第87話 恥部
家に帰り…湯船に浸かる明菜は、今日までの出来事を考えていた。
先日のこと…昨日までのこと…異世界のこと。
時とともに実感がなくなり、他人のことのように感じていたけど、その思いは一層、強くなっていた。
お湯の中から腕を出し、まじまじと見つめた明菜には、自分が武器になったとは信じれてなかった。
異世界での記憶は…魔法陣の中で閉じ込められたことと、赤星に助けられた記憶しかない。
武器となっていたなんて、信じられなかった。
しかし、信じられないことが起こっているのだ。
自分の知らない所で。
「魔獣因子…」
唐突に、明菜はこの言葉を思い出した。
魔法陣に明菜を閉じ込めたクラークは、言った。
お前達の世界に、魔物はいないのではなく…魔物になることが、なかっただけだ。
魔物として覚醒しない人間の…遺伝子に隠された情報を、魔獣因子と呼ぶ。
クラークは、にやりと笑い、
「赤星浩一も、魔獣因子の持ち主だ」
「こうちゃん…」
明菜の瞳に焼き付いている赤星は……少し気弱だけど…優しく、喧嘩や暴力などには、程遠い人物だった。
世界の変化なんて…明菜に分かるはずがない。
ただ…赤星のことが気になった。
二度と会わない人と、思っていた。
だけど、忘れられなかった。
恋愛に発展することもなかった。
別に、無理矢理…忘れようとか、他につくろうとかは思わなかった。
血まみれになりながらも、自分をこの世界に、戻してくれた赤星の姿が、忘れられなかった。
単なる恋愛ではない。
そう単なる恋愛ではない。
新しい恋を探すことではない。
でも…婚期は遅れるだろうが、いずれ…誰かと結婚すると感じていた明菜に、今回のことは、思いがけないことだった。
でも、不安はある。
「星野ティアナ……」
あの綺麗な女が気になった。
だけど……………………………………………………………………………………………それは…。
「あの人間から、何か得たのか?」
ギラの問いに、サラは鼻を鳴らした。
「フン」
少し苛立つサラの様子を見て、ギラはこれ以上きくのをやめた。
少し呆れたようにため息をつくと、ギラは真下に広がる町並みに、視線を下ろした。
この街で、一番高い高層ビルの屋上に佇みながら、ギラはくしゃみをした。
「…なんて、汚い空気なんだ?軽い毒だろ」
ギラは、高層ビルの側面を見、
「それに、なんだ?この意味のない建物は?我々の世界の人間は、ここまで巨大なものを作ってないだろ?まあ…作ったとしても、すぐに、破壊されるだろうけどよ」
ギラは頭をかき、空を見上げた。
「星も見えないとは…どれだけ汚れているんだ?」
天空の騎士団長であるギラにとって、大気が汚れているのは、許せないことだった。
「ライ様のおっしゃる通りだな。人間だけにすると、世界は汚れる」
ギラは、鼻を鳴らした。軽く町を、破壊したい衝動にかられる。
「リンネのやつは、よくこんな世界に来ようと思ったな」
ギラのぼやきをきいているのか…いないのか…。サラは、ただ町を眺めていた。
「さっさと…大地の女神を見つけ…我々の世界に、戻ろう」
ギラの嘆きを無視するかのように、サラはいきなり…高層ビルからジャンプした。
60階建てのビルを、落ちていく。
「どうした?」
ギラは、サラの動きを目で追った。
地面に激突する寸前に翼を開き、着地したサラを、ビルから出てきた数人のサラリーマンが目撃した。
「何だ?」
目を見張ったサラリーマン達の首が、飛んだ。
着地したサラの巻き起こした風は、かまいたちとなり、周りのものを切り裂く。
「あちゃ〜」
ギラは頭を抱え、
「目立つなと言われているだろ…」
仕方がなく、ギラも飛び降りた。
ギラは、翼を広げることなく、地上に着地した。
足に風を纏い、ふわりにサラの隣に降り立った。
「何があった?」
ギラは、サラの顔を見た。
サラは、じっと1人の女を見つめている。
「ヒィ…」
サラのかまいたちによって、半径十メートル内にいた人や、木は切り裂かれていた。
そんな中で…その女だけは、無傷だ。
「ば、ば…化け物…」
腰を抜かしながらも後方に下がる女は、サラを指差し、震えていた。
「ば、ば、化け物をををを!」
絶叫した瞬間、女の全身の皮膚がめくれ……新しい皮膚が姿を表す。蟹のように、ざらついた肌。
「フン!」
サラは一瞬にして、間合いを詰めると、変化した女の体を、手刀で貫いた。
「ば、化け物…」
女は、絶命した。
サラは手刀を抜くと、自分の手についた女の血を舐めた。
「こいつは……」
ギラは、死んだ女のそばに立った。
「人間だ……いや、人間から、変わる前か…」
サラは呟いた。
「変わる前?」
ギラも指に血をつけると、舐めた。
「!」
はっとするギラに、サラは頷いた。
「擬態前……まだ安定する前だ」
昆虫が、幼虫から成虫になる前の蛹。
幼虫と成虫は、体の作りがまったく違う。
蛹の途中…開けてみるとドロドロした液体になっている。
最初から、作り直すのだ。
「これは…」
ギラは、死体の女を見下ろした。
サラに貫かれた部分から…血と混ざり…溶けだしている内臓が見えた。
「人の……いや、魔物の蛹だ」
サラは一振りで、手についたものを払うと、女の体をまじまじと見つめた。
バスルームから出て、髪をドライヤーで乾かしていると、携帯が鳴った。
ちらっとディスプレイを見ると、美奈子からだ。
明菜は、携帯を取った。
「はい」
「明菜か?…やっぱりな…いろいろ考えたんだが…」
美奈子の口調は、どこか思い詰めていた。思いを決めながらも、最後の一言をいうのを躊躇っていた。いや、美奈子が躊躇っているというより……美奈子の良心が躊躇っていた。
「先輩…」
それは、明菜も同じだった。次の言葉も、わかっていた。
だけど…明菜は黙って、美奈子の言葉を待った。
「気性だな…」
美奈子は、電話の向こうで頭をかくと、一呼吸置き、
「傍観者は、性に合わない!何が起こってるのか、事実が知りたい!」
ここで、美奈子は言葉を切り、
「だ・か・ら…明日から、探す!」
「明日から…探す?」
明菜は、意味がわからなかった。
「赤星浩一だよ!あいつなら、すべて知ってるだろ!」
美奈子の主張は、もっともなようで、もっともではない。
赤星が知っているかもしれないけど…彼の足取りをつかむことはむずしい。
それに……。
「稽古は、どうするんですか?」
明菜の言葉に、美奈子はフッと笑った。
「…役者に、スタッフ…二人もいなくなったんだ。今から、人員を補充しても、納得するレベルまでには、仕上げられない…だから、断ったよ」
「え…」
それは、予想もしなかったことだった。
「実際には…あたしが、断ったのさ…」
美奈子は、ため息をつくと、
「あたしが、演出者から消えて、他の劇団との共同になる。まあ…簡単に言えば、責任問題だ。あたしは…仕上げることが、できなかったんだがらな…」
美奈子の頭の中で、春奈が主役を演じることに、ほぼ決めていた。
しかし、春奈は失踪した。
春奈の正体を知った時、美奈子のイメージは、崩れ去ってしまったのだ。
「まあ…田崎や他のメンバーは、そのまま参加するし…あたしが抜けても、問題はない」
美奈子はあっけらかんと言ったが、内心は強がっているだけだった。
もともと大手の劇団が、候補に上がっていたのを、後輩の里緒菜が無理言って、こちらに回してくれた仕事だった。
「あと1ヶ月…余裕があったら……明菜……お前が主役でいけたんだけどな…」
まだ参加したばかりの明菜が、公演までに主役をはるには、時間がなさすぎた。
「だから……暇になったから…。赤星君を探そう」
美奈子の言葉に、すぐに明菜は頷くことはできなかった。
数秒遅れて、
「はい…」
明菜は返事した。
その元気のない声に、美奈子は少し声のトーンを上げ、
「べ、別に、まったく手がかりが、ないわけでないぞ」
「え?」
「調べてみたんだ…ネットで…何かおかしなことはないかと……。そして、思い出したんだ。彩香の言葉をな」
「彩香…。そういえば、彼女も行方不明に…」
「警察が来たよ。あたしのところにな。家族から、捜索願いがでたようだ…。店を出てからの足取りが、つかめていないからな」
「どうしたんでしょうね…」
美奈子は、ため息をついた。出会ったばかりで、あまり親しくはなかったが…やはり同じ劇団員だ。心配ではあった。
「あたしは……あの子も、一連の事件に巻き込まれていると…思う。なぜなら、あの子のお兄さんも…行方不明になっているからだ。それも、数年前…」
「数年前?」
「ああ…」
次の美奈子の言葉は、明菜に衝撃を与えた。
「数年前に行方不明になったお兄さんは…あたし達と同じ学校だ」
「!」
その言葉に、明菜は凍りつく。
「そうさ…お前の数日後、いなくなった五人のうちの1人だ…」
いなくなった五人は、異世界に飛ばされたのだ。
彼らがどうなったのかは、明菜は知らない。
ただ未だに、戻ってきてはいないとしか。
「だから…警察は、今回の件も、お兄さんと同じような…」
「ちょ…ちょっと待って下さい!警察が、そこまで詳しく話したのですか?それは、個人情報じゃ…」
美奈子の話を遮り、明菜は声を荒げた。
「別に…おかしくないだろ…。当時、行方不明になった7人…帰ってきたのは、明菜…お前だけだしな…」
明菜は、違和感を感じていた。彩香の兄があの時…クラークにより、呼ばれた五人の中の一人であることがわかった。
(魔獣因子)
再び、その単語が頭に浮かんだ。
クラークは言っていた。
魔獣因子を持つ人間を、この世界に召喚すると。
「それと…ネットで調べた件だけど…」
トントン。
明菜の家のドアを、誰かがノックしていた。
ドクン。
その後に、明菜の心臓の音がした。
タイミングが合いすぎている。
「先輩…。ちょっと、誰かが来たみたいですので…」
明菜は携帯を置き、ドアへと近づいた。
安いワンルームマンションでも、インターホンくらいはついている。
「はい…」
外から、声が聞こえた。
「警察の者ですが…」
明菜は、インターホンの画面に映る男を見た。
ドアの前にいる男は、確かに制服を着ていた。
警察に、間違いはないようだ。
「先日行方不明になった…同じ劇団に所属なさっていた松野彩香について…少しお話を伺いたいのですが…」
まだ劇団に入って数日の明菜の家に、事情聴取に来るなんて…よっぽどのことだ。明らかに、疑われているのか。
明菜は、チェーンをかけたまま、ドアを開いた。
ドアの前に、二十代後半と思われる警官が立っていた。
警官は帽子を取り、頭を下げると、にこっと微笑んだ。
違和感はない。
だけど……。
(私服ではなく…制服?警察だとはわかるけど…)
事情聴取に、制服がくるのか。
明菜の訝しげな表情に気付いた男は、胸ポケットから警察手帳ではなく、一枚のカードを取り出した。
「あなたは…ご存知のはずだ」
カードを提示する警官の顔から、笑みが消えていた。
ドアの隙間から、ぬうっと差し込まれた腕。
カードを挟む指。
「!」
明菜は、絶句した。
袖口から見える警官の腕は、人間のものではなかった。
後退ろうとする明菜。
「何かあったの?」
近所に住む中年の女が不信そうに、警官の肩越しに、覗くのが見えた。
「おばさん!危な」
明菜が、女に向かって叫ぼうとした瞬間、警官は舌打ちした。
後ろを振り返らずに、腰につけてあった拳銃を抜くと、振り返りざま、発泡した。
「きゃっ!」
いきなりの惨劇に、明菜は顔を覆った。
至近距離から撃たれた女は吹っ飛び、廊下の壁にぶつかった。
「おばさん!」
パニックになる明菜に、警官は怒鳴った。
「心配するな!こいつらが、鉛玉くらいで、やれない」
警官は、明菜と壁に激突した女の間に立つ。
「こいつらは…人の武器では倒せない」
「え…」
銃で撃たれたはずの女の体からは、血すらも出ていない。
壁から離れた女の体から鉛の玉が飛び出し、コンクリートの廊下床に落ちて転がった。
「チッ」
警官は、再び引き金を弾いた。
しかし、今度は…銃弾が弾かれ、明菜の部屋のドアの横の壁に被弾した。
「硬化したか…」
警官は、銃を捨てた。
「こうなれば…」
女はにやりと笑った。
今まで、伏せみがちだった顔を上げた瞬間、飛び出た目玉が、ナメクジのようにのた打ち回っていた。
「あんたの力を借りるぞ」
その場で化け物を見て唖然とし、動けなくなっていた明菜に近づくと、警官は明菜のお腹の辺りに、人の腕ではない右手をかざした。
すると、警官は明菜の体から、あるものを引き抜いた。
それは……。
「きえええ!」
奇声を発して、襲い掛かろうとする女を、
「フン!」
気合い一声で、一刀両断した。
それは、瞬きの時。
警官の手には、日本刀に似た剣が握られていた。
女の腰から肩にかけて、スライドするように2つに斬られ…死体となった女が、廊下に転がる。
血というよりも、どんよりにしたゼリー状の赤い液体が、廊下の床に広がった。
「まだ…初期段階か。安定期を迎えていないやつも…あいつらの声を聞けるのか…」
警官は床に倒れた女の死骸と、赤い体液を囲うように、空中で剣を円を描いた。
すると、廊下に円状の穴が開き、死骸はその中に落ちていった。
「ヒュ〜!」
警官は口笛を吹くと、剣を掲げた。
「こ、これが…次元刀か…」
感嘆する男の剣を持つ腕。異様に黒く…それはまるで…腐っているような色。
それなのに、妙に腫れ上がり…血管が浮き上がっていた。
右手だけが、警官の体で異様だった。
「あなたは…」
その姿に、やっと動けるようになった明菜が、後退る。
ワンルームの奧まで下がった時、警官の手にあった次元刀が、消えた。
「やはり……使用距離があるのか」
男はドアに近づき、また腕を差し入れると……腕が伸び、あり得ない方向に曲がり、ドアチェーンを外した。
そして、ドアを開け、玄関に入ると、ドアを閉めた。
警官は家には上がらず、部屋の奧で震える明菜を見た。おもむろに、話しだす。
「あんたは…監視されている。危険な…武器として…」
「あ、あなたは…」
明菜は震えながらも、部屋の角に立て掛けてあったホウキを取り、握り締めた。
勝てるはずがないが…逃げる場所もない。
震えながらも、戦う覚悟を決めた明菜に、警官はため息をついた。
「…俺は、あんたの敵ではない!味方…というより…」
警官は玄関で、正座した。
「あんたの力なしでは、何もできない…無力な、ただの人間だ」
正座をして姿勢を正す警官に、明菜は言った。
「人間!そ、その手は何よ!人間のはずがないわ!」
「この腕か…」
警官は突然、制服の上だけを脱ぎだした。
「この腕は…俺の腕じゃない」
シャツも脱ぎ、上半身裸になると、男の腕の付け根が露になった。
機械の接合部。
「こいつは…無理矢理、俺の腕に取り付けている……あんたの剣を使う為に」