第82話 宇宙
微かなの音を奏でて、差し出されたコーヒーを、僕は受け取った。
「いただきます」
皿から小さなカップを手に取り、僕は少し苦い香りを鼻で味わいながら、カップに手をつけた。
「お、おいしい!」
香りとは裏腹に、苦くないコーヒーに感嘆した。甘くはないが…少しビターだ。
コーヒーをいれてくれたマスターは、僕の前で、満足気に頷き、
「宜しければ…おかわりがございますので……。いえ、お代は頂きません。実は、一杯目が、サービスなのですよ」
マスターはにこりと微笑むと、早くも空になった僕のカップに、おかわりを注いだ。
そして、おもむろに、話し出した。
「昔…高校野球の審判をしておりましてね。……いえ、甲子園ではございません。地方の予選の球場ですが…」
マスターの話は、こうだ。
ある決勝で、ホームベース。
滑り込んだ球児。
最終回だった。これが、最後のチャンスだった。
一点入れば、同点。更に満塁だった為、逆転もあり得た。2アウトだが、次の打席は、絶好調の四番だった。
快音の後…滑り込んだのは、ギリギリのタイミングだった。
これで、甲子園が決まる、
しかし、あまりの砂ぼこりの煙と、グローブが邪魔して、あまり見えなかった。
アウト。
マスターの声がこだましたとき、負けた学校の夏は…終わった。
「今も、時々…夢を見ますよ。あの時の夢を…」
注ぎ終わったカップを、僕に差出し、
「本当に…アウトだったのかと…」
僕は、カップの中身を見つめた。
「だからね。審判をやめて、再び店を開く時に、決めたんですよ……もう間違えないと…」
僕は、カップに手をかけた。
「当店は、お客様の好みに合わせて、コーヒーをいれております。味が、合わなければ…いつでも、入れなおします」
僕はまた一口…啜った。
「だって…今は、お客様が審判なのですから…」
マスターは微笑んだ。
とあるカフェ。
カウンターが六席。テーブル席が、二席という…こじんまりしたカフェというより、喫茶店。
午後の一時を、カウンターで楽しんでいると、突然…僕の隣に座った男が、マスターにコーヒーを頼んだ後、初めて見る僕に、話しかけてきた。それも、最初の言葉がイカレていた。
「僕は、宇宙人なんだ」
「…」
僕は思わず、無言になってしまった。
男は僕の反応ににやにやしながら、出されたコーヒーを一気に飲み干すと、カウンター内にいるマスターに微笑んだ。
「マスターのコーヒーは、宇宙でも通用するよ」
そう言うと、改めて僕の方を見て、
「あなたも、そう思いませんか?」
男の笑顔に、僕は愛想笑いを浮かべ、頷いた。
男は満足気に頷くと、カップを置いた。
「おかわりは、いかがですか?」
マスターの言葉に、男は手を前に出して、断った。
「いいよ。マスターの二杯目が、最高なのは…もうわかってるから。それより…」
男は、じっと隣に座る僕の横顔を見て、
「あなたは…どこの星から、来られました?」
「え?」
男の予想だにしない言葉に、僕は思わず男の顔を見た。
妙に大きな瞳、黒縁眼鏡に、紺のスーツ。
男は、顔を近付け、
「わかるんですよ…自分が、地球人じゃないと気付いた時から、同じ…宇宙から来た人の匂いが…」
男はにやりと笑い、
「マスターのコーヒーと同じ…匂いでね」
「!?」
僕は、席を立った。
横のカウンターに座る男を見下ろし、凝視した。
「赤星…」
ピアスから、アルテミアの声が聞こえてきた。
僕は、静かに頷いた。
「どうですか?同じ地球外生物として…親睦を深めませんか?」
男は音を立てて、カウンターから立ち上がり、
「これから、私の家に行って…私の地球における研究成果を、お見せしますよ」
店を二人で出て、僕は男の後ろをついて歩いた。
男の家は、カフェからさほど離れておらず…2、3分歩いてたら着いた。そこは、閑静な住宅地の中の小さな一軒家だった。
「さあ!どうぞ、どうぞ」
門を開けると、すぐに玄関だった。
男に促されて、門をくぐった瞬間、微かな死臭がした。
一歩下がると、まったく臭いがしない。
(これは…)
門をくぐらなければ、臭いがしない。
僕は、鉄でできた黒い門の上の空間に、手を当ててみた。
(結界のようなものはない…しかし)
明らかに、おかしい。
「何してるんですか?」
玄関のドアを開けた男は、僕の行動に気付き、少し考え込むと、手を叩いた。
「ああ!あなたの星の儀式みたいなものですか!」
「ええ…まあ…」
曖昧な返事をして、僕は慌てて玄関に向かって、歩きだした。
「お邪魔します……!?」
家に入った瞬間、強烈な血の臭いに、思わず僕は動きを止めた。
「おや?」
男は僕の顔を見て、感心した。
「綺麗な目ですね」
僕は心の中で、舌打ちした。
どうやら、赤くなってしまったようだ。
(バンパイアの本能が…反応したか!)
最近、血を吸っていないところに、この強烈な臭いだ。
「やっぱり、あなたは…お仲間だ!さあ、あがって下さい」
靴を拭うとする僕に、男は笑いかけた。
「土足で結構ですよ!我々に、靴を脱ぐなんて慣習はないでしょ!それとも何ですか?郷にいれば、郷に従うって、やつですか?」
僕は、邪魔くさくなって、靴のまま家に上がった。
「さあさあ…お見せしましょう!私の研究成果を!」
玄関からのびる廊下のすぐの右手に、ガラス戸があった。
それを一気に開けると…僕は思わず、顔を背けた。
そこは、さながら…拷問場だった。
天井から、吊らされた数人の男女。
転がる猫や…犬の死骸。
すべてが、真ん中から、裂かれ…内臓を抉り出されていた。
「見て下さい!」
男は興奮しながら、その部屋のテーブルに置いてあったスケッチブックを、僕に見せた。
「これが…私の研究ですよ」
そこには、手描きで書かれた解剖図と…臓器のスケッチ…それに、各味と…感想が書かれていた。
「私はねえ……。私の星M81星雲にある…星から来たんですよ!人の体と……人が、我々の食糧になりうるのか…調べる為に…」
男の口から、涎が流れた。
僕は、フローリングされた床に溜まった血の中に、転がるものを発見した。
僕は血溜まりに足をつけると、そこにつかっているものを手に取った。
携帯だった。
見上げると、若い女が吊らされていた。
「ああ…そいつは、さっきの茶店のそばで、会ったんですよ。私を気持ち悪そうに…見たもので…」
僕は、携帯を開いた。
「ちなみに…隣に並んでるのは、家族です。まあ…家族と言っても、仮初めですよ。この星にいる為に、家族にしただけです」
携帯の…最後のメールをチェックして、僕は悔しさで、唇を噛み締めた。
「まだまだ…研究は終わりませんよ。男と女でも、味が違うし……年齢でも…」
「なぜ…殺した…」
僕は絞り出すように、言葉を発した。
(助けられ…なかった…)
「え?」
男は、目を丸くし、
「殺したとは、失敬な!研究ですよ。敢えて言うなら、食べた……味見した…ですかね」
飄々と言う男に、僕は振り返って、睨んだ。
「この子に、罪はなかったはずだ!家族だって…あんたを産んでくれただろ!」
「ち、ちがう!ちがう!それは…地球で、活動する為に、植え付けた記憶で、私は、こいつらから生まれてませんよ」
「き、貴様…」
「でないと……」
男の右目からだけ…涙が流れた。
「私のこの……食欲はなんですか?」
男の姿が、変わる。
口が裂け…見る見ると猛禽類を思わす…肢体に変わっていく。
「この姿は!私は、地球人ではないのですよ!そうでないと…」
虎を思わす姿は、人間ではなかった。
「私は、何ですか?」
「赤星!」
アルテミアが叫んだ。
「大丈夫!」
僕は、携帯を握り締めた。
「私は、人が食べたい!あああ…これは、星からの指令なのです!」
男の指から、鋭い爪が伸びた。
「私は…宇宙人なのです!だから!」
襲い掛かる男の体を…僕の両手から伸びた鉤爪が、切り裂いた。
「私は…人間では…な」
切り口から、炎が発生し…男の全身が一瞬で、燃え尽きた。
炎は、部屋中に燃え移り…そこにあったすべてのものを焼き尽くしていく。
僕は…携帯を炎の中に、投げ入れた。
足元に散らばっていたスケッチブックも、炎の中に捨てた。
それからすぐに、通報により警察が来て、部屋を見たが…炎が出たような形跡は…なかった。
惨劇はそのままで…倒れていた男は死んでおり…その体内から、被害者のものと思われる残留物が、消化されずに発見された。
他の部屋にも、人間以外にも、無数の動物達の死骸があった。
この事件は、猟奇的な殺人事件として扱われた。
人や動物を食べたという。
犯人の体は、外的損傷もなく…何かのショック死と見られていた。
唯一現場から無くなったのは、被害者の女性の携帯と…男のスケッチブック…。
しかし、警察がそれに気付くはずがなかった。
「あれは…何だったんだ?」
男の家から離れ…歩く僕に、アルテミアは訊いた。
「人間だったはずだ……いきなり、変幻した」
「まだ…完全ではなかった…。だから、魔の部分だけを、焼き尽くしたが…命を助けることは、できなかった…」
僕は無表情に前を見つめながら、夕方の出勤帰りのサラリーマンや、学生とすれ違っていく。
夕焼けの赤さが、眩しかった。
「あれは…ブルーワールドから来た魔ではなかったな」
アルテミアの言葉に、僕は頷いた。
「一体…何が起こっているんだ?」
僕は、足を止め…沈んでいく太陽と反対に、姿を見せはじめる星に、目をやった。
「宇宙人……」
呟いた僕に、アルテミアが訊いた。
「どうして…宇宙人なんだ?あれは、どう見ても…魔だろ?」
僕はまた歩きだした。
「多分……」
僕は、光が沈み…夜が訪れる瞬間を、凝視した。
「人とは違う…化け物になった自分を…認められずに…宇宙人にしたのだろう」
「それは、なぜだ?」
「この世界に…化け物の居場所はない。だけど…宇宙人なら、帰る場所がある…かもしれない。あの男は、人間でなくなった自分を…肯定する為に…脳内で、別の自分を作り出したのだろう」
「宇宙人って……馬鹿か?」
アルテミアの言葉に、僕はフッと笑った。
「仕方がないよ…。この世界には、もう未開の土地なんてない。人じゃないものがいるとしたら…宇宙くらいさ」
僕はもう一度、空を見た。
「何が…人以外はいないだ。いるだろうが…」
アルテミアは、ため息をついた。
「いないよ」
僕は、空から人々に視線を移した。
「いや…いると思いながらも…いないと安心してる。でないと、人は闇を歩けないよ」
人は、人でなくなった時…どうするのだろうか…。
うまく紛れることができたら………………………………………………………いいのだろうか。