第90話 口付
それは……その人にとっては、単なるいたずら心だったのだろう。
誰もいなくなった時、小さなあなたは、僕を見上げながら、キスをした。
それも二度も…。
「あなたには…恋人がいるでしょ…」
二度目を拒もうとした僕に、あなたは微笑みながら、首を横に振った。
「今は、関係ない…トモなら…いいよ」
僕の首に腕を回し、爪先で背伸びをして、僕に唇を押しつけた。
その癖、堪らなくなった僕が、抱きしめようとしたら、あなたはすぐに……僕から、すり抜け、恋人の待つ家に走っていった。
唇に触れながら、僕はあなたを見送った。
あなたの遠ざかる背中だけが、僕の視界に残り、決して消えることはなかった。
次の日。
ごめんね……。
のメールだけを残した彼女とは、会うことがなかった。
後で知ったが、彼女はその日…籍を入れたのだ。
つまり、結婚。
マリッジブルー……そんな言葉を知ったのは、何ヵ月もたった後だ。
次のキスは……本気で、僕からのはず…だった。
もう最初のキスから…あの人は、僕のものではなかったのだ。
キス…キッス…kiss…接吻…口付け……。
虚しい言葉だけの羅列。
あの人は……キスではなく、傷だった。
僕に傷を残し、あの人も傷を負っていた。
数ヶ月後。
あの人の残した傷が、消えないことに気付いた時…僕はあの人と、再会した。
「トモ…」
一人暮らしを始めた僕の家の前で、彼女の泣き顔を見た時、傷なんて消えた。
切なさと愛しさ……。
僕は、彼女を部屋に入れた。
例え…彼女の手が血まみれであっても……。
「……何て、残酷な…」
フラッシュがたかれ、現場検証を始めていた捜査官の間を通り、まだ生々しい遺体が横たわる2LDKの一室で、刑事は顔を背けた。
部屋中に、血が飛び散っていた。
「物凄い力で…引き千切られています」
先に現場を検証していた若い刑事が、報告した。
「引き千切られている?」
「はい!こんなことが、できるのは………人間じゃないですね」
天井からも…血が滴り落ちてきた。
「犯人は、わかってるんだろ」
血を避けながら、刑事はきいた。
「はい。血だらけになった…被害者の妻が、逃げるところを、近所の人が目撃しています。今、彼女の交友関係を当たっています」
「それにしても…」
刑事は、死体を見た。
「どうやって…熊や虎でもいたのか?」
顔をしかめた刑事のそばで、若い刑事は呟くように言った。
「……信じられない…」
「どうした?」
異様に青ざめている若い刑事に気付き、刑事は顔を見た。
若い刑事は、こたえない。震えている。
「青木警部!」
もう一人の刑事が、部屋に入ってきた。
「被害者が殺害される前に、被疑者と言い争っている声と…被害者の断末魔を、隣の住人が聞いています。どうやら…被害者は浮気をしていたようで…。それも、何度か…。昨日も、どうやら……他の女といたようです」
「女?……その女は、どうした?」
遺体は、一人分しかない。
「血液は…二人分ありますよ…」
放心状態になっていた若い刑事が口を開いた。
「だけど……体は、一人分もない…」
「はあ?どういうことだ?」
青木は若い刑事でなく、報告に来た刑事に訊いた。
刑事は、無言で首を横に振った。
「食べたんですよ…人間を…」
若い刑事はそう言うと、顔を引きつらせ、声をださずに笑った。
「お前は…」
血だまりの中で腰を下ろし、愛しそうに首を抱いた女を…僕は見つめていた。
「赤星…。こいつが」
ピアスから、アルテミアが言葉を発した。
「食ったのか……」
アルテミアの言葉に、僕は女から顔を背けた。
だけど…女は虚ろな目で僕を見上げた。
「お腹がすくの…あたし、もの凄く……」
涎が、女の口の端から糸を引いて血だまりの中に落ちた。
---プルプル。
携帯が鳴っていた。
バイブにしていた為、力なき女の手から、携帯がこぼれ落ちた。
携帯が、血だまりの中で何度も鳴る。
女は着信を無視し、僕に笑顔を向け、
「ともが……ね。あたしにこう言ったの…」
部屋に上がった女から事情をきいた智也は、頷いた。
「由貴さん……。僕を差し上げます。だけど…」
化け物に変わった由貴。
だけど、それでも…ともから切なさも、愛しさも消えなかった。
「僕にずっと…」
「…トモは言ってくれたの。自分を食べてもいいって。だけど、その代わり…ずっと僕に口付けをして下さいと……」
由貴は、泣いていた。
「男はみんな…あたしを裏切って…あたしから、離れていった。なのに、トモだけ!トモが、ずっとそばにいてほしいって…」
由貴は、トモの首を抱きしめ、口付けをした。何度も何度も。
「だけど……もう駄目…お腹が減って…我慢できない!トモの…トモの顔も…食べちゃいそうなの!!」
由貴は、絶叫した。
そして、僕を見ると、
「だから……トモを食べる前に…あたしを殺して…お願い…」
由貴の目から、涙が流れた。
それは、最後の人として…女としての涙だった。
「く」
僕は、目をつぶった。
2つの物体が飛んで来て、合体すると、剣になった。
「くそ!」
僕は目をつぶりながら、剣を振り下ろした。
数日後。
智也のアパートを突き止めた刑事達が見たものは…血だまりの中で微笑みながら、目をつぶっている智也の首だった。
由貴の姿はなかった。
それから、彼女の消息はわからなくなった。
ただ…彼女のものだと思われてる靴などが、智也の家の玄関に、無造作に残っていた。
由貴は、全国に指名手配されたが…足取りは、智也の部屋から先を辿ることはできなかった。