一話 辺境へ
街から外れた森の中。
人によって踏み固められた道を馬車がゆっくりと進んでいく。
木々の間を駆け抜ける風の音。音楽のように奏でられている小鳥の囀り。
争い、血生臭い事が何もない平和な一時がここにはある。
馬車内の悪い空気を入れ替えるために小窓を開けた。
御者を務めるのは初老の人物。
糊の効いた白いシャツに汚れ一つない黒い背広。
外見の年齢の割に、しっかりとした背筋。顔に刻まれた深い皺だが、柔和な顔立ちのおかげか人が良さそうに見える。
そんな彼の姿を見ていた小窓を閉めて、正面を向く。
そこには銀髪の少女が一人で座っている。
長い睫毛に愁いを帯びた様に伏せられている瞳。
視線の先にある本のページに沿わされている指は細く傷一つない。
彼女が私達のご主人様。
名は、レティシア・ヴァリアス・アドガルド・フォン・スカーレット。
今の姿こそ、少女ではある。
だが、美しさは絶世。
人間の街を歩けば、多くの人が一度は必ず振り返る。
老人から子供。男も女も関係なく全ての者を魅了してしまう。
私達は長い時間をかけて、この世界を渡り歩いてきた。
だけど、彼女に勝る美しさを見たことがない。
「お嬢、本当にこんな辺鄙なところに、村があるのかよ」
私の隣に座る柄の悪い男、ガレオン・ハイド・スカーレット。
レティシア様の前だと言うのに、ふんぞり返って座っている。
悪いのは柄だけではない。
目付きも口も頭も悪い。
深い藍色の髪は、前髪も後ろ髪も長く、前は目が隠れてしまっているし、後ろも女性のように長い髪。だが、粗雑な性格が表れていて、全く櫛を入れない。そのせいでいつもどこかが跳ねていたりと、身だしなみがなっていない。
力仕事専門の彼が御者と同じ服装をしているのだから、服に着れている感がずっと抜けない。
「ええ、あるはずよ」
伏せられた瞳が顔を覗かせるが、深紅の宝石のように美しい。
お嬢様が本から目を上げずに答える。
「村……と言っても開拓中だから、まだ村と厳密には言えないかもしれないけど」
お嬢様の首にある黒い楔の紋様。
完成された美であるお嬢様の体に付いてしまった汚点。
「ガレオンの言うのも分かります。レティシア様、着いたはいいが誰もいないと言うこともあるのではないですか?」
レティシア様の隣に座るのは黒いワンピースに真っ白のエプロンに身を包んだ女性である。
人間界で産まれた娘にしては顔は良い方。
短く切り揃えた栗色の髪で、衣裳さえ変えてしまえばどこに出しても相応しい村娘になるだろう。身長はガレオンよりも頭一つ分小さい。
ガレオンよりは頭が回る私の同僚、アンナ・ネイト・スカーレット。
「一応、あの子からは数家族はもう住んでいると聞いているけど……そうね、その時は豪華な家でも建ててのんびり暮らしましょう。ちょうどいい機会だし、こっちでの拠点も欲しかったのよ」
本から目を上げずに、楽しそうに語るお嬢様に対してこんな事を言うのは心苦しいけど、しっかりと伝えないといけない。
私たちの進む先に、私のセンサーが反応を示していることを。
「お嬢様、多数熱源を感知しました」
「そう、良かったじゃない。人はいるみたいね」
嬉しそうな笑みを浮かべて、本のページを捲っていた手が止まった。
そう言っているうちに馬車が止まり、御者をやっていた初老の男性が扉を開ける。
「お嬢様、どうぞ」
白髪の髪にガレオンと同等なぐらい高い身長だけど、整えられている髪に皺ひとつない衣服の着こなしている姿から、ダンディズムを感じる。
私よりも前からお嬢様に仕えているアルフレッド・スカーレット。
彼の手を取り、お嬢様が外に出る。
私達もそれに続いて外に出た。
外に広がる光景は、ここまで来るのに通ってきた街並みとは大きく異なる。
まだ、人の手がほとんど入っていない草原が目に優しい。
村と呼んでいいのか分からないけど、取りあえず雨風を凌げそうな建物は数軒建っている。それに、畑らしきものも耕し始めていた。
私たちの姿を見て、動きを止めていた人間たちの中から一人の男が近づいてきた。
「あなた方は……?」
不躾な言い方。
このような輩、普通であれば掃除するところである。
だけど、ここにいたと言うことは即ち、お嬢様の領地の領民であるのだろう。
お嬢様は物を大事されるお方だ。
そのお嬢様の所有物にただの従者である私がどうこうするわけにはいかない。
「一人一人回っていくのも手間なのよね。だから、話が通せる人を探そうと思っていたのだけど、あなたが今までこの村をまとめていた人ってことで良いかしら?」
「え、ええ」
「今日からここを統治するように、オウリン陛下から言われ来ました、レティシア・ヴァリアス・アドガルド・フォン・スカーレット。後ろの四人は全員私の従者達。以降お見知りおきを」
スカートの端をちょこんと摘まんで小さく礼をすると、目の前の男は佇まいを正して、頭を垂れた。
そう、それが正しい形だ。
「陛下より、爵位としては男爵を授かっています」
お嬢様の笑みが可憐なものから、攻撃的な笑みに切り替わる。
「それともう一つ。これは陛下も承知のことだし、領民の混乱を避けるために先に伝えておきたいことがあるの」
きょとんとした顔をこちらに向けてくる。間抜けな顔だ。
「私達、全員魔族だから。あ、これ、みんなに伝えておいてね」
私達全員が人間ではない。
魔族。
私達は、かつての人類の敵。
この世界にとっての悪。
ここはそんな者たちに支配される悲劇の土地。
そして、この人間界で一番幸福で安全な土地になる。
なぜなら、お嬢様が支配される土地なのだから。