り道具にしたいくらいだよ!」
「エレナ様の考案品なんだって?」
「あの方は本当にすごい……!」
街中にエレナの名声が広がるにつれ、クラウディオの胸にわずかなざわめきが生まれ始めていた。
(――彼女は、本当に変わったのか?
それとも……もともと、俺が知らなかっただけなのか?)
はっきり言えない感情が、胸の底でゆっくり形を成し始めていた。




