目を付けられた!?
あれから二年経った。
私の夢はまだ終わっていない。
この世界の記憶を無くしたまま私は教会の孤児院で暮らしていた。
教会の孤児院は、サーストラル王国のローレイル侯爵領とアレド伯爵領の境界にある王国直轄のドールという小さな町に建っているらしい。
この世界で目を覚まして暗闇から抜け出したとき、私が立ち聞きした話に伯爵という言葉が出て来た。この町に隣接した伯爵の屋敷はアレドだけだと聞いたから、私が抜け出した屋敷はアレド伯爵の屋敷だったのだろう。
私の年齢は記憶が無いのではっきりとは分からないけれど、孤児院の子供達と比べて6歳くらいだろうと言われていた。
覚えている私の名前は今居るか。この世界でもルカと呼ばれている。
この世界の記憶が無くても不都合はなかった。
前世の28年の記憶から、おとなしく目立たないようにしていれば、平穏な日々を送ることが出来ると知っていたからだ。
前世の私は目立つことが嫌いだった。子供の頃はいつも教室の隅でじっとしていた。そうすれば誰にも何も言われることはなかった。ただ一人を除いては・・・
その一人は私の天敵のような少女だった。
私のことを、イルカ、イルカと呼んでからかわれた。
私は彼女が嫌いだった。それなのに小学校一年の時から高校三年まで何故か同じクラスになった。悪縁とはこういうのを言うのだろう。
目立つのが嫌なので、試験の時は平均点になるように手を抜いていた。
今考えたら勿体ないことをした。もっと上手く点数を取っておけば良かったと思う。そうすればもっと良い会社に就職できたかも知れない。
高校卒業と同時に就職を選んだのは、大学まで彼女と一緒になるのを避けたかったからだ。
就職することで大学に進む彼女と縁を切りたかったのだ。
今考えれば、違う大学を選んでいたらそれでも縁は切れたと思うが・・・
今考えればが多くなった。後悔先に立たずである。
まあ、早く独立して家を出たかったので、お金を稼ぐのに就職するのは良かったのだが・・・
ただ・・・就職できた会社が小さな会社で、時間外残業、パワハラ、モラハラは日常茶飯事のいわゆるブラックと呼ばれる類いの会社なのは頂けなかった。
そんな会社だったので、名前を覚える間もなく辞めていく社員が多く、10年も辞めずに務めているのは私くらいだった。幸い私の容姿は地味で目立たなかったから、静かにしていれば誰からも目にとめられることもなかった。
しかし、後一年ちょっとしたら30歳になるので、そろそろ肩たたきされるだろうな。それでも辞めてくれと言われるまで、サービス残業に耐えようと覚悟していた。
そんな昔のことを思い出しながらボーッとしていると、急に外が騒がしくなった。
孤児院の門のところに馬車が停まっている。
そうだ、今日は慰問の日だった。
月に何度か貴族様が慰問に来る。そういう時はおとなしくしていなければいけない。
私は何時だっておとなしいから誰の注意も引かない。
貴族様の中には気に入った孤児がいると、下働きとして連れ帰る人もいる。
私は注意を引かれたとしても黒髪のせいで敬遠されてしまうようだ。
この世界には黒髪に赤い目をした魔女がいるらしい。だから黒髪は嫌われるのだと聞いた。
慰問が終わるまで、このまま部屋の隅で本を読んで過ごすことに決めた。
本を読んでいると視線を感じた。
視線のする方角を見ると、貴族様の女の子と目があった。
瞬間、私は気付かないふりをして、読んでいた本に視線を戻した。
しばらくするとドアを開けて誰かが入ってきた。私は同じ孤児の子が入ってきたのだと思った。顔も上げないで本を読んでいたら、入ってきた人物は私の前に立つと徐ろに本を取り上げた。
驚いて見上げた目に、さっきまで外にいた貴族様の女の子が映った。
私の顔を見て確かめる様に呟いた。
「ふうん、目も黒いんだ・・・」
いくら貴族様と言っても失礼な女の子だ。
私はキッと睨み返したが、彼女はすでに背を見せて部屋から出て行くところだった。
窓からその女の子が走っていくのが見えた。走って行く先に貴族様の夫人が立っていた。女の子と同じ薄い茶色の髪をしている。きっと女の子の母親なのだろう。
母親の元に行くと、私を指さして何かを言っている。親子で揉めているみたいだ。そこに孤児院の院長まで加わって私の方を見て話している。
私は異常に目と耳がいい。距離は離れているけれど、聞こうと思ったら何を話しているか聞くことが出来るが、変に聞いてしまうと嫌なことだったら気分が悪くなるので、聞かないことにした。
たぶん髪が黒いせいで、魔女がいるとでも言っているのだろう。
私は注意を本に戻した。
ドアが開く音がした。
音がした方を何気なく見ると、院長とさっきの女の子とその母親が立っていた。
「ルカ」と院長が名前を呼んだ。
戸惑いながらも院長の顔を見た。
何故か院長は引きつった笑いを浮かべている。
「ルカ、喜びなさい。ローレイル侯爵家のお嬢様がお前を小間使いとして引き取りたいと言われたのですよ」
院長の顔色がさえない・・・あまりいい話ではないような気がした。
「ヒラリーがあなたを気に入ったようなの。それで小間使いとして雇うことにしました」
侯爵夫人も困惑の表情を隠しもせず、疲れた口調で諦めたように私を見た。
娘に押し切られたようだ。気の毒に・・・娘に弱いのだろう。
「ルカ、今から侯爵夫人とお嬢様と一緒に公爵邸に行って貰う事になった。急いで荷物を纏めて来なさい」
院長は私を引き取ってくれる人が現れたことは嬉しいようだが、何故か素直に喜べない雰囲気が色濃く漂っていた。いつも黒髪と言うだけで敬遠されていたから、私のことを引き取ってくれる人が現れたことは喜ばしいと思っているのだろうが、釈然としない何かを感じる。まるで奥歯に物が挟まっているような・・・私には言えない何かがあるようだ。
喜んでいるのは侯爵令嬢だけのようである。院長と侯爵夫人はなんとも言えない目で私を見ている。何だか不安しか感じない・・・
出立するときは、孤児院と教会の人達が見送ってくれた。
みんなの顔が沈んだ様に見えるのは私だけだろうか?
たった二年だったけれど、去るときは寂しい気持ちになった。
馬車に乗り侯爵様の屋敷に向かう前に一悶着あった。
私は侍女の人達と一緒の馬車に乗る予定だったのだが、お嬢様が一緒に乗ると言って聞かなかったので、同じ馬車に乗ることになった。
少し困惑顔の侯爵夫人と喜んでニコニコ顔のお嬢様の対比が面白い。髪の色は同じなのに目の色は違うのね。お嬢様は薄い青で夫人は綺麗な碧色・・・なんて人間観察をしている余裕はないのである。いったい、私の何が良くて引き取りたいと言ったのだろう?ホントにこれで良かったのだろうか?頭の中に疑問符が一杯になった頃、
「この先に見えるのがローレイル侯爵邸ですよ」と侯爵夫人が教えてくれた。
馬車の窓から大きなお屋敷が見えた。
「イルカ、これから私と一緒にここで過ごすのよ」とお嬢様が言った。
うん、イルカって言った?思わず背筋に変な汗が流れた。
お嬢様、私の名前はルカですけど・・・と心の中で呟く。
門を入って十分ほどで馬車は玄関前に着いた。
目の前に白く輝く三階建ての大きなお屋敷が建っていた。
ドアが開くとお嬢様は、勢いよく私の手を引いて馬車から飛び降りた。
馬車の段差を考えると飛び降りて転ばなかったのは幸いだった。それでも危ういところだった。
「ヒラリー、お行儀が悪いわよ!」
後ろから侯爵夫人の声がする。お嬢様はその声を無視して私の手を引いて走って行こうとした。
「ヒラリー、そのままその子を部屋に連れて行ってはいけません!」
怒りの滲む侯爵夫人の声が聞こえた。
流石に不味いと思ったのだろう、ヒラリーはピタリと立ち止まって振り返った。
「どうして?私の小間使いなんだから、私が連れて行っても良いでしょう」
「いけません。まだお父様の許可を頂いていません!許可を頂くまではあなたの小間使いではありません!」
ヒラリーはブーッと頬を膨らませたが、プイと私の手を離すと、侯爵夫人を睨んで腹を立てた様子で屋敷の中に入って行った。
「まったく・・・誰に似たのかしら・・・」
侯爵夫人は頭を抱えた。そして、近くにいた侍女長に私を紹介した。
「ヘルマ、ヒラリーが孤児院で見つけた子なんだけど、連れて帰ると言ってきかなかったの。旦那様が帰ってきたら許可を頂くつもりだから、それまでに湯に入れて汚れを落としてから、小間使いの制服を着せてちょうだい。身支度が整ったら私の部屋に連れて来てちょうだい」
「分かりました。奥様」
私はヘルマに手を引かれて浴場に連れて行かれた。
孤児院ではお湯につかることは滅多になく、身体を拭くだけだったので、久しぶりのお湯の感覚が嬉しかった。
湯浴みが終ると、ヘルマがタオルで身体を拭いてくれた。
洗い残りがないか調べているようだ。
拭き終わると小間使いの制服を手渡された。
急いで制服に着替えてヘルマの前に立った。
「おや、こうして改めて見ると、可愛い顔をしているね。お嬢様はお前の顔が気に入ったのかね」
「わかりません。それより挨拶が遅れて申しわけございません。私の名前はルカと申します」
「おや、孤児院の子にしてはちゃんと挨拶が出来るんだね。私はヘルマだよ、この屋敷の侍女長をしている。ルカがこの屋敷で働けるかどうかは旦那様の返事次第だけどね」
ヘルマは私の手を引いて侯爵夫人の部屋まで連れて行った。
「奥様、ルカの着替えが終わりました」
「ありがとう。迷惑を掛けましたね」
「いいえ、とんでもございません」
ヘルマは私を置いて部屋を出て行った。
「さて、ルカでしたっけ?」
「はい」
「あなたをヒラリーの我が儘に付き合わせてしまいました」
「我が儘ですか?」
「ええ、そう。あの子の我が儘は今に始まったことではないわ。何をしてもすぐ飽きてしまうの。あなたもそうなるかも知れないから先に言っておくわ」
「飽きたらどうなるのですか?また孤児院に戻るのですか?」
「いいえ、そんな事はしないわ。この屋敷の下女として働いて貰います」
「分かりました。孤児院に戻らないのであれば何でもします」
「孤児院に戻るのが嫌なの?」
侯爵夫人は孤児院で何かあったと思ったのだろう。少し顔を曇らせた。
「いいえ、せっかく喜んで見送ってくださった院長様や教会の皆様の事を思うと申し訳ないので・・・」
「そう、あなたは良い子なのね」
侯爵夫人は軽くため息をついて、改めて私の顔を見た。
「黒髪は嫌われているけれど、あなたの真っ直ぐな黒髪は綺麗ね。それによく見たらとても整った顔立ちをしているのね」
「ありがとうございます」
正直恥ずかしかった。目だけが大きい子と言われていたので、褒めて貰えるとは思っていなかったのだ。
「そうね、旦那様に会うときは、その髪は上げておきましょう」
やはり黒髪が気になるのだろう。侯爵夫人は私を鏡台の前に座らせると、部屋の隅に待機していた侍女に私の髪を結うように指示した。
「ここの道具を使って良いから、ルカの髪を結ってみて」
侍女は一瞬驚いた顔をした。
侯爵夫人は寛大な方の様だ。私みたいな孤児に鏡台や道具を使わせることに抵抗はないのだろうか?
侍女は流石に夫人の道具を使うのはいかがなものかと思ったのだろう。
「奥様、そんな子供に奥様の道具を使わせるのは良くありません。道具は私が用意してきます」
夫人に断って部屋を出ると、自分の物だろうか道具箱を持って戻って来た。
私は腰まで伸びた髪を丁寧に編んでもらい、頭の左右に小さなお団子を作って貰った。
「まあ、可愛いわ。そのお団子を布で被せてリボンで結んでちょうだい」
夫人は髪のできあがりを見てとても喜んだ。
「これなら旦那様もダメとは言わないでしょう」
小間使いの衣装と髪型を整えた後、侯爵夫人は再びヘルマを呼び、侯爵様が戻ってくるまで預かっているようにと言った。
私は侍女長の部屋で侯爵様が帰ってくるまで待つことになった。
夕方近くに侯爵様が帰ってきた。
ヘルマから侯爵様を出迎える集団の一番奥で待つように言われた。夫人から声が掛るまで隅で待機していることになった。
侯爵様が屋敷の中に入った途端、夫人より先にヒラリーが飛び出してきた。
「お父様、お帰りなさい!」
「ヒラリー、ただいま。今日も元気にしていたか?」
「はい、お父様」
侯爵はヒラリーを抱き上げてキスをして下ろした。そして頭を優しく撫でていた。
侯爵は娘が可愛くて仕方ないようだ。
「お父様、お願いがあるの」
「お願い?」
「今日孤児院に慰問に行ったのだけど、その時にとても素敵な子供を見つけたの。それでその子を私の小間使いに雇って欲しいの」
「孤児院の子供だって?ヒラリー、子供は犬や猫とは違うんだよ。飽きたから誰かにあげるというわけにはいかないんだ」
「絶対飽きない!だから良いでしょう」
侯爵は困った顔をした。
「あなた、そのことは私からもお願いしようと思っていました」
「お前までもか」
侯爵が驚いた顔をする。
「だって、もう連れてきてしまったのですもの。今更孤児院に帰すわけにはいかないわ」
「連れてきたって!」
侯爵は呆れた声を出した。
「どうせヒラリーに押し切られたんだろう」
「そうなんだけど、話してみたら、しっかりしているし、ヒラリーにとっても同年代の子供が側にいる方が良いと思うの」
「ああ、分かった。二人して俺を攻めるつもりだな」
「とにかく、会ってみるだけでもお願いできないかしら」
夫人は懇願の表情を浮かべた。
侯爵は軽くため息をつくと「分かった。食事の後に執務室に連れて来なさい」と言った。
「ありがとう、お父様」
ヒラリーは父親に抱きついた。
(甘いな・・・)と思いながら、私はその様子を見ていた。
侯爵が部屋に行ったので、使用人もそれぞれに持ち場に帰っていった。
玄関近くの壁際にポツンと残されて行き場のない私をヘルマが迎えに来た。
そして使用人専用の食堂に案内してくれた。
食堂では屋敷の使用人達が食事をしていた。
「あとで呼びに来ますから、その間に食事をしておきなさい」
ヘルマから置いていかれたのを見ていた一人が、テーブルに案内してくれた。
この屋敷では、侯爵家族が食事をする間に、持ち場を外せない者以外は、使用人専用の食堂で食事を取るらしい。
テーブルに座ると周りから一斉に視線を感じた。
「あんたも大変ね。あの我が儘お嬢様から気に入られたらしいけど」とテーブルに案内してくれた人は、食事の乗ったトレイを私の前に置きながら言った。
「そうそう、大変だけど頑張ってね」
他の人達からも声が掛る。何が大変なのかおおよそ想像がつく。
それにしてもこの屋敷に着いてそれほど時間は経っていないのに、食堂にいるみんなが私のことを知っているみたいだった。
トレイの上には食べたことの無い料理が乗っていた。この屋敷では使用人の料理も手を抜いていないような気がした。
「本当に食べても良いのですか?」と思わず尋ねたら、みんなに笑われてしまった。
私はみんなに見つめられながら料理を食べた。
この屋敷の使用人は私のことを心配してくれている様だ。
食事の後、食堂に残っている人達から話しを聞くことが出来た。
ヒラリーはローレイル侯爵家の一人娘でとても我が儘なんだそうだ。屋敷の誰もが振り回されて困っていると教えてくれた。
辛いときは話しを聞いてあげるからねと言われたが、みんなの視線が励ましでも慰めでもなく哀れみの様な気がするのは勘違いではないのだろう。
不安しか感じない話しを聞いてへこんでいるとヘルマが迎えに来た。
「旦那様が会ってくださるそうです。奥様のところに行きますよ」
ヘルマに連れられて長い廊下を進んでいくと、途中で侯爵夫人と会った。
どうやら私を待っていたようだ。
侯爵夫人が私を呼ぶ。
「ルカ、こちらへ」
ヘルマから「この先は侯爵夫人の後についていくように」と言われた。
侯爵夫人の後ろを歩いて行くと、ある扉の前で立ち止まった。
どうやらこの部屋が侯爵の執務室らしい。
夫人がノックをすると、執事と思われる人が扉を開けてくれた。
中に入ると正面の机に侯爵が座っていた。
私は思わず夫人の後ろに隠れて俯いた。
「その子か?」固い声がした。
「はい、孤児院から連れて来た子供です。さあ、ルカ、ご挨拶をなさい」
夫人は後ろにいた私を前に押し出した。
「初めまして、ルカと申します」
私は俯いたままスカートをつまみお辞儀をした。
「ほう、挨拶が出来るのか」
侯爵の声が少し和らいだような気がした。
「顔を上げてごらん」
私は恐る恐る顔を上げて上目遣いで侯爵を見た。
侯爵の鋭い目が私を見ている。
「ふむ、賢そうな顔をしている。お前は読み書きは出来るのか?」
「はい、少しは出来ます」
「そうか、ヒラリーに付けるのならば、ある程度は出来ないと困るな」
何故そう思うのだろう?小間使いに知識は必要なのだろうか?
「よし、お前もヒラリーと一緒に勉強をしなさい」
その言葉に侯爵夫人が驚いた。
「えっ、すぐ飽きるかも知れない小間使いですよ」
「すぐ飽きられて、孤児院に行くたびに連れてこられたら困るから、飽きられないように勉強をさせておくんだ」
「ああ、そういうことですね。分かりました」
何が分かったと言うのだろうか。私は飽きられて他の仕事に変えてもらった方が良いのだけど・・・
さして揉めることもなく私はヒラリーの小間使いとして採用された。
侯爵との会見が終わり、ヒラリーの小間使いとして明日から働く事になった。
私はヘルマに連れられて、これから私の部屋となる場所に案内して貰った。
ベッドと机のあるこじんまりとした部屋に落ち着いた。
ベッドに横になって、今日一日の出来事を思い返していた。
あのヒラリーというお嬢様はかなり我が儘らしい。
明日から大丈夫だろうか。先の事を考えると不安しか無い夜だった。
それでも疲れていたのかいつの間にか眠ってしまっていた。