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「君を愛するつもりはない」と言った伯爵様の胃袋をつかんだら溺愛されました  作者: あいら


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朝の光が差し込む医療院。

窓際には新芽のように薄緑の光が揺れていた。


「……おめでとうございます、奥さま。ご懐妊です」


医師の穏やかな声は、まるで天井から天使が囁いたかのように柔らかかった。


その言葉が耳に入った瞬間、

エレナの呼吸はふっと止まり、次の瞬間に胸の奥から熱いものが込み上げた。


「……わ、私……」


声が震える。

喉が詰まり、言葉にならない。


“赤ちゃんが……できた?”


その実感は、数秒経ってようやく心の奥にじんわりと染み込んでいく。


医師は、心から祝福するように優しく頷いた。


「体調は安定されています。しっかりと休息を取り、水分を……」


説明を聞きながらも、エレナは胸に手を当て、

そこに宿った小さな命の存在を確かめるようにそっと触れた。


温かい。


とても、温かい。


(私……母になるのね)


涙が頬を伝い、ひとつ、またひとつ落ちていく。


医師がハンカチを差し出して微笑んだ。


「ご主人さまも、きっとお喜びになりますよ」


その一言が決定打になり、エレナは両手で顔を覆って泣き出した。


クラウディオ——

彼は、なんて言ってくれるだろう。


あの日、“妻として愛することはない” と言い切られた自分。

そこから始まった長い道のり。

前世の記憶が戻り、何もかもが変わった。


そしていま、彼と共に築いた日々の延長線上に、新しい命がある。


「……クラウディオ……」


名前を呼んだだけで、胸の奥がじんと熱くなる。


こんな幸せを、想像したことすらなかった。







屋敷へ戻る馬車の中。

エレナは胸に手を当てながら、緊張と期待で何度も深呼吸をしていた。


(どうしよう……どんな顔で伝えればいいのかしら)


恥ずかしさもある。

けれどそれ以上に、喜びを共有したい気持ちが強かった。


クラウディオは、いつものように書斎にいるはずだ。

商会と領地の両方を抱える彼は忙しい。

しかしエレナのためなら、必ず手を止めて話を聞いてくれる。


廊下を歩くだけで、鼓動が速くなる。


コンコン、と静かにノックすると、中から落ち着いた声が返ってきた。


「入っていい」


扉を開くと、机に向かっていたクラウディオが顔を上げた。

黒髪が光に揺れ、青い瞳がエレナを見るなり柔らかくなる。


「エレナ? 体調はどうしたんだ。顔色が……」


心配そうに立ち上がるその姿に胸が締め付けられる。

彼は昔のように自分勝手な男ではない。

エレナの些細な変化にもすぐ気づいてくれる。


エレナは深呼吸して、一歩近づいた。


「……クラウディオ。私……お話がありますの」


「なんだ? 座ろう」


勧められた椅子に座ると、クラウディオは隣に腰を下ろし、真剣な表情で見つめてくる。


そのまっすぐな瞳が、緊張をいっそう強めた。


(大丈夫。言える……)


「ええと……その……」


言葉が出ない。

喉がキュッと締まり、声が震える。


クラウディオが思わず手を取った。


「エレナ? 苦しいのか? 医療院には行ったのだろう? 何か……」


「いえ、違いますの……!」


思わず握り返し、エレナはクラウディオを見つめた。


「その……あの……」


一度大きく息を吸い、目を閉じた。


そして——


「……赤ちゃんが……できましたの」


沈黙。


クラウディオは瞬きを忘れたように固まった。


数秒。

いや、エレナには永遠に感じられるほど長い時間。


やがて、クラウディオの瞳がかすかに震えた。


「……今……何と……?」


「赤ちゃんです……。あなたとの……子ですわ」


クラウディオの体が大きく揺れた。

信じられないものを見るように、何度も彼女の顔とお腹を交互に見つめる。


「……俺たちの……子?」


エレナは静かに頷いた。


その瞬間——


クラウディオの瞳から、ぽろりと透明な涙が零れ落ちた。


「……あ……」


自分でも気づいていなかったのか、彼は慌てて手で拭う。


しかし、ひとつ拭いても次の涙が溢れ、

止められないように頬を伝って落ちていく。


「エレナ……そんな……嘘だろ……」


「嘘ではありませんわ」


クラウディオは顔を歪め、ぎゅっと目を閉じ、次の瞬間にはエレナを強く抱きしめた。


「ありがとう……エレナ……

ありがとう……俺のもとに来てくれて……」


震える声。

抱きしめる腕が、普段よりずっと強い。


エレナの胸にも熱いものが広がり、涙があふれた。


「クラウディオ……」


「俺は……本当に……幸せだ……」


それからの毎日は、優しさに満ちていた。


クラウディオは以前よりもさらにエレナを大切にし、

仕事から戻れば真っ先に彼女のもとへ来るようになった。


「体調は? 食べられたか?」


「ええ。今日は少し、すっぱいものが食べたくなりましたの」


「すぐ持ってこさせる」


「ふふ、もう。過保護ですわ」


「当然だ」


こんな会話が、毎日のように繰り返された。


クラウディオは、

自分が「父親」になるという事実を噛みしめているようだった。


夜、ベッドで手を重ねて眠る前には、

エレナのお腹にそっと手を添える。


「……早く会いたいな」


その声があまりにも優しくて、

エレナは胸がきゅっとなるほど嬉しかった。










季節が巡り、春が深まった頃。


屋敷は慌ただしくも温かい緊張に包まれていた。


時間は長く、痛みは深かったが——

エレナは決して諦めなかった。


(この子に……会いたい)


その一心だった。


そして——


「おめでとうございます。元気な……」


産声が響いた瞬間、

エレナは涙と笑いが混じったような気持ちで目を閉じた。


クラウディオは医師から子を受け取ると、

その場で膝をつき、肩を震わせた。


「……こんな……小さくて……」


震える声でエレナのそばへ来る。


「エレナ……ありがとう。本当に……ありがとう……」


クラウディオの涙が、赤ん坊の手に落ちた。


エレナは微笑みながら手を伸ばし、夫と子を同時に抱きしめた。








春の陽が降り注ぐ庭。


エレナは白い日傘を差してベンチに座り、

花の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。


「お母さまー! 見てーっ!」


弾む声とともに駆け寄ってくる小さな子。

淡い金髪にクラウディオと同じ青い瞳。

ふたりの愛をそのまま混ぜたような顔立ちだ。


「まあ、上手に走れましたわね」


エレナが褒めると、子はもっと褒めてほしいとばかりに胸を張る。


その少し後ろでは、クラウディオが歩いてくる。

昔よりも穏やかで、柔らかな表情になっていた。


「危ないぞ。そんなに急いだら転ぶ」


「だいじょうぶだよ、お父さま!」


「そう言って、いつも転んで泣くのは誰だ」


「……ぼ、ぼく!」


思わず笑ってしまう親子のやり取り。


エレナは立ち上がり、二人を迎えに歩き出した。


子がクラウディオの手を離れ、

エレナのスカートに抱きつく。


「お母さまー!」


「はいはい。元気いっぱいですわね」


ふたりは目を合わせ、微笑む。


クラウディオがエレナの隣に立つと、

そっと手を差し出した。


変わらない温かい手。


エレナもその手を取る。


指を絡めた瞬間、

初めてこの屋敷に来た頃の自分が遠くに感じられた。


あの時は孤独だった。

不安で、未来なんて見えなかった。


でも——


「あなたと生きる未来を、選んでよかった」


エレナは素直にそう言った。

心から、何の迷いもなく。


クラウディオは驚いたように目を瞬かせた後、

そっと微笑んだ。


「……俺もだ、エレナ。

何度生まれ変わっても、俺はまた君を選ぶ」


エレナの胸に熱が込み上げる。

視界がふわりと滲む。


でもその涙は、最初の頃の悲しい涙ではない。


愛され、愛して、家族になれた——

幸福の涙だった。


クラウディオはその涙を親指でそっと拭い、

額に優しくキスを落とした。


子供が「お父さまー! お母さまー! 遊ぼうー!」と呼ぶ。


エレナとクラウディオは顔を見合わせて笑い、

揃って子供へ歩み寄った。


春の庭に、笑い声が響く。


花は揺れ、光は満ち、

家族の未来はどこまでも幸せに続いていく。

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