過去はつきまとってくる。
場を凍りつかせた、いや燃え上がらせた後に体育館の扉から逃げてやった。
学校で卒業生へ送るスピーチをする予定だったのだが面倒臭くなって催眠爆弾を落としてきたのだ。
科学に身を捧げた天才は次元移動というテクノロジーに挑戦していた。それ故スピーチに割ける時間など皆無だった。
最初は宇宙の様々な謎を研究していた。ブラックホールの正体や重力井戸の作り方などをだ。その過程で宇宙は一つではないという結論に達した。
そして別の宇宙に行ってみようとも思ったのだ。
親は相変わらず無関心だったから夜の十時、ともすれば補導の対象になりかねない時間帯に出歩いていてもメールの一つ寄越してこない。付き合っている古原友の方がよっぽど親身だ。
友とは高校に入った頃に出会った。彼女の温かさに一目惚れした石原はすぐにアプローチを試み、交際した。
向こうも家を出たいから高校を卒業したら結婚しようという約束までしている。冷たい家庭の中で愛情を知らずに育った自分に少しは人の心というものを教えてくれた。
住宅街に挟まれた広めの道路を力なく歩いた。どこか良い気持ちだった。冬だから寒いのは当たり前なのだがそれよりも何か心の中で風が吹いているような気がする。
だけどそれは悲しみとか寂しさとかそういうものではない。
満足したような、だけど少し口寂しいような感覚が口の中に残っていた。学校で飲んだライムジュースの味と混ざって独特な風味を出していた。
家の前に着いた。
中には入らない。何故ならそれは本当の家ではないから。本当の家はすぐ横にある。
手入れされていない芝生を踏みつけてチューリップの植木鉢の土を掘り起こす。爪の中に入った土がひしめきあっていることに気づいた時には既に銀色の物体が顔を覗かせていた。
それはガレージの扉のリモコンだった。徐に拾い上げると、我が家の鍵を開けるのと同じようにして中心のスイッチを押した。
ガチッ…ウィーン
この音だ。この音が好きなんだ。我が家の鍵が回る音だ。
両サイドのパイプが上に上がっていく。それに伴って木と金属で型取られた扉も上へ開いていく。
中から次第に光が漏れ出す。電気の光だ。自分が付けっぱなしにしていったから分かる。
開き切ると中へ入る。無造作に並べられた試作品。部品の入ったすすだらけのプラスチックケース。壁にひっついている四台のモニターやキーボード。
ガレージは男の城だ。この散らかり様がまた心地よい。
石原は内側からパネルを操作して扉を閉めた。
やるか。
まずは溶液。これが一番の難点でもある。次元座標と電気エネルギーの同期、液体を電力へ変換する技術、空気中の窒素を冷凍させ、瞬時に解凍する為の特殊な熱など一般人が口を揃えてあり得ないというようなことを全て実現させた。
次元移動の溶液は炭酸水素ナトリウム50%それにライムジュースをコップ3杯、それを混ぜ合わせた液体を大量の電力で包む。正しくいけば新たな元素スプリニウムが5個発生し、ポータルが開く。
計算上九百兆回の実験が必要だ。しかし今からやるのは九百五十兆回目の実験だ。
初期計算に狂いはない。なのに何故うまくいかないのか。頭を抱えたところで後方でポータルが開かれる音がした。
赤と青のポータルが姿を現したのは紛れもなく自分だった。石原は驚愕した。別次元の自分だ。
無論微妙に違うところはあった。自分が普段青のズボンを履いているのに対して服装は真っ黒で、少し焼けているのに対して顔は妙に白くて目の奥には光がない。その癖貼り付けたような笑みが殺意という感情を孕んでいるのがとても奇妙だ。
その男は開口した。「やぁやぁ苦戦してるねぇ教えてやろうか。自分が天才だと気づいてすぐ思うことは、天才なんて大したことないということだ。でもな石原。これがあればお前を本物の天才にしてやれる。」
石原は何となく予想がついていた。「これだよ。」ポータルから現れた石原春は徐に銀メッキに覆われた銃を持ち出した。
「これが完成品なのか?」石原は咄嗟に呟いた。
「そうだ。これがあればお前は無敵になれる。いつでもどこでも好きなことをして好きな連中とだけつるんでいられる。ネグレクトをする両親も、鬱陶しい過去も、全て捨て去ることができるんだ。」
「………」
「自分のことを世界一賢いと思っているだろうがこれがあれば宇宙一賢くなれる。過去はつきまとってくる?そんなことはない。別のヴァージョンで、別の自分として生きていけばいいだけだ。」抑揚のない声で別次元の石原は言った。
つまらないなという感情が湧いた。———自分が天才だと気づいてすぐ思うことは、天才なんて大したことないということだ。
次元移動を成し遂げて気づくことは、次元移動なんて大したことないということだ。そう気づいた。情熱というものは追いかけている時が一番燃やせるのだ。
一度成し遂げてしまえばもう二度と同じ感動を味わうことはできない。それに取っ替えの効く人生なんてつまらないものだ。
愛する女性もいて、それなりの教養もあって、これ以上何を望む?
「…パスだね。」
石原はそういうと次元移動のデバイスを拳で潰した。
別次元の石原は憤慨した様子で「おいおい全ての石原春は次元移動を成就させる。何様のつもりだ!!」
「きっと違うタイプなんだ。」
「………………いつまでそう言っていられるかな?」不気味な捨て台詞を残すと異次元の石原はポータルを開いて帰っていった。その時鍵のかかった扉がガチャガチャと音を立てた。
誰かは分かっている。友だ。会う約束をしていたからそろそろ来るだろうと思っていた。
「調子どう?」穏やかな声が春を抱擁する。
「あぁ。まぁまぁかな。ちょっと考えたんだけど…」世の中には報われない事が幾つかある。その内の一つが科学だ。そう言おうとした時。
天井にポータルが開いた。その衝撃で石原は後方へ吹き飛ばされた。石原は絶望を噛み締めた。友の足元に紫の光を放つ爆弾が落ちる。
「やめ……!!!」
ガ———ン!!!!!
友はガレージの壁と共にチリと化した。紫の煙と青の炎と瓦礫の中で友の姿はなかった。完全に消し飛ばされたのだ。
怨嗟の声すら出すことができなかった。ただワナワナと手を震わせ涙を流しているだけだった。
——殺してやる。
やっとの思いで捻り出した言葉がそれだった。石原はすっくと立ち上がる。
潰したはずの、捨てたはずの次元移動への執着を再び取り戻した。石原は実験装置に溶液を入れる。そしてレバーを捻り、ライムジュースをぶっかける。
凄まじい電光が輝く。眩しさに悶えながらやっとの思いで確認したそれは赤と青のスプリニウムだった。
成功だ……これが次元移動溶液か……
———情熱というものは追いかけている時が一番燃やせるのだ。
燃やそうじゃないか。あの別の自分を殺すことに、復讐に情熱を燃やそう。
感情を失った天才はポータルの中に姿を消していった。