17
クラウディオの誕生日が一週間後に迫ったある朝。
エレナは屋敷の大きな厨房にいた。早朝の澄んだ空気の中、使用人たちが慌ただしく動く中で、エレナは一人、腕を組んで悩んでいた。
「……クラウディオ様が喜ぶ料理って、何かしら……」
彼は何を食べても「美味しい」と言ってくれる。
だが、それは「誰が作っても同じ」という意味ではないと、エレナは最近気づいた。
彼がふと漏らす「懐かしい」という言葉。その裏に、料理を通して“家族”を感じたいという願いが隠れていることを。
(誕生日くらい……家族の温かさを感じてほしい)
そう決めて、エレナはある料理を考え始めた。
「エレナ様、朝食の準備が整いました」
「ありがとう。でももう少しここで考えていくわ」
そう言いながら、エレナはメモを取り始めた。
メインは肉料理か? それとも、彼の好きな魚料理を活かすべきか?
そして最後には、最近輸入できたばかりのマヨネーズと味噌を合わせたヨーロッパには珍しい風味の料理を添えようか――。
「皆さん、お願いがあります!」
エレナが顔を上げると、厨房の料理人たちが驚いたように振り返った。
「クラウディオ様の誕生日を……皆でお祝いしたいのです。協力してくれますか?」
最初は、料理長が目を丸くし、それから急に柔らかく笑った。
「もちろんでございます、奥様。あのお方に“誕生日祝い”など……いつ以来のことでしょうな」
その言葉に、エレナは胸を痛めた。
(やっぱり……あの人は“祝われる側”じゃなかったのね)
幼い頃から伯爵家の跡取りとして、
成人してからは商人として成功する為に、ずっと働いてきたのだ。
(だからこそ……今回だけは、温かい誕生日にしたい)
エレナは決意を固めた。
「……で、サプライズとは?」
使用人の一人が恐る恐る尋ねると、エレナは声を潜めて答えた。
「当日はクラウディオ様を、絶対に屋敷に戻さないようにしたいの。理由を聞かれても誤魔化して……どうにか、夕方まで時間を稼いでほしいの」
「……承知いたしました!」
皆が一斉に頷くと、エレナは次の指示を出した。
「料理は私が中心で作ります。でも品数が多いから、準備は分担しましょう。
ケーキは……王都のケーキ職人のパオロさんに頼んであります」
その名を聞いた瞬間、厨房がざわついた。
「パ、パオロといえば、王宮菓子御用達の……!」
「え……あのお方、引退なさったはずでは」
「なぜ呼べたんです?」
エレナは少し誇らしげに微笑む。
「以前、マヨネーズと味噌のお礼にと、クラウディオ様が手紙を書いていたの。そのついでにお願いしたら、
“伯爵殿の奥方が頼むのなら、最後の仕事をしよう”
と言ってくださったの」
「なんと……!」
その瞬間、 “クラウディオ様のために最高の誕生日を”という空気が、厨房全体に満ちた。
誕生日の朝、クラウディオは妙な違和感を覚えていた。
朝の食堂。
いつもは丁寧に挨拶してくれる使用人たちが、今日は妙に落ち着かない。
「おはよう……?」
「お、おはようございます! 本日もどうぞお気をつけて!」
やけに声が大きい。
クラウディオが視線を向けると、突然全員が別の方向を向いて仕事を始める。
(……何だ? 今日は何か特別な日だったか……?)
彼は考えた。
だが何も思いつかない。自分が生まれた日など、これまで誰も祝ってくれなかったせいで、意識したことが無かったのだ。
(まあ……仕事を早く終わらせて、エレナの顔でも見に帰るか)
それが、彼の今日の唯一の楽しみだった。
しかし――
その“楽しみ”すら、今日は阻止される。
「クラウディオ殿、急な会議が……!」
「こちらの資料にも目を通していただきたい!」
「報告が山積みで……!」
部下たちが次々と押し寄せ、彼の足止めをする。
「……なぜ今日に限ってそんなに用事が増える?」
クラウディオは眉をひそめた。
彼は元軍務卿で、政治の裏を読むのが得意だ。この不自然な動きに気づかないわけがない。
(……何か、隠しているな)
ただ、それが悪いことではないと、直感した。
部下たちの目がどこか浮き立っている。嘘をついているようで、悪意はない。
(……エレナが絡んでいるのか?)
胸の奥が、不意に熱くなる。
「エレナ様、クラウディオ様がお帰りになりそうとの連絡です!」
「まだケーキが来ていないのよ! とにかく時間を稼いで!」
屋敷はてんてこ舞いだった。
エレナはドレスのまま厨房を駆け回り、料理の最終仕上げをしている。
・前菜:白身魚のカルパッチョ
・スープ:野菜のブイヨンスープ
・メイン:肉のロースト、味噌マヨとハーブのソース
・サイド:サラダ、バゲット
・デザート:特製ケーキ(未着)
(……クラウディオ様、喜んでくれるかな)
ふと、心が締めつけられた。
(あなたは、これまで……いつも孤独だったのでしょう?)
そう思うと、胸が痛い。
エレナは両手をぎゅっと握った。
(だからこそ……今日だけは、絶対に笑ってほしいの)
「クラウディオ様がお戻りです!」
玄関の扉が開く音が聞こえ、屋敷の灯りが一斉に暗くなる。
クラウディオは立ち止まり、周囲に視線を向けた。
「……暗いな。停電か?」
その瞬間――
「「「お誕生日おめでとうございます、クラウディオ様!!!」」」
パッと灯りがつき、屋敷中の使用人が笑顔で並んでいた。
中心に立つのは、エレナ。
深紅のリボンを結んだ可憐なドレス姿で、心からの笑顔を向けてくる。
「クラウディオ様……お誕生日、おめでとうございます!」
クラウディオの表情が、完全に固まった。
「……え?」
驚きすぎて声が出ない。
何が起きているのか理解できず、ただエレナを見つめる。
「……このために、一日中……?」
「ええ。皆で準備しました」
エレナが胸に手をあてて笑う。
「クラウディオ様が生まれた日を……
“祝いたい”と、心から思ったから」
その瞬間、クラウディオの胸の奥で何かが崩れ落ちた。
彼は大きく息を吸い、喉が震えた。
「……誰かが……私のために……こんな……」
言い切れない。
彼の声は、微かに震えていた。
(クラウディオ様……涙をこらえてる?)
エレナは胸を打たれた。
彼の大きな手が、わずかに震えている。
食堂へ案内され、料理の香りが漂うと、クラウディオはさらに目を見開いた。
「全部……君が?」
「はい。もちろん、一人じゃ無理なので皆に協力してもらいました」
彼は皿に視線を落とし、そして小さく笑った。
「……私の誕生日のために、こんなに多くの人が……?」
「クラウディオ様は皆に慕われていますから」
その一言に、クラウディオの表情が少しだけ崩れた。
ずっと、孤独だった。
人に期待され、利用され、求められ、責任を背負わされ続け――
けれど「祝われた」記憶は一度も無かった。
今、彼は人生で初めて“自分のための温かさ”に触れていた。
使用人たちが気を利かせて下がると、広い食堂に残ったのは二人だけ。
「……エレナ」
「はい?」
「この日が……良い日だと思える。
私は……多分、生まれて初めてだ」
エレナは思わず目を潤ませた。
「そんな……私こそ、嬉しいです。クラウディオ様が喜んでくれて……」
テーブル越しに、クラウディオがエレナの手をそっと取った。
優しく、けれど揺るぎない力で。
「ありがとう。……本当に、ありがとう。
君のおかげで……私は今日、生まれ直した気分だ」
その言葉に、エレナの胸は熱くなり、頬が赤く染まった。
食事が終わり、クラウディオは静かにワイングラスを置いた。
「エレナ」
「はい?」
「君が……私の妻で良かった」
今度こそ、エレナは涙を堪えきれなかった。
「クラウディオ様……」
彼は席を立ち、エレナのもとへ歩み寄る。
椅子の横に膝をつき、彼女の手の甲にそっと口づけた。
「今日の幸せを……私は一生忘れない」
優しい声。
エレナの胸の奥で、何かが確実に変わった。
(好き……本当に、好き)
それは確かな、恋の実感だった。




