18
クラウディオの誕生日祝いが終わり、屋敷が静けさを取り戻した深夜――。
灯りの落とされた廊下には、柔らかな月明かりだけが差し込んでいた。
エレナは両手を胸の前で重ね、そっと深呼吸をして廊下を歩いていた。
(……私、今日ずっと舞い上がってた気がする)
クラウディオの笑顔。
彼がかけてくれた言葉。
テーブル越しに触れた手――。
「……ふふっ」
思い出すだけで頬が熱くなる。
心はまだ落ち着かず、胸は甘く締めつけられたまま。
眠れるはずがない。だから少し気分を整えようと、部屋の外へ出たのだ。
(クラウディオ様……喜んでくれて、本当に良かった)
あの人の笑顔は、希少だ。
戦いの人生を送ってきた彼が、あれほど柔らかく笑うなんて――。
(もっと……あの笑顔が見たい)
気づけばそんな気持ちが胸に生まれていた。
そのとき――
「エレナ?」
低く落ち着いた声が、背後からそっと響いた。
エレナは驚いて振り返る。
「クラウディオ様……?」
月光に照らされた彼は、昼間と違う雰囲気を身にまとっていた。
厳しく、そしてどこか寂しげで――それでも、圧倒的に美しい。
「眠れないのか?」
「はい……少し、気持ちが高ぶってしまって」
エレナが苦笑すると、クラウディオはゆっくりと歩み寄ってきた。
彼の足音が近づくたび、胸の鼓動が高鳴っていく。
夜の静寂の中、互いの呼吸が聞こえるほど近くなる。
「……私もだ」
クラウディオは壁にもたれ、エレナをまっすぐ見つめた。
廊下には二人以外誰もいない。
深夜の静けさが、まるで世界から音を奪ったかのようだった。
「エレナ」
「……はい」
「誕生日のことだが……本当に、ありがとう。
あんなふうに祝われるとは思っていなかった」
彼の瞳は真摯で、ほんの少しだけ揺れている。
「クラウディオ様の笑顔が見られて……私、とても嬉しかったんです」
エレナがそう言うと、クラウディオの喉がわずかに震えた。
何かを言おうと、迷っているようだった。
(どうしたの……?)
クラウディオは、そっとエレナに一歩近づく。
指先が触れるか触れないか――
その距離で、彼の手がわずかに伸びた。
触れたい。
でも、触れてはいけない。
そんな迷いが、そのわずかな動きに宿っていた。
「……君がそんな顔をすると、私は……」
言葉の続きを言いかけて、
エレナの指先と、クラウディオの指先が――
ほんの一瞬、触れた。
触れたというより、かすめただけ。
けれど、その瞬間、エレナの全身に電流のようなものが走った。
「あ……」
思わずエレナは息を飲む。
クラウディオも同じだった。
指先を見下ろし、息を止めたように固まっている。
その表情は、驚きと、戸惑いと、制御しきれない衝動が入り混じっていた。
(クラウディオ様……そんな表情をするなんて)
エレナの胸は熱く、苦しいほど高鳴った。
「……エレナ」
低い声が、揺れていた。
感情を抑え込んだ、切ない声。
「私は……君を守りたいと思っている。
以前とは違う気持ちで」
(“違う気持ち”……それは――)
エレナが息を呑むと、クラウディオは苦しげに目を伏せた。
「だが……私は君に何を返せるのだろう。
“愛さない”と言ったのは、軽率な意地のようなものだった。
今ではその言葉が、君を傷つけていないか……それが怖い」
「そんな……」
エレナは首を振る。
「私、嬉しかったんです。
今日のクラウディオ様の笑顔を見られて……本当に」
その言葉に、クラウディオの目が揺れる。
「エレナ……」
再び近づく。
今度は、はっきりと。
影と影が重なり合うほど近く、互いの息がかかる距離。
エレナの心臓が、痛いほど鼓動した。
(こんなに近いのに……)
クラウディオの手がゆっくりと上がる。
肩に触れようとして、途中で止まる。
触れたい。
でも触れてしまえば、もう戻れなくなる。
そんな葛藤が、わずかな沈黙に滲んでいた。
やがてクラウディオの手は、エレナの肩に触れる直前で止まり――
そっと下りた。
触れなかった。
「……すまない」
「どうして……謝るんですか?」
「私は、君に触れてしまいそうだったからだ」
「触れられたくありませんでしたか?」
エレナの声は、震えていた。
クラウディオは一瞬だけ目を閉じ、そして静かに言った。
「触れたいと思っている。
……だが、きみの気持ちを尊重したい」
エレナは顔が熱くなるのを感じた。
(そんなの……)
けれど、言葉にできない。
胸の奥から湧いてくる想いは、まだあまりに強すぎて。
クラウディオは一歩下がった。
距離を取ったはずなのに、視線は強く結ばれたままだ。
「だが……君の笑顔を見ると、私は壊れそうになる。
どうしようもなく、惹かれてしまう」
その言葉に、エレナの胸が熱く染まった。
廊下の端まで歩いたところで、クラウディオが振り返った。
「エレナ」
「はい……?」
「今日の君がくれた“笑顔”は……
私の宝物になった」
エレナは一瞬、呼吸を忘れた。
胸がぎゅっと苦しくなり、目が潤む。
「……私もです。
クラウディオ様の笑顔が、私の……宝物になりました」
夜の廊下で、ふたりの視線が静かに絡み合う。
触れそうで触れない指先。
すれ違う手と、深く結ばれた視線。
そのわずかな距離が、切ないほど愛おしかった。




