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その日、エレナはいつものように朝から屋敷の厨房に立ち、明日の領地視察で振る舞う食事の試作をしていた。
近頃はクラウディオも頻繁に厨房を訪れるようになり、忙しい政務の合間に、エレナが作る料理の香りを楽しみにしているらしい。
だが今日に限って姿は見えない。使用人たちの話によると、朝から王宮に呼ばれ、急ぎの文書の確認が続いているという。
(クラウディオ様……昨日は、ちゃんと休めたかしら)
昨夜、彼は珍しく弱った顔を見せた。政務の負担が積み重なり、肩の痛みを和らげるためにマッサージをしてほしいと頼まれたほどだ。
エレナは何も言わず、ただそっと彼の肩に手を当てた。最初は緊張していた彼も、次第に身体から力を抜き、最後にはうたた寝してしまった。
(今日は帰ってきたら、温かいスープでも作って差し上げよう)
そんなことを考えながら、エレナはエプロンを外す。午前の家事を終えた後、彼女は近くの市場へ具材の買い足しに行く予定でいた。
使用人のローザが心配そうに寄ってくる。
「奥様、おひとりで外出なさるのですか? 最近、物騒な噂もありますし……」
「大丈夫よ。今日は護衛のリカルドも付いてくれるから」
エレナは微笑んだ。
まさか、その“物騒な噂”の正体が自分を狙う影だとは、この時はまだ知らない。
***
市場はいつもより人が多く賑わっていた。臨時の祭礼が近いせいで、屋台の準備が進んでいるらしい。
エレナは、クラウディオが好きだと言ったワインに合う野菜を探し、露店をひとつ、またひとつと巡っていった。
「奥様、あまり人混みに入らないよう……」
「分かっているわ。ありがとう、リカルド」
護衛の騎士リカルドは、真剣な顔で周囲を警戒している。
市場の空気には、いつもと違う重さがあった。
――それもそのはずだ。
離れた屋台の陰で、黒ずくめの男たちが、小さく囁き合っていた。
「標的は、あの伯爵令嬢だな」
「ああ。旦那に連れはいるが、騎士一人など問題ない」
「薬もある。さっさとやるぞ。失敗は許されねえ」
その声は市場の喧騒に消え、誰も気付かない。
エレナは露店の老婦人から新鮮な野菜を買い、両手いっぱいの袋を抱えながら笑顔を浮かべていた。
「クラウディオ様、喜んでくれるといいのだけど……」
その一言を合図にするように、闇の手が動いた。
***
エレナが路地を出た瞬間、時間が歪んだかのようだった。
「奥様、後ろ――!」
リカルドが叫んだ。
だが言葉が終わるよりも早く、男が二人、エレナの腕を掴んでいた。
「きゃっ……!」
「大人しくしろ!」
袋が地面に落ち、野菜が転がる。
エレナは必死にもがいたが、力では敵わない。
リカルドが剣を抜こうとした、その時――。
「寝てろ」
すれ違いざまに殴られ、意識を失った。
さらに背後から現れた男が、何か白い布をエレナの口元へ押し当てる。
甘ったるい、鼻に刺すような香り。
「……っ、いや……!」
息を吸った瞬間、視界が揺らぎ、力が抜けた。
意識が遠のく中、唯一浮かんだ名前はただひとつ。
(クラウ……ディオ……さま……)
掠れた声がかすかに漏れ、まぶたが落ちた。
エレナはそのまま闇に沈んだ。
***
男たちは素早く馬車に押し込み、扉を閉める。
「成功だ。急げ、連れていくぞ」
がたん、と鈍く揺れる衝撃。
暗闇の馬車は、静かに、誰にも気付かれることなく発進した。
しばらくして、小さな呻き声が聞こえた。
「……う……っ……」
エレナの意識が微かに戻り始めていた。
だが身体は動かない。薬の効果で、まるで糸の切れた人形のように力が入らなかった。
(どこ……ここは……?)
ぼやけた視界に、粗末な木の天井が見えた。
揺れる馬車の中、暗い影が二つ三つ。
「起きるな。まだ効いてるはずだろ」
「心配するな。弱い女だ。すぐ落ちる」
聞き慣れない声が低く笑う。
(……私、誘拐……されたの?)
理解した瞬間、濁った恐怖が身体を締め付けた。
「……クラウ……ディオ……さま……」
震える声は、誰にも届かない。
男たちは気にも留めず、馬車はなおも加速した。
揺れ続ける馬車の中で、エレナは最後の力を振り絞るように、かすかに唇を動かす。
「クラウ……ディオ様……助けて……」
その声は吐息のように弱く、儚く消えた。
しかし、彼女が望んだその名前は――
確かに、クラウディオの胸を締めつけ、彼を“鬼神”のような決意へと変える引き金となる。




