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クラウディオが視察に出ると聞いたのは、朝食の席でのことだった。
「数日ほど、領地の工場や商会の支部を回る予定だ」
淡々とした声。表情もいつもとあまり変わらない。だが、続く一言でエレナの胸はふわりと浮いた。
「……よければ、一緒に来ないか?」
パンを切っていた手が止まる。
「わ、私がですの?」
クラウディオは視線を皿に落とし、少し息を吐いた。
「仕事ばかりで、あまり……夫らしいこともしていない。それに、最近は……君が一緒だと、色々と上手くいく気がする」
言いながら耳がわずかに赤くなっていることに気づき、エレナは思わず笑みを漏らした。
「もちろんですわ。ぜひ、ご一緒させてくださいませ」
その言葉を聞いた瞬間、クラウディオの瞳に安堵の光が宿る。
彼の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる瞬間を見た。
――まるで、陽だまりのように。
***
視察当日の朝。
屋敷の前にはクラウディオのための馬車と、護衛の騎士たち、そして使用人が準備に走り回っている。
「奥様、こちらのクッションは馬車用にご用意しました!」
「お茶とお菓子も積んであります!」
すっかりエレナに懐いた使用人たちが、次々と気遣いを見せる。
クラウディオはそんな様子を横目にしながらも、どこか嬉しそうだった。
いや、嬉しいのだが、嬉しいと悟られたくないという顔だ。
「……皆が、よく働いてくれるようになったな」
そう呟いた彼にエレナは微笑む。
「あなたが良い主人だからですわ。だから皆、尽くしたくなるのです」
「……いや、それは……君の影響の方が大きい」
照れくさそうに咳払いをするクラウディオ。
そんな彼を見ていると、自然と頬が緩んでしまう。
***
馬車の中は、ふたりきり。
静かに揺れる音に合わせ、布製のカーテンがやわらかく揺れた。
「視察って……どこまで行くのですか?」
「北の工場を中心に三ヶ所。その後は領主館に一泊する」
「まあ、泊まりですの? 楽しみですわ」
エレナが嬉しそうに言うと、クラウディオは少し言い淀んだように視線を逸らした。
「……楽しみ、か」
「ええ、とても」
馬車が石畳の道を抜け、草原が広がる街道へ出る。
その景色にエレナが目を輝かせると、クラウディオはふと彼女の横顔を見つめた。
「そんな顔で見られると……」
「え?」
「……いや、なんでもない」
本当は“そんな顔で喜ばれると、どうしようもなく嬉しくなる”と言いたかったのだろう。
エレナの胸はほんのり熱くなる。
馬車が揺れるたび、二人の肩がかすかに触れた。
触れても、離れても、また近づく。
(……なんだか、新婚旅行みたいですわ)
そんなことを思った瞬間、心臓が跳ねる。
***
最初の訪問先は、マヨネーズ工場だった。
到着するなり、従業員たちが勢いよく駆け寄ってくる。
「エレナ様だ! 本当に来てくださったんですか!」
「クラウディオ様と一緒に……なんだか夢みたいだ!」
エレナは笑顔で答え、工場内を丁寧に見て回る。
彼女が開発したマヨネーズの生産ラインは順調で、領民たちも活気に満ちていた。
「エレナ様のおかげで、仕事が増えました!」
「冬でも収入が安定するなんて、今までなかったんです!」
領民たちの言葉に、クラウディオは無言のまま聞いていたが――
その横顔には誇らしい色が宿っていた。
やがて彼は、視察の合間に小声で言った。
「……すごいな。君が来てから、何もかも……変わった気がする」
「そんなことありませんわ。皆様が頑張ってくださるからです」
「いや。君だからだ」
自然に言ってしまったらしく、クラウディオはそこで初めて気づいて、慌てたように視線を逸らした。
エレナは胸が熱くなるのを感じたが、それ以上は言葉にしない。
ただ、そっと微笑んで彼の歩みに合わせた。
***
日が傾き始めた頃、領主館に到着した。
職員たちが驚きながらも歓迎し、二人は夕食の席につく。
簡素な地方料理ではあったが、素材の味が生きていて美味しい。
「このパン、とても香ばしいですわ」
「ここの領地は小麦が有名だ。君が喜んでくれるなら、もっと取引を増やすべきか」
そんな他愛ない会話をしているうち――
ふたりの距離は自然と近くなっていた。
食後、エレナがワインを少しだけ口に入れると、すぐに顔が赤くなる。
「だ、大丈夫か?」
「すこし……ほんのすこし、ふわっとしましたわ……」
クラウディオは慌てて水を差し出す。
「少し酔っているようだ。部屋に戻ったほうが……」
「うふふ……ありがとう、クラウディオ様。優しいのね」
「っ……」
頬を赤くしながらも、彼はエレナの背を支え、部屋へと連れて戻る。
廊下を歩く間、エレナはとろんとした目で彼を見つめていた。
「クラウディオ様って……こんなに、頼りになる方でしたのね……」
「……当たり前だ。夫だから」
その言葉に、エレナはさらに頬を染める。
「夫……ですわよね……」
足元がふらりと揺れた瞬間――
クラウディオが咄嗟に腰を抱き寄せた。
温かい腕に包まれ、エレナはその胸元に頬を寄せる。
「……あなた、やっぱり……素敵ですわ」
「っ……エレナ……」
誰もいない廊下。
灯りに照らされた二人の影が、寄り添うように重なっていた。
クラウディオは深く息を吸い、言葉を探すように唇を動かす。
「……本当に。可愛い人だ」
今まで誰にも見せたことのない、柔らかな笑み。
揺らぎ、心を掴まれるような優しい表情。
その顔を見た瞬間、エレナの胸はきゅっと締め付けられた。
(ああ……また、好きになってしまいましたわ)
ふらふらと彼にもたれながら、
エレナは甘い幸福に包まれていた。
――気づけば、二人の距離は以前とは比べものにならないほど近くなっていた。




