コマ使いになる
翌朝は私の気持ちとは裏腹に、とても良い天気だった。
支度を調えて部屋で待っているとヘルマが迎えに来た。
いよいよ小間使いとしての一日が始まる。
「ルカ、ヒラリーお嬢様は少し変わっていらっしゃるけれど、素直に言うことを聞いていれば手荒なことはされないと思うから我慢するのよ」
部屋を出て初めに聞いたのはこの言葉だった。
昨日の感じでは我が儘なお嬢様だったけれど、手も出てくるのだろうか?今日が終わる頃私は生きているだろうかと不安になった。
小間使いの部屋は本館ではなく、少し離れた別館にあった。
本館に入り、お嬢様の部屋に行く途中に侯爵夫人に会った。私を見るとかわいそうなものを見るようにサッと顔を曇らせた。
「ルカ、おはよう。今日からよろしくお願いしますね」
「おはようございます、侯爵夫人。ご希望に添えるよう一生懸命働かせていただきます」
侯爵夫人は私の挨拶に驚いて「なんて良い子なんでしょう」と涙を流した。
お願いです。そこで涙を流さないでください。
また、不吉な汗が背中を流れる。
「そうそう、昨日も言っていましたが、今日からあなたもヒラリーと一緒に勉強をして貰います」
「お心遣い、ありがとうございます」
ヒラリーの関心を引き止めておくために、私に勉強を一緒にさせてくださるのは喜ぶべきか、悲しむべきか分からないけれど、ただの孤児がただで勉強できるのはラッキーだと思わないといけない。
これから先どんなことが有るかわからないけれど、知識は付けるだけ付けておいた方が良いと思うのは前世の経験からだ。
これからは間違っても平均で良いとか思わないようにしよう。
私とヘルマは侯爵夫人と別れてヒラリーお嬢様の部屋の前に立った。
ヘルマがノックすると、勢いよくドアが外側に開いた。私とヘルマは思いっきりドアにぶつかった。
「待っていたわ、イルカ!」
ヒラリーは部屋の前に誰もいないのに驚いて、部屋から廊下に出て来た。そして扉の裏にいた私とヘルマを見つけると「あら、二人とも何をしているの?」と言った。
何でこの部屋は外開きなんだ!
侯爵様の執務室も奥様の部屋も内開きだったはず・・・
ヒラリーはサッと私の手を引いて部屋の中に引き込むと、ヘルマが見えなかったかのようにドアを閉めた。
閉まったドアを開けてヘルマが入ってきた。ドアでぶつけたのだろう、おでこが赤くなっている。
「ヒラリーお嬢様。今日は10時から家庭教師の先生がいらっしゃいます。お忘れにならないように。それから、今日からルカも一緒に勉強するようにとお父様から言われていますので、勉強室に向かうときは一緒に行くようお願い致します」
「分かった、分かった。ヘルマはうるさいな」とヒラリーはヘルマを強引に部屋から追い出した。
「さて・・・」
ヒラリーは腕を組んで、私を上から下までじーっと見ている。
しばらく見た後「イルカ!誰が髪を纏めなさいと言ったの?」と少し怒った口調で尋ねた。
「昨日、侯爵夫人が纏めるようにと仰いました」
「お母様が・・・」
少し考えていたがヒラリーは私の前に立つと、髪を纏めていたリボンを外し髪をほどいた。
「あーもう!三つ編みなんかするから、髪にウェーブが付いちゃってるじゃない!」
ストレートの髪にほどよいウェーブが付いた髪を見てイライラした口調になった。
「そこのお前!洗顔用のたらいに、水をたっぷり入れて持ってきなさい!」と部屋の隅に控えていた侍女に命令する。
侍女は一瞬ビクッと肩をゆらした。そしてヒラリーの言葉を理解すると慌てて部屋を出ていった。しばらくして洗顔用の器に水をたっぷり入れて戻ってきた。
「イルカ、そこに座ってちょうだい」と私を座らせると、器を持っている侍女に「頭からその水をかけなさい」と言った。
侍女は言われるまま私の頭から水をかけた。
私は頭から水をかぶって、髪も洋服も水浸しになってしまった。
「何をするんです!」
流石に私も思わず叫んでしまった。
「何をって、あんたの髪を真っ直ぐにしたいのよ」
ヒラリーは悪びれもせずにそう言った。そして「さあ、髪をとかして元に戻すのよ」と水でびしょ濡れになった私に櫛を差し出した。
私は仕方なく髪を梳かし始めた。
ウェーブが綺麗に取れると、
「そこは濡れているからこっちに来なさい」と水たまりから移動させた。洋服から全部濡れているから移動したってあまり変わらない状況なのに・・・
次は何をされるのかとヒヤヒヤしていると、またまた私を座らせた。そして今度は挟みを持ち出して私の髪を掴むと、腰まであった髪をバッサ、バッサと切り始めた。
部屋の隅に控えていた侍女も驚いている。
前髪は真っ直ぐにパッツンと切られ、横も耳の下で切りそろえられた。
「これで良し!」
何が良いのだ。自慢出来る髪ではないが、一応女子としてのプライドの髪を切って納得して頷いているのはヒラリーだけだ。この世界では女性の髪は皆長いのだ。それなのに短く切られてしまった。
「さあ、身体を拭いて、これを着るのよ」
ヒラリーがタオルと一緒にくれたのは、くすんだ色の浴衣のような着物だった。
私はタオルと浴衣を持って部屋の隅で着替えた。
着替えたのは良いが帯が無い。
「どうして隅っこで着替えるのよ。こっちに来なさい、着方が分からないのでしょう」とお嬢様が呼ぶ。
私は部屋の隅から恐る恐るヒラリーに近づく。
ヒラリーは手際よく着物の前を合わせ帯を結んだ。
「うん、よく似合ってるわ」
私の姿を見てヒラリーは満足そうに頷いている。
「座敷童みたいで可愛いわ」と呟く声が聞こえた。
「座敷童?」思わず聞き返した。
ヒラリーは慌てて「何でもないわ。それよりとても似合っているわ」と満面の笑みを浮かべた。
ヒラリーは言葉を濁したが、まさかお嬢様も転生者なの?
私は驚いた事を悟られないように顔を伏せた。
そこにヘルマが家庭教師の先生が来たことを知らせにノックをして部屋に入ってきた。
部屋の状況と私の姿に目を点にしていたが、私と目が合いそうになるとスッと顔を背けて、部屋の中を見回した。
部屋の真ん中には水たまりが出来てるし、その横には私の切り刻まれた髪が散乱していた。
ヘルマは一度目を閉じて頭を振った。そして再び目を開けて今度は目をそらさずに私を見た。何も言わないけれど諦めなさいと言われたような気がした。
ヘルマは侍女に部屋の掃除をするように命じて、ヒラリーと私を勉強部屋に案内した。
家庭教師の先生は私の姿に一瞬目を瞠ったが、ヒラリーの機嫌がすこぶる良いのを見て、憂いを帯びた目で私を見つめた。
ありがとう先生。ヒラリーの犠牲者と気付いてくださったのですね。
それからお昼までの二時間みっちりと国語と歴史の授業を受けた。
授業は面白かった。今まで知らなかった事を学ぶのはとても楽しかった。ヒラリーは退屈そうだったが、酷い目にあった私には、それを忘れさせてくれるような充実した時間に感じられた。
昼に食堂に行くと「気の毒に、スパッと切られたわね」「その洋服は変わっているわね」云々色々言われたが、私は「お嬢様の趣味」としか返事が出来なかった。
それでも食堂にいたみんなは私を慰めてくれた。
ああ、やはりここの人達は親切だ。それだけでも良かったと心から思った。
昼からヒラリーが庭に出ようと言ったので付いていく。
本館の横のちょっとした広場に連れて行かれた。そこには小さな木の苗が一本植えてあった。
「イルカ、今日から毎日この木を飛び越えるのよ」
木の苗を指さしてヒラリーが言う。
「お嬢様、毎日この木を飛び越えるのですか?」
「そうよ。簡単でしょう」
何が簡単なものですか。今は20センチ位の苗木だけれど、この木は1日に1センチ近く伸びる木だ。簡単にハイとは言えない。
「お嬢様、この木は一年で私の身長の3倍は伸びます。とても無理です」
「それでも飛ぶのよ」
「無理です!」
「言い訳は聞かないわ!」
「では、お嬢様も一緒に飛んでください」
「良いわよ」
ヒラリーはしたり顔で頷いた。
簡単に了解したけれど?どうして?
疑問に思ったけれど、ヒラリーも一緒に飛ぶと言ったので、渋々了解した。
案の定、木はすくすくと大きくなった。
私の胸くらいの高さになったとき「これ以上は無理です」と言うと、ヒラリーは「あら、無理なこと無いわ、私は飛べるわよ」とフワリと飛んで見せた。
「お嬢様、魔法を使われましたね」
そうなのだ。この国では魔法が使えるのだ。魔女は迫害しなければいけないが、貴族が使うのは良いらしい。ふざけた話しだ。
「あら、貴族ならこれくらい出来て当然だわ。魔法でも何でも飛べたのだから良いでしょう。さあ、あなたも飛びなさい」
悔しい・・・私は魔法が使えない・・・騙したな・・・
私は意地でも飛べるようになろうとそれからは必死で鍛錬した。おかげで脚力がかなり付いたと思う。私の身長を遙か超える頃には、枝に足をかけて登って飛ぶことを覚えた。
ヒラリーが思わず「忍者みたい」と呟いたのが聞こえた。
この国に忍者と呼ばれる者がいないことは歴史の授業で習ったので、私はヒラリーが転生者だと確信した。