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胸の奥にまだ微かな痛みが残っていた。
あの夜——クラウディオから告げられた冷たい宣告。
しかし、前世の記憶を取り戻した今、その痛みは違う形へと変わっていた。
(……仕方ないわよね。あの頃の私は、本当に嫌な女だったもの)
侍女に見せつけるためだけの派手なドレス選び。
下位貴族の婦人たちを見下すような態度。
クラウディオに向けていた、気まぐれな高慢さ。
鏡の前で背筋を伸ばしながら、エレナはふっと笑う。
「今さら後悔しても遅いですわね。でも……変わればいいのよ、エレナ。
ここで、やり直しましょう。」
前世での自分——21歳、大学生、料理が好きだった普通の日本人。
恋もしたし、友人とも笑い合った。
なのに事故であっけなく死んだ。
その人生を丸ごと“やり直す”機会があるのだ。
胸に小さな炎が灯ったように、エレナの瞳は静かに輝いていく。
伯爵家の料理は美味しい、
しかし、いつも日本で料理をしていた私としては、
どうしても懐かしくなる味がある。
「……醤油が欲しいですわ」
ぽつりと呟いた自分の声に、侍女のミリアは首をかしげた。
「え? エレナ様、今……“しょ、ゆ……?”と?」
「ええ。黒くて、香りが豊かで、塩味と旨味が凝縮された液体調味料ですわ」
「???」
ミリアの頭の上に浮かぶ疑問符。
だが無理もない。この国には醤油も味噌も存在しないのだ。
(でも……バルツァーリ商会なら、東方の珍しい品を扱っていると聞いたわ)
確信はない、その時はまったく興味を示さなかったが、
今思うと、醤油と味噌らしき物があると話題になっていた。
バルツァーリ家は、戦争後に開拓された東方の港から珍しい貨物を仕入れている——そんな噂が記憶に残っていた。
つまり、醤油と味噌を輸入することも可能かもしれない。
こうしてエレナは、使用人を通してバルツァーリ商会へ「東方の調味料」を取り寄せる依頼を出した。
商会は“クラウディオの妻の指示”となれば動かざるを得ない。
(契約結婚とはいえ……妻の権限、使わせていただきますわ)
そして数日後——
「エレナ様、届きました! 本当に……黒い瓶で……す、すごく香ばしい匂いがします!」
ミリアが大事そうに抱えていたのは、木樽に詰められた醤油と味噌。
樽の外側には見慣れない東方の文字が記されている。
蓋を開けると——ふわりと広がる懐かしい香り。
「……これですわ。間違いありません」
胸が熱くなった。
懐かしくて、恋しくて……前世の自分が、ようやく彼女の中で繋がった気がした。
「ミリア、今日は厨房を借りますわ」
「えっ!? エレナ様が……お料理を!?」
いつもなら「貴族の令嬢が厨房に入るなんて」と周囲が反対しただろう。
だがエレナの瞳に宿る強い決意に、誰も言葉を失った。
「大丈夫。前世で慣れていますの」
「……ぜ、前世?」
「ああ、気にしなくてよろしいですわ。お手伝い、お願いできます?」
「は、はいっ!!!」
ミリアの声は弾み、厨房の空気が一気に明るくなる。
まずは簡単な料理から、“豚のしょうが焼き”とかが良さそうね。
まずは生姜をすりおろし、醤油と混ぜ合わせる。
この世界には生姜がある、そして、一番大事な“豚肉”もある。
(これなら……できる!)
しっかりと生姜醤油に付け込んで、少し経ってから。
フライパンを熱して。油をひいて——豚肉を並べた瞬間、
「じゅぅぅぅぅっ!」
香ばしい音が広がり、甘じょっぱい香りが厨房中を満たした。
「な……何ですか、この匂い……!?」
「すごい……これ、料理の匂いですか?」
「エレナ様、本当に……お料理できるんですね……」
侍女も料理人も息をのんでいる。
エレナは笑った。
「ええ。得意ですわ。——この世界でも、料理を楽しみたかったのです」
私は心からほほ笑んだ。
次は味噌。蓋を開けた瞬間、ふわっと広がる懐かしい匂いに胸がいっぱいになる。
前世で慣れ親しんだ味。
料理を通じて、またひとつ自分を取り戻した気がした。
「この麦味噌……少し前世の物と違いますけれど、ちゃんと旨味がありますわね」
鍋に水を入れ、仕入れている貝(日本のアサリに近い)を加える。
貝が開いたところで出汁と味噌を溶き入れると、
「~~っ、お、おいしそう……っ!」
「この香りだけでパンが食べられそうですわ……!」
厨房が感動の渦になる。
試食の時間。
震える手でしょうが焼きを口に運んだ料理人が、目を見開いた。
「……な、なんですかこれは……柔らかい……こんなに味が染みた肉、初めて……!」
皿を抱えて涙ぐむ侍女もいる。
「エレナ様……こんな……こんなに温かい味……! 私……感動して……!」
「エレナ様の料理……王宮でも出せますわ!」
瞬く間に噂は屋敷中へ広がった。
「エレナ様は、天使のようなお方だと……!」
「奥様が料理してくださるなんて……奇跡です!」
「クラウディオ様は、こんな素敵な奥様を……どうして……?」
誰もが驚き、尊敬し、エレナを見る目が変わっていく。
(……うん。いい感じですわね)
胸の内で、そっと微笑む。
(この家で、私は“愛されない”けれど……
それでも幸せに生きられるはずだわ。
前世の知識で、誰かの役に立てるなら——それでいい。)
エレナの決意は、静かに、しかし強く根を張り始めていた。
バルツァーリ家当主執務室。
革張りの椅子に腰掛け、商会の帳簿を確認していたクラウディオは、控えめなノック音に顔を上げた。
「失礼いたします、クラウディオ様」
入ってきたのは執事のオリヴァー。長年仕える老紳士で、クラウディオからの信頼も厚い。
「どうした、オリヴァー。今日の商会からの報告はすでに受け取ったはずだが」
「……いえ、その、商会の件ではなく……奥様のことでございます」
「……エレナの?」
クラウディオの手が、帳簿の上で止まる。
エレナといえば、昨日まで高慢な態度と言葉遣いで周囲を疲れさせる存在だった。
結婚式の日も、彼女の見栄と虚栄心は全開で、ほとほと呆れ返ったばかりである。
(愛することなど、あり得ない——そう伝えたはずだ)
そう思いながらも、胸の奥で、わずかにざらついた何かが動いた。
「何だ。……また使用人に無茶をさせたのか?」
「ち、違います! むしろ……むしろ……!」
オリヴァーは興奮しているのか、言い淀む。
「落ち着け。何があった?」
「……奥様が……お料理を……!」
「…………は?」
クラウディオは一瞬、耳を疑った。
「料理を、とな?」
「は、はい……! 厨房で、料理長と共に、豚肉を焼き……東方の調味料で味付けをし……! あまりの出来栄えに、料理人たちは涙を流しておりました!」
「……あのエレナが……料理?」
想像できない。
侍女に指先ひとつ動かせと命じるだけだった女だ。
自分のドレスの重さに文句は言えても、鍋を持つ姿など想像すらできない。
「どうやら、奥様は東方から“醤油”と“味噌”という珍しい調味料まで取り寄せられたようで……」
「醤油? 味噌? ……確かに、商会に依頼が来ていたが……まさか本当に料理に使うとは」
クラウディオは眉を寄せる。
(言っては悪いが、調味料の意味も知らぬまま見栄で注文したのだと思っていた。
……だが、料理を? 本当に?)
疑念と困惑が胸に広がる。
オリヴァーは続けた。
「奥様がお作りになった“豚のしょうが焼き”は、甘く香ばしい味で……
“味噌汁”は、初めて食べるのに懐かしさを感じる味だった、と」
「……しょうが焼き? 味噌汁? 聞いたこともない」
「それが……屋敷中で大評判なのです。
“奥様は実はとても優しくて働き者だ”と、使用人たちは皆、感激しておりまして……!」
クラウディオは一瞬、無言になった。
(……優しい? 働き者? あのエレナが?)
昨日までの彼女の姿が思い浮かぶ。
わがままで、気分屋で、自分以外を見下していた令嬢。
その彼女が——料理を?
しかも“優しい”と評判になるほどに?
(……理解できん)
だが執事の目は真剣で、とても嘘をついているようには見えなかった。
「……料理は……その、うまかったのか?」
無意識に、そんな質問が口をついた。
自分でも驚くほど、声が低く、僅かに焦りさえ滲んでいた。
オリヴァーは目を細め、大きく頷く。
「はい。……驚くほどに。
クラウディオ様……奥様は、まるで別人のようでございます」
「……別人……?」
胸がざわりと揺れた。
昨夜、エレナは冷酷な言葉を浴びせられて倒れた。
医師によれば、身体には異常はなく、極度のショックだという話だった。
(そのあと……何か変わったのか?)
クラウディオは椅子から立ち上がる。
「——厨房へ行く」
「えっ!? し、執務の途中ですが……!」
「料理人たちに話を聞く。真偽を確かめねばならん」
オリヴァーは慌てて後を追う。
(エレナ……お前は一体、何を考えている?
本当に……変わったというのか?)
胸がざわつく。
その正体を掴めぬまま、クラウディオは厨房へと向かった。
——その感情が“興味”なのか“困惑”なのか、それとも——
彼自身、まだ気づいていなかった。




