第89話 紙切
「カード…?」
ぽつりと呟いた明菜は、少し首を捻った。
明菜が知るカードの意味は…異世界で、魔法を使う為に必要とだけだ。
「守口舞子がいうには、このカードは、進化を促進するらしい。つまり、普通の人間を、化け物に変える切っ掛けをくれる」
「切っ掛け?」
「ああ…」
神野は頷き、目を細めた。
「だから…こいつは、配られた。要注意人物や、少しでも興味を持った者。生まれ変わる切っ掛けを与えるアイテムとして…ネットに流してね」
「ちょっと待ってください!そんなことをしたら…」
「いいんだよ…」
神野は、上着を着始めた。
右手は、包帯で念入りに隠す。
「炙り出す為にはね。進化始めた初期段階なら、ほとんど人間と変わらない。銃で、殺せる」
神野は、警察官の姿に戻る。
「こ、殺すって……」
絶句する明菜に、神野は肩をすくめ、悲しく微笑んだ。
「俺達も知らなかった。単なる検挙だと思っていた。しかし…」
研究を続ける沙知絵のもとに、次々にサンプルが届けられた。
人から完全に変化するまでの…数人のサンプル。
「素晴らしい!」
中村は感嘆した。診察台に並べられた人達の中身を、確認しながら、天を仰いだ。
「これまでは、ある程度変わるまでは、判断できなかったが……なるほど!こうやって、変わっていくのか」
学者達が忙しく動き回る中、1人冷静に様子を伺う舞子は、中村の様子にクスッと笑った。
「いやあ〜素晴らしい!これでわかるかもしれない!進化する者と、しない者が!」
「頑張って下さい」
舞子はそう言うと、1人顔をしかめている沙知絵に、近づいた。
「ひどい…」
ここに並べられた人々のほとんどが、何の罪もない。
生態がわかるからと言って、彼らを騙し、殺し…そして、解剖することが、国家のやることなのだろうか。
沙知絵は、自分がやろうとしていることに、疑問を持っていた。
「そうよね。ひどいと思うわ」
沙知絵の後ろに、舞子が立った。
驚き、振り返った沙知絵の目に、氷のように冷たい笑みを浮かべる舞子が映った。
「あなたに話があるの」
舞子の笑みを見て、沙知絵は凍り付いたように、動けなくなった。
そんな沙知絵に、舞子は更に笑いかけた。
「でも……ここじゃなんだからか…」
「え?」
すると、舞子と沙知絵は別の部屋に一瞬で、移動していた。
あまりのことに驚き、周りを確認する沙知絵に、舞子は言った。
「単なる…テレポートよ」
「テレポート!?」
そこは、研究所内の資材置場だった。
備品のストックが所狭しと、並んでいる。
「…あなた…もうすぐ結婚するんですってね」
狼狽える沙知絵の左手を見て、
「幸せを掴もうとする女は、素敵だわ」
舞子は羨ましそうに、目を細めた。
そして、目線を沙知絵の横顔に移動させた。
「その幸せの為なら、何でもするわよね」
「え」
殺気を感じ、沙知絵は動きを止めた。
「だけど…その幸せが、掴めないとわかったら…どうするかしら」
舞子はゆっくりと右手を上げ、人差し指を沙知絵に向けた。
「ねえ?」
人差し指を、沙知絵の顔に向けて、歩いてくる。
「いや…」
恐怖を感じ、後退ろうとしたが、足下が凍っていた。
「あなたも…薄々気付いていたはず…。そして、さっき確認したはず」
舞子は、優しく微笑みかけた。
「自分も、進化しはじめていると…」
沙知絵は、言葉を発することができなくなった。
そんな沙知絵を愛しそうに見つめ、
「あなたは、人間ではなくなる。それなのに…あなたの愛する人は、ただの人…。かわいそうに…」
舞子の人差し指が、沙知絵の眉間に触れた。
その瞬間、額から熱いものが、沙知絵の中を駆け巡り…沙知絵の皮の下を溶かしていく。
「愛する男を、生かすには…あなたの作った腕を、彼に付けなさい。そして、ある女に会うようにいうのよ」
舞子は、溶ける沙知絵の脳みそに向けて、暗示をかけ始めた。
「ある……女……?」
沙知絵の目が、半分閉じられていく。
「そうよ」
舞子は右手で、沙知絵の顎から首にかけてを、愛しそうに撫でた。
「その女の名はね…」
次に、沙知絵が目を覚ました時…彼女は普通に、死体が並ぶ安置室に立っていた。
「早速、開発を進めてくれたまえ!期待しているぞ」
目の前にいる自分の激励に、はいと反射的に頷いた沙知絵に満足したのか…何度も頷きながら、中村はその場を離れた。
そのまま自分の研究室へと、ぼおっとした頭のまま戻っていく沙知絵。
その瞬間から、彼女の苦悩が始まった。
「沙知絵は……完全に化け物になる前に、俺に腕をくれた……いや、違うな」
神野は、首を横に振った。
「美化はやめよう。俺の腕を食い千切り、一口食べた時…彼女は、気付いたのさ。そして、人である最後の時間を…俺の手術に当てた」
神野は、沙知絵の手で怒りを表した。拳をつくり、明菜に見せた。
「俺は…沙知絵を殺さなければならない。化け物になったあいつを!あいつの腕で!」
怒りと…そして、すがるような目で、明菜を見、
「俺に、力を貸してくれ!俺には、時間がないんだ!」
神野はもう一度、上着を脱ぐと、明菜に肩口の接合部を見せた。
沙知絵の腕と神野の肩をつなぐ接合部……その付け根である神野の肩口が、変色していた。
「俺の体は、汚染されている。普通の人間である俺は、この浸食が広がれば、確実に死ぬ。多分、一年も保たない」
キッチンで立ち尽くす明菜の前にある玄関の板の間に、神野は額をつけて、土下座した。
「お願いだ!あんたの剣を、俺に使わしてくれ!!」
あまりの迫力に、明菜は息を飲んだ。
それから、胸をぎゅっと抱き締めると、明菜は神野に近づいた。深呼吸した後…ゆっくりとしゃがみ込むと、神野についている沙知絵の手の上に、手を置いた。
「一つだけ約束して下さい」
神野の手を握り、明菜は言った。
「命を大切にして下さい」
その言葉に、神野の顔を上げた。
思い詰めた顔で、神野を見つめる明菜。
「約束して下さい」
「わかった。約束する」
力強く頷いた神野の瞳の奧を見つめた後、明菜は微笑んだ。
神野の手から手を離すと、明菜は立ち上がり、
「もう一つだけ教えて下さい。さっきの怪物を…あなたは、人の進化と言いましたが…あたしが知るかぎりでは、彼らの姿は、個々によって違うのではないですか?」
神野は、右手に手袋をすると、彼も立った。
「…よく知らないが、人という蛹の殻を破り、生まれ変わった時…人であったときのアイデンティティーで、姿は自由に変わるらしい」
神野はそう言いながら、明菜の鳩尾にまた手をやり、次元刀を引っ込抜くと、そのまま刃を回転させ、後ろのドアを突き刺した。
ドアから抜くと、鉄製のドアには傷一つついていないが、扉の向こうにいた化け物は斬られ、絶命した。
ドアを開けると、ザリガニに酷似した化け物が、倒れていた。
「そんな中で…進化しても、人間とまったく変わらない者がいる。それは…劣っているのではなく、寧ろ逆だ」
念の為、神野は死体の頭を突き刺した。
「変わることない…揺るぎない心。人は、肉体は弱い。しかし、姿形は…完成品に近い」
さっきのように、死体を空間の狭間に捨てると、神野は明菜の中に、次元刀を戻した。
「人の姿のまま…空を飛び、目に見えないものを見、銃などにも、びくともしない存在こそ、究極だ!なぜなら…」
神野は、明菜を見据えた。
「人は、神の姿を真似て…つくられたのだから…」
「神の姿…」
明菜は呟いた。
(アダムとイブ)
神野は、明菜をじっと見つめながら、頷いた。
「人と同じ姿をし…空を飛び…死ぬこともない。そして、人間を餌とし…人間を滅ぼす存在。俺が、真っ先に浮かんだのは…バンパイアだ」
「バンパイア…吸血鬼…」
「そうだ」
神野は、腕の感触を確かめていた。次元刀を使っても、違和感はない。
「だったら!」
明菜は思わず、声を荒げた。
「この世界は、バンパイアに…進化した人間は、バンパイアになるの!」
「違うな!」
神野は否定した。
「そのような存在は、何人もいらない!人が、今世界に君臨しながら、こんなにいるのは…個が弱いからだ!弱いから、増えた…」
神野は、自分の肩口に触れ、
「神は…1人しかいらない」
浸食されていく自分の体を、握り締めた。
「今まで…ただ進化するだけだった…やつらが、最近統制が取れてきている」
神野は明菜から視線を外し、虚空を睨んだ。
「やつらを率いる…神が生まれたのさ」
中村は、沙知絵にこう告げていた。
「我々人間は、神が生まれるたびに、目覚める前に、総力を持って、葬って来た。虐殺…戦争…核等…それは、人に紛れた神を殺す為だった…」
「神を…殺す」
唖然とする沙知絵に、中村はにやっと笑った。
「祈っても無駄だよ。豚や牛が…神に助けてくれと、祈っても…毎日、誰かに食べられているだろ?それと同じだ…。我々を助けてくれない」
中村は、天井を仰ぎ見た。
「我々は、劣等生物だからだ!食物連鎖の頂点から、引きずりおろされた時……我々に、大義名分もなくなるのだよ」
持っていたカードを握り潰した舞子は、ため息さえ凍らせて、夜空の下…研究所の屋上にいた。
ただ星空を見上げていると、舞子に近づく者がいた。
唐突に現れた自分にあまり気に留めず、星を眺め続ける舞子の隣で足をとめて、その者は苦笑した。
「どうして…このようなことをしてるのかしら?」
「……」
舞子はこたえない。
「あんたは…我々と今は、行動を共にしているけど…こっち側の人間のはず…」
しばしの沈黙の後、舞子は口を開いた。
「この世界に…何の感傷もないわ。あたしはただ…あいつを殺したいだけ」
「赤星浩一?」
この問いにも、舞子はこたえない。
「あなたは……人間を守りたかったんじゃないの?」
「…」
舞子は星空から視線を外し、自嘲気味に笑うと、ゆっくりと夜空に背を向けた。
「あたしは……人間を守りたかった…あの人を守りたかっただけ…」
舞子は、歩きだした。
「あんたには……わからないでしょうね。リンネ…」
歩き去る舞子の方を見ようともせず、リンネは視線だけを少し上げた。
もう…背中に舞子の気配は、消えていた。
「…」
数秒後、リンネも消えた。