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バルツァーリ伯爵家の屋敷の中庭には、初夏の風が吹き抜けていた。
――その静けさを破るように、小太りの中年男が、そそくさと裏庭を歩いていた。
ダリオ・バルツァーリ。
クラウディオの叔父であり、かつて商会で横領を働き追い出された男。
しかし本人に反省の気配はなく、むしろ伯爵家の繁栄を見るたびに妬みを募らせていた。
最近は特に苛立っている。
理由はひとつ――クラウディオとエレナの仲が予想以上に良好だからだ。
(まずい、非常にまずいぞ……!)
この数週間、クラウディオとエレナの笑顔を何度も目撃した。
馬車で寄り添って帰ってくる二人。
劇場に手を取り合って出ていく二人。
庭で談笑しながら歩く二人。
エレナの料理が商会や領地を潤し、貴族社会でも高評価を得ていることも知っていた。
(このまま夫婦仲が深まったら……!
子ができたら……!
跡継ぎは確実にクラウディオの子だ……!)
ダリオにとってそれは耐えがたい未来だった。
なぜなら、彼は密かにこう考えていたからだ。
**「クラウディオに跡継ぎができなければ、我が息子ミケーレが後を継ぐ」**と。
ミケーレを愛しているわけではない。
自分が贅沢な暮らしをしたいだけだ。
(ミケーレが伯爵になれば、その金と権力は全て私のもの。
クラウディオの財も、商会の利益も、私の手の中に……!)
そんな身勝手な欲望から、ダリオの野心は肥大し続けていた。
今日もまた、気配を殺して屋敷の裏手へ向かう。
そこには、誰も使っていない古い倉庫がある。
倉庫の扉を叩くと、中から小柄な男が顔を覗かせた。
「遅かったじゃねえか、ダリオさん」
「まあまあ、慌てなさんな。誰にも見られてはおらん」
男は異国の訛りがある。
この国の人間ではない。
ダリオは周囲を見回し、小声で続けた。
「例の話だが……あの二人、最近非常に仲が良い。計画を早めたい」
「へぇ……まだ夫婦仲が冷えきってると思ってたが?」
「最初はそうだった。しかし、今は……チッ、女の方が予想以上にやり手でな」
男はにやりと笑う。
「で、俺らに何をしてほしい?」
ダリオは喉を鳴らし、声をさらに潜めた。
「……“あの女”、エレナ・フォン・アーデルハイトを……疎ましい存在にしたい。
クラウディオの足を引っ張る厄介者にして、領民や周囲からの評判を落とさせるんだ」
「ほぉ……殺しとまでは言わねぇのか?」
「馬鹿者! 殺したらクラウディオが本気で潰しにくるわ!
そうではなく……じわじわと、計画的にな。
噂か、失敗か、あるいは……事故か……」
男は腕を組み、ニヤニヤしたまま聞いている。
「まあ、金をくれるなら何でもやるが。アンタの望みは“失墜”ってわけだな」
「そうだ。あの女さえ躓けば、領地も商会も乱れ、クラウディオも弱る。
その隙に私は……!」
男は呆れた顔をした。
「金のためとはいえ、血のつながった甥っ子を売る気かい?」
「ふん、あいつが成り上がって伯爵なんて身分になるからだ。
そもそも伯爵位も商会も、本来は私が継ぐべきだった……!」
完全な勘違いだが、ダリオにとっては真実だった。
男は肩をすくめ、結局は金袋を受け取る。
「わかったよ。まずは噂から流してみるかね。
“エレナ様は成り上がりの金で好き放題してる”とか、“領地の金を使い込んでいる”とか」
「うむ……それだ。それでいい。
貴族どもは噂に弱いからな!」
下卑た笑いが倉庫の中に響く。
***
一方その頃――。
倉庫から少し離れた雑木林の中。
少年の細い影が木の陰に身を潜め、必死に息を潜めていた。
ミケーレ・バルツァーリ。
16歳の彼は、偶然にもダリオの行動に不審を抱き、後をつけてきたのだ。
(……お父様、何を言っているの……?
クラウディオ様と、エレナ様を陥れる……?)
震える指先を口に当て、息を殺す。
(まさか……でも、そんな……!)
ミケーレはクラウディオを心から尊敬していた。
誰より努力し、周囲のために働く姿を、少年の目はずっと見てきた。
時には厳しくも、自分の努力を認めてくれる優しい従兄弟でもある。
そのクラウディオを、そして明るく優しいエレナを……父が陥れようとしている?
その事実が信じられなかった。
(どうすればいい……どうすれば……?)
父を止めるべきだと頭ではわかっている。
しかし、ダリオは息子にすら横柄な態度をとる男だった。
(僕の言葉なんて、聞いてくれない……
でも……でも、このままじゃ……!)
胸の中に黒いものが渦巻き、足が震えて立てないほどであった。
(クラウディオ様に……伝えるべき……なのか?
でも、そうしたら僕は……父を裏切ることに……)
ミケーレは悩み、涙を目に浮かべた。
その時――。
「……誰だ?」
倉庫の中から男が出てきて、鋭い視線を周囲に投げた。
ミケーレの心臓が跳ね上がる。
(見つかった!?)
男は草木の揺れる音に敏感に反応し、こちらへ数歩歩いてくる。
咄嗟にミケーレは森の奥へ駆けだした。
枝が顔や腕に当たり、痛みが走るが恐怖で止まれない。
(逃げなきゃ……逃げなきゃ……!!)
胸が苦しくなるほど走り、ようやく屋敷の見える位置まで戻ったところで足を止めた。
呼吸は乱れ、汗が額を流れる。
(危なかった……もし捕まってたら……!)
ミケーレは震える身体を抱きしめるように両腕で押さえた。
(お父様は……本当に恐ろしいことを企んでいる……
クラウディオ様とエレナ様に……危険が及ぶ……)
そう思った瞬間、胸が強く痛んだ。
(僕が……守らなくちゃ……!)
恐怖よりも、尊敬する従兄弟を守りたいという思いが勝っていた。
しかし、どうすればいいか、何も分からず、
非力な自分に悔しい思いをしていた。




