15
王国劇場を後にし、煌めく石畳の大通りへ出た瞬間、夜風がふわりと二人を包んだ。
上空では満天の星が瞬き、劇場の余韻を反射するようにどこか甘やかな光を帯びている。
エレナは胸の前でそっと手を合わせ、薄桃色の唇からうっとりした吐息をこぼした。
「とても素敵でしたわ……。本当に、夢のような舞台でした」
彼女の声は、劇の余韻がまだ身体に残っているかのように柔らかい。
クラウディオは横顔を見つめ、その横顔が灯火に照らされるたび胸がきゅっと温かくなるのを感じていた。
「……気に入ってくれたなら、よかった」
自然とそう言葉がこぼれ落ちる。
視線を逸らしたのは、ついさっき劇の最中、エレナの細い指が自分の手の甲にふれたことを思い出してしまったからだ。
(あの一瞬で……どうしてあんなにも心臓が跳ねたんだ)
劇場の静けさの中で、彼女の体温だけがやけに鮮明だった。
それを思い返すだけで耳が熱くなる。
「クラウディオ様?」
「……いや。何でもない」
誤魔化すように咳払いをし、歩き出す。
向かう先は劇場近くの夜まで開いている喫茶店――普段なら決して足を運ばないような、落ち着いた雰囲気の名店だ。
夕飯は劇場でサンドイッチをつまんでいたので、
そんなにお腹が空いていないいないだろうと、軽く食事ができる店を選んだ。
二人が店へ入ると、カラン、と鈴の音が優しく鳴った。
店内はアンティーク調の木製家具に囲まれ、暖炉の灯りがほのかに揺れている。
深い琥珀色の照明がシャンデリアからこぼれ落ち、ゆったりとした時間が流れていた。
「素敵……」
思わず息を呑むエレナ。
クラウディオは、その小さな感嘆がこぼれ落ちた瞬間の表情が、たまらなく愛おしく思えた。
(…可愛いな)
胸のうちで呟いてしまい、慌てて視線を逸らす。
案内されたのは、窓際の二人席。外の夜景がさりげなく見えるロマンチックな席だ。
メニューを開くと、クラウディオはエレナの好みを思い返す。
彼女が甘いものが好きなこと、そして紅茶の香りを楽しむ癖があることも、全部覚えていた。
「ケーキ……三種類の盛り合わせがあるようですわ。わぁ、どれも美味しそう……」
目を輝かせるエレナに、クラウディオはつい微笑んでしまう。
「好きなのを頼むといい。全部でも構わない」
「ぜ、全部はさすがに……! でも……うぅ、迷いますわ」
つい頬を膨らませた仕草が、子どものように無邪気で、胸がきゅっと鳴る。
「……なら、これにしよう」
クラウディオは店員を呼び、ケーキの盛り合わせと紅茶を二人分頼む。
エレナが喜ぶ顔を見たい――ただそれだけだった。
小ぶりの丸テーブルの上に、三種類のケーキが並ぶ。
苺のミルフィーユ、濃厚チョコレートケーキ、ふわふわのシフォン。
そして香り高いアッサムティーの湯気が立ち昇る。
「こんなに綺麗なケーキ…初めて見ました」
エレナはフォークを手に取り、そっとミルフィーユを口に運ぶ。
その瞬間――彼女の表情がぱっと華やいだ。
「……んっ……お、美味しい……!」
幸せがそのまま形になったような笑顔。
クラウディオは胸の奥を掴まれたような感覚に襲われる。
(こんな表情……俺以外に見せてほしくない)
そんな独占欲めいた想いが一瞬よぎり、クラウディオは内心で驚いた。
一方のエレナは紅茶を口にし、ほっと息をつく。
「クラウディオ様、こんな素敵なお店をご存じだったのですね」
「……まあな。滅多に来ないが」
(本当は、今日のためだけに使用人に調べさせた)
そう言えず、視線を少し逸らす。
「劇も楽しかったけれど……こうして一緒にケーキを食べている時間も、とても……」
言葉を切り、エレナは頬を染める。
クラウディオは思わず身を乗り出していた。
「とても?」
「……幸せ、ですわ」
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。
心の中で何かが柔らかく溶けていくような感覚。
クラウディオは、ふっと息を吐き、静かに告げた。
「……俺もだ」
エレナが驚いたように目を見開く。
その反応がたまらなく愛しくて、クラウディオは続けた。
「こんな時間が……こんなに幸せだとは思っていなかった」
「────」
エレナの頬が、ぱあっと紅く染まる。
胸元に手をやり、視線を伏せると、長いまつげが震えている。
それは、恋を自覚した少女の表情だった。
店の奥から聞こえるクラシック音楽。
甘いケーキの香り。
静かに立ち昇る紅茶の湯気。
その全てが、二人を密やかな甘さで満たしていく。
気づけば、店の客たちがちらちらと彼らに視線を向けていた。
きっと誰もが「伯爵夫妻の仲の良さ」を感じ取ったのだろう。
ある貴婦人が小声で囁く。
「あれは……バルツァーリ伯爵夫妻よね? まあ、あんなに親しげに……」
「聞いた? 最近とても仲が良いって社交界で噂よ」
「最初は冷え切っているとか言われていたのに、あの様子……」
噂は、甘い香りのように静かに広がっていく。
エレナは気づいていない。
クラウディオは気づいていたが、気にしなかった。
(どう思われようが構わない。……彼女が笑ってくれるなら)
その思いは、確かに彼の胸に根を下ろしていた。
店を出ると、夜風がほんのり甘い余韻を運んでくる。
エレナはクラウディオの横顔をそっと盗み見る。
(クラウディオ様……こんなに優しい方だったかしら……)
劇場でも、喫茶店でも、今日の彼はどこか柔らかかった。
そんな彼の新しい一面に、胸が温かくなる。
馬車の前で立ち止まると、クラウディオが自然と手を差し出した。
「エレナ」
「あ……ありがとうございます」
その手を取った瞬間――
指先から心の奥まで温かさが広がり、エレナは思わず胸に手を当てた。
(……この鼓動は、いったい……)
馬車へ乗り込むまでのわずかな間に、二人の距離は確かに縮まっていた。
それは、もう誰の目にも明らかだった。
屋敷に戻る頃には、エレナの頬はずっと赤いままだった。
クラウディオもまた、いつになく視線を合わせられない。
しかしその沈黙は、ぎこちないものではなく――
甘く、優しい余韻に満ちた静けさだった。
「……今日は楽しかった」
「はい……わたくしも、ですわ」
たったそれだけの言葉なのに、胸がいっぱいになる。
別れ際にそっと見つめ合い、まるで何かを告げたいように唇が震えた。
けれど、それ以上の言葉は今はまだ出てこない。
それでも――二人は思っていた。
((もっと一緒にいたい……))
その想いだけは、確かな熱を持って互いの胸に灯っていた。




