20
夜の王都は、昼間の喧騒を忘れたように静まり返っていた。舗道を照らす魔導灯がぼんやりと光り、風が運ぶ香草の匂いが淡く漂っている。そんな中、ある屋敷だけは異様な気配をまとっていた。
――バルツァーリ伯爵家分家、ダリオの屋敷。
重厚な扉の向こうには橙色の灯りが揺れ、酒と煙草の混じった臭いがこもっている。部屋の中央に立つのはダリオ・バルツァーリ。クラウディオの父の弟にあたる男であり、近年は金に困り、裏社会に手を出し始めた男だった。
その鋭い目つきには、焦りと欲望の濁りが入り混じっている。
「……どういうことだ。悪評を流しているはずなのに、誰も取り合わないだと?」
ダリオの目の前には、中から小柄な男が。
「最近のアーデルハイト伯爵夫人、つまりエレナ様は、領民からの評判も高く、王宮からの信頼も……」
「黙れ!」
ダリオの怒声が響き、男は口をつぐむ。
ダリオの中で、焦りは限界に達していた。
クラウディオとエレナが正式夫婦として親密になれば――。
跡継ぎが生まれれば、全てが終わる。
クラウディオが結婚当初に「愛さない」と宣言したとき、ダリオは唇の端をつり上げたものだった。愛がなければ子は生まれぬ。子が生まれなければ後継は自分の息子、ミケーレに回ってくる。
そう信じて疑わなかった。
だが現実はどうだ。
最近のクラウディオは誰が見ても変わった。
エレナを庇い、エレナを褒め、エレナのために自ら動き――。
「……あの男が、恋をした?」
ダリオの声は低く、かつてないほど冷えていた。
もう一つの椅子では、彼の息子ミケーレが黙って座っていた。
穏やかな金髪と青い瞳を持つ少年――十八歳。父とは似ても似つかない優しい気質だ。
「父上……クラウディオ叔父上は、立派な方です。跡継ぎになられるのは自然の――」
「黙れと言っている!」
怒鳴られ、ミケーレは肩を震わせたが、それでも父を見捨てるような目はしなかった。
ミケーレはクラウディオを尊敬し、彼のような当主になりたいと願っている。
その心は純粋だ。
だが、それゆえに恐ろしい。
――ミケーレよ、お前のその優しさが、今は邪魔なのだ。
ダリオは息子を冷たい目で見つめた。
「いいか、ミケーレ。お前は黙って父に従っていればよい。お前は跡継ぎになるのだ。お前のために、私は動いているのだぞ」
ミケーレはうつむいた。
胸がざわつく。
何かが間違っている――。
そう思っても、父を否定する勇気がなかった。
ダリオは立ち上がり、机の引き出しを開く。
そこから出てきたのは、一枚の契約書。
裏社会の“悪徳商人”として王都で知られる男と交わした、秘密の協定だ。
「ふふ……エレナ・フォン・アーデルハイト。あの娘さえいなければ……すべて元通りだ」
言葉は甘い毒そのものだった。
「失脚させれば、クラウディオは婚姻を解消するだろう。あの男は責任感が強い。だが、妻としての立場が消えればどうということはない」
ミケーレは思わず立ち上がった。
「待ってください! エレナ叔母様は何も悪くありません。父上、どうか――」
「黙れぇ!」
机が叩かれ、震える音が部屋に響く。
ミケーレは完全に凍りついた。
ダリオは唇を歪めたまま、狂ったように笑い始める。
「ふふ……エレナを失脚させるだけでは足りぬ。いっそ――いなくなってもらえばいい。事故でも、誘拐でも、病でも……方法はいくらでもある」
その瞬間、ミケーレは背筋が氷のように冷えた。
「父上……まさか、そんな……」
「ミケーレ。お前には分からぬのだ、権力とは。クラウディオはあまりに優秀だ。あれを止めるには、よほどのことをしなければならぬ」
そしてダリオは、息子の目をまっすぐ見据えて言った。
「――エレナが消えれば、クラウディオは弱る。跡継ぎどころではなくなる。そのとき、お前が『救いの手』として動けばよい。お前ならできる」
その言葉は優しいようでいて、最も残酷だった。
ミケーレは震える声で叫ぶ。
「そんなこと、望んでいません! 私は……私は、叔父上の助けになりたいだけで……!」
だがダリオは聞く耳を持たない。
権力への飢えが彼を狂わせていた。
「よいかミケーレ、これはお前のためだ。
『エレナがいなくなれば万事解決だ』……この一手で全てが動く」
ダリオは再び契約書を手に、とある名をなぞった。
――“闇の傭兵団”
王都の暗部でも最も忌み嫌われる、誘拐・暗殺専門の集団。
「すべては手はず通りに進んでいる。あとは指示を出すだけだ」
ダリオの指先が蝋燭の火に照らされ、赤く染まる。
そのころ、クラウディオはというと、エレナと領地視察から戻り、屋敷で報告書を整理していた。
視察は順調で、エレナが領民に愛されていることを、彼は誇らしく思っていた。
ふと、エレナの名を思い出すたびに、胸が温かくなる。
目の前の書類にも自然と手が止まる。
「……あの人は、本当に不思議だ」
好意。
嫉妬。
誇らしさ。
守りたいという強い衝動。
これまで感じたことのない感情が、次々と押し寄せてくる。
クラウディオは椅子にもたれかかり、小さく息をついた。
一方その頃。
ダリオは裏路地の奥深くにある酒場にいた。
薄暗い室内には、刺青を持つ男たちが酒を飲んでいる。
ダリオはフードを被った大柄な男――《ナイトロウ》のリーダーと向き合った。
「……ターゲットは一人の女。エレナ・フォン・アーデルハイト。若く、貴族で、最近注目を集めている」
「へぇ。貴族の女をさらえってのは、金がかかるが……報酬次第だな」
ダリオは袋を机に置いた。中には大量の金貨。
「前金だ。成功すれば三倍を支払う」
男たちの目つきが変わった。
金が絡めば、彼らは容赦なく牙を剥く。
「で、どうやって“事故”に見せかける?」
ダリオはにやりと笑った。
「簡単だ。視察の帰り道や、王都での外出中……エレナは常に人目があるわけではない。『身代金目的の誘拐』という形が最も自然だ」
「もちろん、口封じも必要だな?」
「……場合によっては」
その言葉に、リーダーは愉快そうに笑った。
「お前、相当追い詰められてるなぁ。いいぜ。ターゲットの女を連れてくりゃいいんだろ。死んでも生きてても、どっちでもいいんだな?」
「……成功すれば構わん」
そのときだった。
奥の席で、ミケーレが震える手で拳を握りしめていた。
こっそり父を尾行し、ここまで来てしまったのだ。
(叔母様が……危ない……!)
ミケーレはどうするべきか分からず、ただ息を潜めたまま震えていた。
ダリオが去った後、ミケーレはようやく動き出した。
走りながら涙が止まらない。
(叔父上に……伝えなければ。私が、叔母様を守らなければ……!)
だが――。
彼がバルツァーリ邸に戻る途中。
背後に影が落ちる。
振り返ると、ナイトロウの傭兵がニヤリと笑っていた。
「坊ちゃん、盗み聞きは良くねぇなぁ」
「っ……!」
ミケーレは逃げるが、路地は迷路のように入り組んでいる。
靴音が迫る。
息が切れる。
(どうか……どうか、叔母様に何もありませんように……!)
ミケーレは祈りながら、闇の中へ走り続けた。




