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「君を愛するつもりはない」と言った伯爵様の胃袋をつかんだら溺愛されました  作者: あいら


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2

胸の奥にまだ微かな痛みが残っていた。

 あの夜——クラウディオから告げられた冷たい宣告。

 しかし、前世の記憶を取り戻した今、その痛みは違う形へと変わっていた。


(……仕方ないわよね。あの頃の私は、本当に嫌な女だったもの)


 侍女に見せつけるためだけの派手なドレス選び。

 下位貴族の婦人たちを見下すような態度。

 クラウディオに向けていた、気まぐれな高慢さ。


 鏡の前で背筋を伸ばしながら、エレナはふっと笑う。


「今さら後悔しても遅いですわね。でも……変わればいいのよ、エレナ。

 ここで、やり直しましょう。」


 前世での自分——21歳、大学生、料理が好きだった普通の日本人。

 恋もしたし、友人とも笑い合った。

 なのに事故であっけなく死んだ。


 その人生を丸ごと“やり直す”機会があるのだ。


 胸に小さな炎が灯ったように、エレナの瞳は静かに輝いていく。






 伯爵家の料理は美味しい、

 しかし、いつも日本で料理をしていた私としては、

 どうしても懐かしくなる味がある。


「……醤油が欲しいですわ」


 ぽつりと呟いた自分の声に、侍女のミリアは首をかしげた。


「え? エレナ様、今……“しょ、ゆ……?”と?」


「ええ。黒くて、香りが豊かで、塩味と旨味が凝縮された液体調味料ですわ」


「???」


 ミリアの頭の上に浮かぶ疑問符。

 だが無理もない。この国には醤油も味噌も存在しないのだ。


(でも……バルツァーリ商会なら、東方の珍しい品を扱っていると聞いたわ)


 確信はない、その時はまったく興味を示さなかったが、

 今思うと、醤油と味噌らしき物があると話題になっていた。


 バルツァーリ家は、戦争後に開拓された東方の港から珍しい貨物を仕入れている——そんな噂が記憶に残っていた。


 つまり、醤油と味噌を輸入することも可能かもしれない。


 こうしてエレナは、使用人を通してバルツァーリ商会へ「東方の調味料」を取り寄せる依頼を出した。


 商会は“クラウディオの妻の指示”となれば動かざるを得ない。


(契約結婚とはいえ……妻の権限、使わせていただきますわ)


 





 そして数日後——


「エレナ様、届きました! 本当に……黒い瓶で……す、すごく香ばしい匂いがします!」


 ミリアが大事そうに抱えていたのは、木樽に詰められた醤油と味噌。

 樽の外側には見慣れない東方の文字が記されている。


 蓋を開けると——ふわりと広がる懐かしい香り。


「……これですわ。間違いありません」


 胸が熱くなった。

 懐かしくて、恋しくて……前世の自分が、ようやく彼女の中で繋がった気がした。


「ミリア、今日は厨房を借りますわ」


「えっ!? エレナ様が……お料理を!?」


 いつもなら「貴族の令嬢が厨房に入るなんて」と周囲が反対しただろう。

 だがエレナの瞳に宿る強い決意に、誰も言葉を失った。


「大丈夫。前世で慣れていますの」


「……ぜ、前世?」


「ああ、気にしなくてよろしいですわ。お手伝い、お願いできます?」


「は、はいっ!!!」


 ミリアの声は弾み、厨房の空気が一気に明るくなる。


 



 まずは簡単な料理から、“豚のしょうが焼き”とかが良さそうね。


 まずは生姜をすりおろし、醤油と混ぜ合わせる。

 この世界には生姜がある、そして、一番大事な“豚肉”もある。


(これなら……できる!)


 しっかりと生姜醤油に付け込んで、少し経ってから。


 フライパンを熱して。油をひいて——豚肉を並べた瞬間、


「じゅぅぅぅぅっ!」


 香ばしい音が広がり、甘じょっぱい香りが厨房中を満たした。


「な……何ですか、この匂い……!?」


「すごい……これ、料理の匂いですか?」


「エレナ様、本当に……お料理できるんですね……」


 侍女も料理人も息をのんでいる。


 エレナは笑った。


「ええ。得意ですわ。——この世界でも、料理を楽しみたかったのです」


 私は心からほほ笑んだ。







 次は味噌。蓋を開けた瞬間、ふわっと広がる懐かしい匂いに胸がいっぱいになる。


 前世で慣れ親しんだ味。

 料理を通じて、またひとつ自分を取り戻した気がした。


「この麦味噌……少し前世の物と違いますけれど、ちゃんと旨味がありますわね」


 鍋に水を入れ、仕入れている貝(日本のアサリに近い)を加える。

 貝が開いたところで出汁と味噌を溶き入れると、


「~~っ、お、おいしそう……っ!」


「この香りだけでパンが食べられそうですわ……!」


 厨房が感動の渦になる。


 試食の時間。

 震える手でしょうが焼きを口に運んだ料理人が、目を見開いた。


「……な、なんですかこれは……柔らかい……こんなに味が染みた肉、初めて……!」


 皿を抱えて涙ぐむ侍女もいる。


「エレナ様……こんな……こんなに温かい味……! 私……感動して……!」


「エレナ様の料理……王宮でも出せますわ!」


 瞬く間に噂は屋敷中へ広がった。


「エレナ様は、天使のようなお方だと……!」

「奥様が料理してくださるなんて……奇跡です!」

「クラウディオ様は、こんな素敵な奥様を……どうして……?」


 誰もが驚き、尊敬し、エレナを見る目が変わっていく。


(……うん。いい感じですわね)


 胸の内で、そっと微笑む。


(この家で、私は“愛されない”けれど……

 それでも幸せに生きられるはずだわ。

 前世の知識で、誰かの役に立てるなら——それでいい。)


 エレナの決意は、静かに、しかし強く根を張り始めていた。







バルツァーリ家当主執務室。

 革張りの椅子に腰掛け、商会の帳簿を確認していたクラウディオは、控えめなノック音に顔を上げた。


「失礼いたします、クラウディオ様」


 入ってきたのは執事のオリヴァー。長年仕える老紳士で、クラウディオからの信頼も厚い。


「どうした、オリヴァー。今日の商会からの報告はすでに受け取ったはずだが」


「……いえ、その、商会の件ではなく……奥様のことでございます」


「……エレナの?」


 クラウディオの手が、帳簿の上で止まる。


 エレナといえば、昨日まで高慢な態度と言葉遣いで周囲を疲れさせる存在だった。

 結婚式の日も、彼女の見栄と虚栄心は全開で、ほとほと呆れ返ったばかりである。


(愛することなど、あり得ない——そう伝えたはずだ)


 そう思いながらも、胸の奥で、わずかにざらついた何かが動いた。


「何だ。……また使用人に無茶をさせたのか?」


「ち、違います! むしろ……むしろ……!」


 オリヴァーは興奮しているのか、言い淀む。


「落ち着け。何があった?」


「……奥様が……お料理を……!」


「…………は?」


 クラウディオは一瞬、耳を疑った。


「料理を、とな?」


「は、はい……! 厨房で、料理長と共に、豚肉を焼き……東方の調味料で味付けをし……! あまりの出来栄えに、料理人たちは涙を流しておりました!」


「……あのエレナが……料理?」


 想像できない。

 侍女に指先ひとつ動かせと命じるだけだった女だ。

 自分のドレスの重さに文句は言えても、鍋を持つ姿など想像すらできない。


「どうやら、奥様は東方から“醤油”と“味噌”という珍しい調味料まで取り寄せられたようで……」


「醤油? 味噌? ……確かに、商会に依頼が来ていたが……まさか本当に料理に使うとは」


 クラウディオは眉を寄せる。


(言っては悪いが、調味料の意味も知らぬまま見栄で注文したのだと思っていた。

 ……だが、料理を? 本当に?)


 疑念と困惑が胸に広がる。


 オリヴァーは続けた。


「奥様がお作りになった“豚のしょうが焼き”は、甘く香ばしい味で……

 “味噌汁”は、初めて食べるのに懐かしさを感じる味だった、と」


「……しょうが焼き? 味噌汁? 聞いたこともない」


「それが……屋敷中で大評判なのです。

 “奥様は実はとても優しくて働き者だ”と、使用人たちは皆、感激しておりまして……!」


 クラウディオは一瞬、無言になった。


(……優しい? 働き者? あのエレナが?)


 昨日までの彼女の姿が思い浮かぶ。

 わがままで、気分屋で、自分以外を見下していた令嬢。


 その彼女が——料理を?

 しかも“優しい”と評判になるほどに?


(……理解できん)


 だが執事の目は真剣で、とても嘘をついているようには見えなかった。


「……料理は……その、うまかったのか?」


 無意識に、そんな質問が口をついた。

 自分でも驚くほど、声が低く、僅かに焦りさえ滲んでいた。


 オリヴァーは目を細め、大きく頷く。


「はい。……驚くほどに。

 クラウディオ様……奥様は、まるで別人のようでございます」


「……別人……?」


 胸がざわりと揺れた。


 昨夜、エレナは冷酷な言葉を浴びせられて倒れた。

 医師によれば、身体には異常はなく、極度のショックだという話だった。


(そのあと……何か変わったのか?)


 クラウディオは椅子から立ち上がる。


「——厨房へ行く」


「えっ!? し、執務の途中ですが……!」


「料理人たちに話を聞く。真偽を確かめねばならん」


 オリヴァーは慌てて後を追う。


(エレナ……お前は一体、何を考えている?

 本当に……変わったというのか?)


 胸がざわつく。

 その正体を掴めぬまま、クラウディオは厨房へと向かった。


——その感情が“興味”なのか“困惑”なのか、それとも——

彼自身、まだ気づいていなかった。

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