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「君を愛するつもりはない」と言った伯爵様の胃袋をつかんだら溺愛されました  作者: あいら


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夜の王都は、昼間の喧騒を忘れたように静まり返っていた。舗道を照らす魔導灯がぼんやりと光り、風が運ぶ香草の匂いが淡く漂っている。そんな中、ある屋敷だけは異様な気配をまとっていた。

 ――バルツァーリ伯爵家分家、ダリオの屋敷。


 重厚な扉の向こうには橙色の灯りが揺れ、酒と煙草の混じった臭いがこもっている。部屋の中央に立つのはダリオ・バルツァーリ。クラウディオの父の弟にあたる男であり、近年は金に困り、裏社会に手を出し始めた男だった。


 その鋭い目つきには、焦りと欲望の濁りが入り混じっている。


「……どういうことだ。悪評を流しているはずなのに、誰も取り合わないだと?」



 ダリオの目の前には、中から小柄な男が。


「最近のアーデルハイト伯爵夫人、つまりエレナ様は、領民からの評判も高く、王宮からの信頼も……」


「黙れ!」


 ダリオの怒声が響き、男は口をつぐむ。


 ダリオの中で、焦りは限界に達していた。

 クラウディオとエレナが正式夫婦として親密になれば――。

  跡継ぎが生まれれば、全てが終わる。


 クラウディオが結婚当初に「愛さない」と宣言したとき、ダリオは唇の端をつり上げたものだった。愛がなければ子は生まれぬ。子が生まれなければ後継は自分の息子、ミケーレに回ってくる。

 そう信じて疑わなかった。


 だが現実はどうだ。

 最近のクラウディオは誰が見ても変わった。

 エレナを庇い、エレナを褒め、エレナのために自ら動き――。


 「……あの男が、恋をした?」


 ダリオの声は低く、かつてないほど冷えていた。


 もう一つの椅子では、彼の息子ミケーレが黙って座っていた。

 穏やかな金髪と青い瞳を持つ少年――十八歳。父とは似ても似つかない優しい気質だ。


「父上……クラウディオ叔父上は、立派な方です。跡継ぎになられるのは自然の――」


「黙れと言っている!」


 怒鳴られ、ミケーレは肩を震わせたが、それでも父を見捨てるような目はしなかった。

 ミケーレはクラウディオを尊敬し、彼のような当主になりたいと願っている。

 その心は純粋だ。

 だが、それゆえに恐ろしい。


 ――ミケーレよ、お前のその優しさが、今は邪魔なのだ。


 ダリオは息子を冷たい目で見つめた。


「いいか、ミケーレ。お前は黙って父に従っていればよい。お前は跡継ぎになるのだ。お前のために、私は動いているのだぞ」


 ミケーレはうつむいた。

 胸がざわつく。

 何かが間違っている――。

 そう思っても、父を否定する勇気がなかった。


 ダリオは立ち上がり、机の引き出しを開く。

 そこから出てきたのは、一枚の契約書。

 裏社会の“悪徳商人”として王都で知られる男と交わした、秘密の協定だ。


「ふふ……エレナ・フォン・アーデルハイト。あの娘さえいなければ……すべて元通りだ」


 言葉は甘い毒そのものだった。


「失脚させれば、クラウディオは婚姻を解消するだろう。あの男は責任感が強い。だが、妻としての立場が消えればどうということはない」


 ミケーレは思わず立ち上がった。


「待ってください! エレナ叔母様は何も悪くありません。父上、どうか――」


「黙れぇ!」


 机が叩かれ、震える音が部屋に響く。

 ミケーレは完全に凍りついた。


 ダリオは唇を歪めたまま、狂ったように笑い始める。


「ふふ……エレナを失脚させるだけでは足りぬ。いっそ――いなくなってもらえばいい。事故でも、誘拐でも、病でも……方法はいくらでもある」


 その瞬間、ミケーレは背筋が氷のように冷えた。


「父上……まさか、そんな……」


「ミケーレ。お前には分からぬのだ、権力とは。クラウディオはあまりに優秀だ。あれを止めるには、よほどのことをしなければならぬ」


 そしてダリオは、息子の目をまっすぐ見据えて言った。


「――エレナが消えれば、クラウディオは弱る。跡継ぎどころではなくなる。そのとき、お前が『救いの手』として動けばよい。お前ならできる」


 その言葉は優しいようでいて、最も残酷だった。

 ミケーレは震える声で叫ぶ。


「そんなこと、望んでいません! 私は……私は、叔父上の助けになりたいだけで……!」


 だがダリオは聞く耳を持たない。

 権力への飢えが彼を狂わせていた。


「よいかミケーレ、これはお前のためだ。

 『エレナがいなくなれば万事解決だ』……この一手で全てが動く」


 ダリオは再び契約書を手に、とある名をなぞった。


 ――“闇の傭兵団ナイトロウ


 王都の暗部でも最も忌み嫌われる、誘拐・暗殺専門の集団。


「すべては手はず通りに進んでいる。あとは指示を出すだけだ」


 ダリオの指先が蝋燭の火に照らされ、赤く染まる。




 そのころ、クラウディオはというと、エレナと領地視察から戻り、屋敷で報告書を整理していた。

 視察は順調で、エレナが領民に愛されていることを、彼は誇らしく思っていた。


 ふと、エレナの名を思い出すたびに、胸が温かくなる。

 目の前の書類にも自然と手が止まる。


「……あの人は、本当に不思議だ」


 好意。

 嫉妬。

 誇らしさ。

 守りたいという強い衝動。


 これまで感じたことのない感情が、次々と押し寄せてくる。


 クラウディオは椅子にもたれかかり、小さく息をついた。





 一方その頃。

 ダリオは裏路地の奥深くにある酒場にいた。

 薄暗い室内には、刺青を持つ男たちが酒を飲んでいる。


 ダリオはフードを被った大柄な男――《ナイトロウ》のリーダーと向き合った。


「……ターゲットは一人の女。エレナ・フォン・アーデルハイト。若く、貴族で、最近注目を集めている」


「へぇ。貴族の女をさらえってのは、金がかかるが……報酬次第だな」


 ダリオは袋を机に置いた。中には大量の金貨。


「前金だ。成功すれば三倍を支払う」


 男たちの目つきが変わった。

 金が絡めば、彼らは容赦なく牙を剥く。


「で、どうやって“事故”に見せかける?」


 ダリオはにやりと笑った。


「簡単だ。視察の帰り道や、王都での外出中……エレナは常に人目があるわけではない。『身代金目的の誘拐』という形が最も自然だ」


「もちろん、口封じも必要だな?」


「……場合によっては」


 その言葉に、リーダーは愉快そうに笑った。


「お前、相当追い詰められてるなぁ。いいぜ。ターゲットの女を連れてくりゃいいんだろ。死んでも生きてても、どっちでもいいんだな?」


「……成功すれば構わん」


 そのときだった。

 奥の席で、ミケーレが震える手で拳を握りしめていた。

 こっそり父を尾行し、ここまで来てしまったのだ。


(叔母様が……危ない……!)


 ミケーレはどうするべきか分からず、ただ息を潜めたまま震えていた。






 ダリオが去った後、ミケーレはようやく動き出した。

 走りながら涙が止まらない。


(叔父上に……伝えなければ。私が、叔母様を守らなければ……!)


 だが――。


 彼がバルツァーリ邸に戻る途中。

 背後に影が落ちる。


 振り返ると、ナイトロウの傭兵がニヤリと笑っていた。


「坊ちゃん、盗み聞きは良くねぇなぁ」


「っ……!」


 ミケーレは逃げるが、路地は迷路のように入り組んでいる。

 靴音が迫る。

 息が切れる。


(どうか……どうか、叔母様に何もありませんように……!)


 ミケーレは祈りながら、闇の中へ走り続けた。

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