第420話 Sideマルシュ 前編
私、マルシュ・カラーヤは、生まれ育ったカラーヤ侯爵領の主都サルトゥスの屋敷から町を眺めている。
朝靄に包まれた石造りの屋根が連なる町並み。訓練する兵士たちの掛け声。通りには、パン屋の軒先から立ち上る湯気がふわりと広がり、馴染みの商人が店先で声を張り上げている──。
生まれてから毎日、この景色を当たり前のように見てきた。だが今日ほど、それがどれほど心に根を張っていたかを痛感する日はない。
この町は、エドワード様と出会ってから大きく変わった。そしてこれからも変わり続けていくのだろう。その変化を見届けられぬ寂しさが、胸を締めつけた。
「いよいよだな、マルシュ」
隣に立つ父、ベルベルト・カラーヤが、いつもの厳格な表情を少しだけ緩めて私に声をかける。その眼差しには、言葉にし難い温かさが宿っていた。普段なら厳命とともに見下ろすその瞳が、今だけは対等な目線で私を見つめている。
「はい、父上。長らくお世話になりました」
「構わん。お前がエドワード殿の下へ行くと決めてからの準備は見事だった。さすがは我が息子だ」
父の言葉に、胸の奥が熱くなる。褒められたことよりも、その言葉に込められた信頼が嬉しかった。
マーリシャス共和国がヴァーヘイレム王国の新たな領土、フィレール侯爵領となり、エドワード様がその復興の全権を担うと聞いたとき、私は居ても立ってもいられなかった。
「マルシュ、気を抜くなよ。お前はカラーヤ侯爵家の代表として彼の地へ赴くのだ。その一挙手一投足が、我らの評価に繋がることを忘れるな」
「肝に銘じます」
「だが、忘れるな。お前はエドワード殿の友人でもある。貴族としての立場だけでなく、友として彼を支えてやれ。彼は、多くのものを背負いすぎている」
父の言葉が、深く胸に染みる。そうだ、私はエドワード様から友人として接してくれと言われているのだった。彼が望む『友』として、しっかり支えなければ。
「おーい、いつまで湿っぽい話をしてるんだ?」
少し離れた場所で馬の手綱を握っていた兄、ルイド・カラーヤが呆れたように声をかけてくる。
「兄上……」
「エドワード様はこれからこの国で重要な役割を担うだろう。だが、そばにいる貴族は少ない。お前でなければ支えられない部分もあるはずだ。しっかりやれよ」
軽口を叩きながらも、その眼には心配の色がにじんでいる。私がエドワード様をどれだけ信頼しているかを、一番理解してくれているのは兄上かもしれない。
「留守は頼みます、兄上」
「当たり前だ。お前は家のことなんざ心配せず、存分に腕を振るってこい。手紙ぐらいはよこせよ」
「はい」
短く、しかし確かな信頼を込めて頷き合う。家族、そして見送りに来てくれた家臣たちに深く頭を下げ、私は愛馬に跨った。陽光を受けた鎧がわずかにきらめく。私が率いるのは、カラーヤ騎士団から選び抜いた二十名の騎士たち。そして物資を積んだ数台の馬車だ。
「マルシュ・カラーヤ、これよりフィレール侯爵領へ向けて出発いたします!」
宣言と同時に、騎士たちの雄叫びが朝空に轟いた。甲冑の鳴る音がリズムを刻み、馬蹄の音が大地を震わせる。
十四年間過ごした故郷に背を向け、私は手綱を引いた。目指すは──フィレール侯爵領。
◆
サルトゥスを発って数日、私たちは先日エドワード様たちと新たに整備した街道を南へと進んでいた。
馬車の車輪が滑るように転がる。地面にほとんど揺れが伝わってこないのは、整地ローラーでならされた平坦な道のおかげだ。舗装されたわけでもないのに、これほどの快適さを誇る街道を、私はこれまでに知らない。
「これまた凄い道ができたもんだな……」
隣を進む叔父、サイラスがしみじみと呟いた。彼は私にとって、父と同じくらい頼れる存在だ。幼い頃から共に過ごし、騎士としての心得も彼から学んだ。今回、家臣として共にフィレール侯爵領に赴くと申し出てくれたときは、心の底から心強く感じた。
「硬い木を軽々と斬るだけでなく、整地する道具まで作られるエドワード様とはいったい……」
私の口から自然とそんな言葉が漏れた。
「そんな規格外の力を持ったお方だからこそ、マルシュも家臣になろうと思ったのだろう? お前がエドワード様の下へ仕えると聞いた時は、正直、嬉しかったぞ」
「嬉しかったのですか?」
「そうだ。実はな……俺も若い頃、アルバン様に憧れて家臣になりたいと思った時期があってな」
「叔父上が……ですか?」
驚きを隠せなかった。叔父上は、カラーヤ侯爵領をこよなく愛し、領地から一度も出たがらない男だとばかり思っていた。そんな人が、外へ出たいと願っていた過去があったとは……。
「若い頃は兄──つまりお前の父と一緒に、アルバン様の下でしばらく修行していたこともある。だが兄がカラーヤ侯爵家を継ぐことになり、俺は領に残る道を選んだ」
「初めて聞きました」
「マルシュがエドワード様に仕えたいと言い出すまで、そんな昔の気持ちはすっかり忘れていたからな。だが、お前の姿を見て、あの頃の熱が甦ってきたのさ」
その表情は、どこか誇らしげで、そして懐かしむような笑みを浮かべていた。
◆
その後、私たちはハットフィールド公爵領にある町、ボーデンとアルトゥーラを経由した。
町には活気があった。行き交う商人たちの声は高く、市場には新鮮な果物や布が並び、人々の表情には安堵と希望が浮かんでいる。新街道が整備された影響だろう。物流が潤えば、人も物も流れる。経済は活性化し、町は変わっていく。
「今回の街道整備は魔の森の監視が主目的だと聞いているが……カラーヤ侯爵領にとってはありがたい恩恵だな」
叔父上がそう評するように、私たちにとっても、旅がこれほど順調に進むのは異例だった。
やがて、森と丘陵が広がるライナー男爵領に入った。道は緩やかな起伏を描き、木漏れ日が馬上に落ちては流れていく。
その時だった。
「――きゃああああっ!」
甲高い、裂けるような悲鳴が前方から響いた。続いて聞こえるのは、獣の咆哮と、金属がぶつかり合う激しい音──。
「敵襲かっ!? 全隊、戦闘準備!」
私は即座に叫び、馬を止める。緊迫した空気が一瞬にして一行を包み込む。だが、騎士たちは動揺することなく、日頃の訓練通りに動いた。陣形は乱れず、武器は静かに抜かれ、戦士たちの眼差しに迷いはない。
「状況を報告せよ!」
「はっ! 前方約三百メートル先! 幌馬車の一団が魔物に襲撃されています! 確認できたのは、オーク十数体に、ゴブリン多数!」
戦闘の予兆が、皮膚を刺すように伝わってくる。
「よし! 第一隊は私に続け! 馬車の護衛を最優先とする! 第二隊は後方から弓で援護、ゴブリンを優先して狙え!」
鞭声粛々として、馬を駆ける。敵の姿が視界に飛び込んできたその瞬間、私は思わず歯を食いしばった。
◆
視界が開けた先に、混沌が広がっていた。
数台の幌馬車が円陣を組むようにして停まり、その内側に数名の冒険者たちが武器を構えて立ち塞がっている。だが、その陣形はすでに崩れかけ、周囲には十数体のオークと、それ以上の数のゴブリンたちが蠢いていた。
馬車の中からは、子供たちの怯えた泣き声が漏れている。
「絶対に守り抜け! 遅れるな!」
私は馬から飛び降りると、剣を抜くと、走りながら、近くにいた一体のオークへと斬りかかった。
「グオオッ……!?」
不意を突かれたオークの喉元を、私の剣が一閃した。濁った血が噴き出し、巨体が崩れ落ちる。刹那、冒険者たちがこちらを見た。その顔には驚きと、そして安堵が入り混じっている。
「加勢する! 持ちこたえろ!」
叫びながら、私は次の敵へと駆ける。第一隊の騎士たちが続々と突入し、次々と魔物の体を貫いた。彼らは、まるで一つの意思を持つかのように連携している。
「第二隊、射撃開始! 狙いはゴブリンだ!」
後方から、鋭い矢が雨のように降り注ぐ。的確に頭部を射抜かれたゴブリンたちが、次々と地に倒れていく。
戦況は、私たちの参戦によって一気に覆る。統率の取れた騎士団の動きは、烏合の衆である魔物など物の数ではない。数分も経たないうちに、あれほどいた魔物の群れは掃討されたのだった。
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