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「君を愛するつもりはない」と言った伯爵様の胃袋をつかんだら溺愛されました  作者: あいら


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クラウディオの誕生日祝いが終わり、屋敷が静けさを取り戻した深夜――。


 灯りの落とされた廊下には、柔らかな月明かりだけが差し込んでいた。

 エレナは両手を胸の前で重ね、そっと深呼吸をして廊下を歩いていた。


(……私、今日ずっと舞い上がってた気がする)


 クラウディオの笑顔。

 彼がかけてくれた言葉。

 テーブル越しに触れた手――。


「……ふふっ」


 思い出すだけで頬が熱くなる。


 心はまだ落ち着かず、胸は甘く締めつけられたまま。

 眠れるはずがない。だから少し気分を整えようと、部屋の外へ出たのだ。


(クラウディオ様……喜んでくれて、本当に良かった)


 あの人の笑顔は、希少だ。

 戦いの人生を送ってきた彼が、あれほど柔らかく笑うなんて――。


(もっと……あの笑顔が見たい)


 気づけばそんな気持ちが胸に生まれていた。


 そのとき――


「エレナ?」


 低く落ち着いた声が、背後からそっと響いた。


 エレナは驚いて振り返る。


「クラウディオ様……?」


 月光に照らされた彼は、昼間と違う雰囲気を身にまとっていた。

 厳しく、そしてどこか寂しげで――それでも、圧倒的に美しい。


「眠れないのか?」


「はい……少し、気持ちが高ぶってしまって」


 エレナが苦笑すると、クラウディオはゆっくりと歩み寄ってきた。


 彼の足音が近づくたび、胸の鼓動が高鳴っていく。

 夜の静寂の中、互いの呼吸が聞こえるほど近くなる。


「……私もだ」


 クラウディオは壁にもたれ、エレナをまっすぐ見つめた。


 廊下には二人以外誰もいない。

 深夜の静けさが、まるで世界から音を奪ったかのようだった。


「エレナ」


「……はい」


「誕生日のことだが……本当に、ありがとう。

 あんなふうに祝われるとは思っていなかった」


 彼の瞳は真摯で、ほんの少しだけ揺れている。


「クラウディオ様の笑顔が見られて……私、とても嬉しかったんです」


 エレナがそう言うと、クラウディオの喉がわずかに震えた。


 何かを言おうと、迷っているようだった。


(どうしたの……?)


 クラウディオは、そっとエレナに一歩近づく。


 指先が触れるか触れないか――

 その距離で、彼の手がわずかに伸びた。


 触れたい。

 でも、触れてはいけない。


 そんな迷いが、そのわずかな動きに宿っていた。


「……君がそんな顔をすると、私は……」


 言葉の続きを言いかけて、


 エレナの指先と、クラウディオの指先が――

 ほんの一瞬、触れた。


 触れたというより、かすめただけ。

 けれど、その瞬間、エレナの全身に電流のようなものが走った。


「あ……」


 思わずエレナは息を飲む。


 クラウディオも同じだった。

 指先を見下ろし、息を止めたように固まっている。


 その表情は、驚きと、戸惑いと、制御しきれない衝動が入り混じっていた。


(クラウディオ様……そんな表情をするなんて)


 エレナの胸は熱く、苦しいほど高鳴った。


「……エレナ」


 低い声が、揺れていた。

 感情を抑え込んだ、切ない声。


「私は……君を守りたいと思っている。

 以前とは違う気持ちで」


(“違う気持ち”……それは――)


 エレナが息を呑むと、クラウディオは苦しげに目を伏せた。


「だが……私は君に何を返せるのだろう。

 “愛さない”と言ったのは、軽率な意地のようなものだった。

 今ではその言葉が、君を傷つけていないか……それが怖い」


「そんな……」


 エレナは首を振る。


「私、嬉しかったんです。

 今日のクラウディオ様の笑顔を見られて……本当に」


 その言葉に、クラウディオの目が揺れる。


「エレナ……」


 再び近づく。

 今度は、はっきりと。


 影と影が重なり合うほど近く、互いの息がかかる距離。


 エレナの心臓が、痛いほど鼓動した。


(こんなに近いのに……)


 クラウディオの手がゆっくりと上がる。

 肩に触れようとして、途中で止まる。


 触れたい。

 でも触れてしまえば、もう戻れなくなる。


 そんな葛藤が、わずかな沈黙に滲んでいた。


 やがてクラウディオの手は、エレナの肩に触れる直前で止まり――

 そっと下りた。


 触れなかった。


「……すまない」


「どうして……謝るんですか?」


「私は、君に触れてしまいそうだったからだ」


「触れられたくありませんでしたか?」


 エレナの声は、震えていた。


 クラウディオは一瞬だけ目を閉じ、そして静かに言った。


「触れたいと思っている。

 ……だが、きみの気持ちを尊重したい」


 エレナは顔が熱くなるのを感じた。


(そんなの……)


 けれど、言葉にできない。

 胸の奥から湧いてくる想いは、まだあまりに強すぎて。


 クラウディオは一歩下がった。

 距離を取ったはずなのに、視線は強く結ばれたままだ。


「だが……君の笑顔を見ると、私は壊れそうになる。

 どうしようもなく、惹かれてしまう」


 その言葉に、エレナの胸が熱く染まった。


 廊下の端まで歩いたところで、クラウディオが振り返った。


「エレナ」


「はい……?」


「今日の君がくれた“笑顔”は……

 私の宝物になった」


 エレナは一瞬、呼吸を忘れた。


 胸がぎゅっと苦しくなり、目が潤む。


「……私もです。

 クラウディオ様の笑顔が、私の……宝物になりました」


 夜の廊下で、ふたりの視線が静かに絡み合う。


 触れそうで触れない指先。

 すれ違う手と、深く結ばれた視線。


 そのわずかな距離が、切ないほど愛おしかった。

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