27
朝の光が差し込む医療院。
窓際には新芽のように薄緑の光が揺れていた。
「……おめでとうございます、奥さま。ご懐妊です」
医師の穏やかな声は、まるで天井から天使が囁いたかのように柔らかかった。
その言葉が耳に入った瞬間、
エレナの呼吸はふっと止まり、次の瞬間に胸の奥から熱いものが込み上げた。
「……わ、私……」
声が震える。
喉が詰まり、言葉にならない。
“赤ちゃんが……できた?”
その実感は、数秒経ってようやく心の奥にじんわりと染み込んでいく。
医師は、心から祝福するように優しく頷いた。
「体調は安定されています。しっかりと休息を取り、水分を……」
説明を聞きながらも、エレナは胸に手を当て、
そこに宿った小さな命の存在を確かめるようにそっと触れた。
温かい。
とても、温かい。
(私……母になるのね)
涙が頬を伝い、ひとつ、またひとつ落ちていく。
医師がハンカチを差し出して微笑んだ。
「ご主人さまも、きっとお喜びになりますよ」
その一言が決定打になり、エレナは両手で顔を覆って泣き出した。
クラウディオ——
彼は、なんて言ってくれるだろう。
あの日、“妻として愛することはない” と言い切られた自分。
そこから始まった長い道のり。
前世の記憶が戻り、何もかもが変わった。
そしていま、彼と共に築いた日々の延長線上に、新しい命がある。
「……クラウディオ……」
名前を呼んだだけで、胸の奥がじんと熱くなる。
こんな幸せを、想像したことすらなかった。
屋敷へ戻る馬車の中。
エレナは胸に手を当てながら、緊張と期待で何度も深呼吸をしていた。
(どうしよう……どんな顔で伝えればいいのかしら)
恥ずかしさもある。
けれどそれ以上に、喜びを共有したい気持ちが強かった。
クラウディオは、いつものように書斎にいるはずだ。
商会と領地の両方を抱える彼は忙しい。
しかしエレナのためなら、必ず手を止めて話を聞いてくれる。
廊下を歩くだけで、鼓動が速くなる。
コンコン、と静かにノックすると、中から落ち着いた声が返ってきた。
「入っていい」
扉を開くと、机に向かっていたクラウディオが顔を上げた。
黒髪が光に揺れ、青い瞳がエレナを見るなり柔らかくなる。
「エレナ? 体調はどうしたんだ。顔色が……」
心配そうに立ち上がるその姿に胸が締め付けられる。
彼は昔のように自分勝手な男ではない。
エレナの些細な変化にもすぐ気づいてくれる。
エレナは深呼吸して、一歩近づいた。
「……クラウディオ。私……お話がありますの」
「なんだ? 座ろう」
勧められた椅子に座ると、クラウディオは隣に腰を下ろし、真剣な表情で見つめてくる。
そのまっすぐな瞳が、緊張をいっそう強めた。
(大丈夫。言える……)
「ええと……その……」
言葉が出ない。
喉がキュッと締まり、声が震える。
クラウディオが思わず手を取った。
「エレナ? 苦しいのか? 医療院には行ったのだろう? 何か……」
「いえ、違いますの……!」
思わず握り返し、エレナはクラウディオを見つめた。
「その……あの……」
一度大きく息を吸い、目を閉じた。
そして——
「……赤ちゃんが……できましたの」
沈黙。
クラウディオは瞬きを忘れたように固まった。
数秒。
いや、エレナには永遠に感じられるほど長い時間。
やがて、クラウディオの瞳がかすかに震えた。
「……今……何と……?」
「赤ちゃんです……。あなたとの……子ですわ」
クラウディオの体が大きく揺れた。
信じられないものを見るように、何度も彼女の顔とお腹を交互に見つめる。
「……俺たちの……子?」
エレナは静かに頷いた。
その瞬間——
クラウディオの瞳から、ぽろりと透明な涙が零れ落ちた。
「……あ……」
自分でも気づいていなかったのか、彼は慌てて手で拭う。
しかし、ひとつ拭いても次の涙が溢れ、
止められないように頬を伝って落ちていく。
「エレナ……そんな……嘘だろ……」
「嘘ではありませんわ」
クラウディオは顔を歪め、ぎゅっと目を閉じ、次の瞬間にはエレナを強く抱きしめた。
「ありがとう……エレナ……
ありがとう……俺のもとに来てくれて……」
震える声。
抱きしめる腕が、普段よりずっと強い。
エレナの胸にも熱いものが広がり、涙があふれた。
「クラウディオ……」
「俺は……本当に……幸せだ……」
それからの毎日は、優しさに満ちていた。
クラウディオは以前よりもさらにエレナを大切にし、
仕事から戻れば真っ先に彼女のもとへ来るようになった。
「体調は? 食べられたか?」
「ええ。今日は少し、すっぱいものが食べたくなりましたの」
「すぐ持ってこさせる」
「ふふ、もう。過保護ですわ」
「当然だ」
こんな会話が、毎日のように繰り返された。
クラウディオは、
自分が「父親」になるという事実を噛みしめているようだった。
夜、ベッドで手を重ねて眠る前には、
エレナのお腹にそっと手を添える。
「……早く会いたいな」
その声があまりにも優しくて、
エレナは胸がきゅっとなるほど嬉しかった。
季節が巡り、春が深まった頃。
屋敷は慌ただしくも温かい緊張に包まれていた。
時間は長く、痛みは深かったが——
エレナは決して諦めなかった。
(この子に……会いたい)
その一心だった。
そして——
「おめでとうございます。元気な……」
産声が響いた瞬間、
エレナは涙と笑いが混じったような気持ちで目を閉じた。
クラウディオは医師から子を受け取ると、
その場で膝をつき、肩を震わせた。
「……こんな……小さくて……」
震える声でエレナのそばへ来る。
「エレナ……ありがとう。本当に……ありがとう……」
クラウディオの涙が、赤ん坊の手に落ちた。
エレナは微笑みながら手を伸ばし、夫と子を同時に抱きしめた。
春の陽が降り注ぐ庭。
エレナは白い日傘を差してベンチに座り、
花の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。
「お母さまー! 見てーっ!」
弾む声とともに駆け寄ってくる小さな子。
淡い金髪にクラウディオと同じ青い瞳。
ふたりの愛をそのまま混ぜたような顔立ちだ。
「まあ、上手に走れましたわね」
エレナが褒めると、子はもっと褒めてほしいとばかりに胸を張る。
その少し後ろでは、クラウディオが歩いてくる。
昔よりも穏やかで、柔らかな表情になっていた。
「危ないぞ。そんなに急いだら転ぶ」
「だいじょうぶだよ、お父さま!」
「そう言って、いつも転んで泣くのは誰だ」
「……ぼ、ぼく!」
思わず笑ってしまう親子のやり取り。
エレナは立ち上がり、二人を迎えに歩き出した。
子がクラウディオの手を離れ、
エレナのスカートに抱きつく。
「お母さまー!」
「はいはい。元気いっぱいですわね」
ふたりは目を合わせ、微笑む。
クラウディオがエレナの隣に立つと、
そっと手を差し出した。
変わらない温かい手。
エレナもその手を取る。
指を絡めた瞬間、
初めてこの屋敷に来た頃の自分が遠くに感じられた。
あの時は孤独だった。
不安で、未来なんて見えなかった。
でも——
「あなたと生きる未来を、選んでよかった」
エレナは素直にそう言った。
心から、何の迷いもなく。
クラウディオは驚いたように目を瞬かせた後、
そっと微笑んだ。
「……俺もだ、エレナ。
何度生まれ変わっても、俺はまた君を選ぶ」
エレナの胸に熱が込み上げる。
視界がふわりと滲む。
でもその涙は、最初の頃の悲しい涙ではない。
愛され、愛して、家族になれた——
幸福の涙だった。
クラウディオはその涙を親指でそっと拭い、
額に優しくキスを落とした。
子供が「お父さまー! お母さまー! 遊ぼうー!」と呼ぶ。
エレナとクラウディオは顔を見合わせて笑い、
揃って子供へ歩み寄った。
春の庭に、笑い声が響く。
花は揺れ、光は満ち、
家族の未来はどこまでも幸せに続いていく。




