屈服の口付け ~サブミッション・キス~編序幕
我思う故に我あり。
しかし、それは…空虚な言葉だ。
我思うとか言う前に、我と言う我は、誰だ。
ダンテの神曲が言うところの底で、我は目覚めた。
底とは、地獄である。
その地獄の最下層に落ちる者は…もっとも、罪深き罪を犯した人間であった。
その罪とは、裏切りである。
イエス・キリストを殺したのは…裏切り者のユダであった。
信仰の最高位であるイエスを殺したことは…最高の裏切り行為であり、罪であろう。
しかし、キリスト教ではない…人間には、最高の罪になり得るのだろうか。
宗教のいう罪は、いつも矛盾している。
結局…神の教えってやつも、人間が作ったのだ。
「神…。人間…」
闇の底にいた少年は、ゆっくりと目を広げた。
「俺は、何者だ?」
意識がまだはっきりとはしていないが、少年は状況を確認しょうとした。
「何者?そんなことを、気にするような人でしたか?」
「?」
突然後ろから声をかけられて、少年は振り返った。
「地獄でも、学生服とは…相変わらずのセンスですね。先輩」
白い軍服を着た…眼鏡をかけた人間が薄笑いを口許に浮かべながら、姿勢を正して立っていた。
「…」
先輩と言われた少年は、眼鏡をかけた少年を知らなかった。
いや、誰も覚えていなかった。
だからこそ、目覚めたばかりの少年は…訊いた。
「ここは…どこ?」
その質問に、軍服の少年は苦笑した。
「あなたが、望めば…」
その後の言葉を続けようとして、軍服の少年は肩をすくめて、口をつぐんだ。
そんな軍服の少年から興味が失せたのか…学生服の少年は顔を横に向けた。
「…」
そして、無言のまま…軍服の少年を無視するかのように歩き出した。
「成る程。歩は、進めるのか」
軍服の少年は、背を向けるではなく…横切る学生服の少年に目を細めた。
(あなたの弱点は…どんなものでも気にかけ、守ろうとする強さだった)
軍服の少年は、ズボンのポケットに手を突っ込むと、学生服の少年に敢えて、背を向けた。
(見知らぬ他人に向ける…善意からなる無償の行為)
軍服の少年は、もう振り返ることはない。
(それをやめた貴方は…)
にやりと口許を歪めると、天を見上げ、疑問を投げかけた。
(本当に、貴方なのか?)
見上げた天に、一筋の光が昇っていくのがわかった。それは、天から罪人の為に神が垂らした蜘蛛の糸よりも細く、輝いていた。
「人の性格や、思想が変わっても…それは、人そのものが変わったということには、ならないわ」
突然、後ろからの声を聞き、軍服の少年は振り返った。
「彩香…」
自らを示す…その言葉に、分厚いレンズの眼鏡をかけた女は、嬉しそうに微笑んだ。
「だから…彼は、忘れただけよ」
「忘れた?」
女の言葉に、軍服の少年は眉を寄せた。
「そうよ。彼は…」
女はぎゅっと、自らの胸を握り締めると、その強さを和らげるかのように、表情を緩め、呟くように言葉を吐いた。
「あまりにも、多くの人を殺し過ぎたから…私達のことも忘れているのよ。お兄ちゃん」
「…」
軍服の少年は、ゆっくりと溜め息をついた。
「そう思わない?そうでしょ?」
予想外の反応に、女は一歩前に出ると、軍服の少年に詰め寄ろうとした。
しかし、軍服の少年はその動きをかわした。
「あまり多くのか…」
目を瞑り、少し考え込んだ後に、口許を緩めた。
「だが!多くの人ではない。彼が殺したのは…多くの!」
軍服の少年は、天に人差し指を突き上げた。
「それ以外の者達だ!」
「だとしても!彼は、この地獄に堕ちるはずがないわ!裏切りなんて!彼は、もっと酷い地獄に堕ちるべきよ!」
少しヒステリックになる女を、軍服の少年は横目で見つめた。
「魔王が閉じ込められる地獄よりもか?」
「魔王!?」
女は、その言葉に思わず身を震わせた。
「心配しなくていい。魔王はもういない」
軍服の少年は、遠くを見るかのように目を細めた。
「彼は行ったよ。ここよりも厳しい世界へね」
それから、どこにいくともなく歩き出した。
「え」
女は、軍服の男の背中に目をやった。
「そうさ…。現世という地獄に」
呟くようにそう言うと、軍服の男はしばらくしてから、口許に笑みを浮かべた。
「は、は、は、は…」
人影のない路地をただ…逃げるように走るセーラー服の少女。
少女は何かに追われていた。
しかし、何に追われているかはわからなかった。走る前方も、振り向けない後方も闇でおおわれていて、詳しい状況がわからなかった。
気のせいかもしれないと思ったが…そう信じて、足を止めた瞬間、取り返しがつかないことになるという予感が、少女の思考よりも早く足を動かしていた。
「た、助けて…」
かすれた声が、無意識に少女の口から出た時、前方の闇で何かが光った。
「任せて」
闇から、微かな声がした。
少女はその声に何故か、安心した。足を止めることなく、少女は前方の闇の中で浮かび上がった人影のそばを走り抜けた。
「!?」
すれ違う少女の視線の端に、闇の中で光ったものの正体が映った。
それは、指輪だった。
「いくぞ」
通り過ぎた少女を見送ることもせず、闇から飛び出すように姿を見せた少年は、指輪を前方に突きだした。
栗色の髪に、猫のように大きな目が印象的な少年は、学生服に身を包みながら、こう叫んだ。
「モードチェンジ!」
指輪から、目映い光が放たれた。
「は、は、は、は、は…」
少年とすれ違ってから五分後、少女は足を止めた。
先程まで感じていた不安や恐怖感はなくなっていた。
激しい鼓動と息を整えようとした少女は、安堵の溜め息をつこうとした瞬間、どこからか伸びてきた腕に首を掴まれた。
「!」
声を上げる間もなく、少女はそのまま白目を剥いて、意識を失った。
「今日は、これくらいにしておいてね」
腕が伸びてきた方向と反対の方から、少女…いや、幼女が姿を見せた。
「人間は、あんたの食料かもしれないけど…」
幼女は、白目を剥いている少女を見上げた。
「あなたは、この世界の神になるんだろう」
幼女がそう言った瞬間、白目を剥いた少女は片手だけで、数メートル先に投げ捨てられた。
「神とは何だ?」
闇を裂くようように、姿を見せた少年もまた…学生服を着ていた。
「あんたのことよ」
幼女は、投げられた少女をちらりと見た後、学生服の少年に目をやった。
「あんたは、人間ではない。人間ではないから…」
「人間ではないから、神か?」
学生服の少年は、幼女を見下ろした。
「別に、神でも悪魔でもいいわ。あんたは、あたしの親を殺してくれたから」
幼女は、微笑んだ。
「親とは…何だ?」
学生服の少年は、表情を変えない。
「あたしから…すべてを搾取していたものよ」
搾取…。幼女としては難しい言葉を使っているが、少年は気付かない。
「搾取…」
一つ一つの言葉を繰り返すように言う学生服の男の腕に、幼女は抱き付いた。
「いろんなことを教えてあげる。あたしの神様」
ぎゅっと腕を抱き締めると、幼女は学生服の男を促すように歩き出した。
そして、再び…闇の中に消えた。
「モードチェンジ!」
光を切り裂くように、闇の中に姿を見せたのは、ブロンドの髪を靡かせた…美女であった。
「ア、アルテミア…」
ブロンドの美女を見て、闇から染み出した…さらなる漆黒の闇が呟いた。
漆黒の闇は、輪郭を持っており…目を凝らすと、五メートルは越えた象の姿をした人間だった。
いや、人間ではない。
「アルテミア?」
そう言われた美女は、首を傾げた。
「ア、アルテミア!」
象の闇は、美女に襲いかかってきた。
「俺の名は、アルテミアではない。三藤明!」
と美女は叫んでから、慌てて否定した。
「でもない!な、ナイト…え、えっと〜」
美女はいきなり、悩み出した。
その一瞬の隙に、象の闇が巨大な手で美女を掴んだ。
「さ、触るな!」
美女は驚いて、全身に力を込めると、象の指は四方に飛び散った。
「名前は、考え中だ!」
象の手を破壊したことも気付かない美女は改めて、構え直そうとした。
その刹那、象の闇の真ん中に光の線が、走った。
「月影キック」
何かが地面に着地した音がした。
真っ二つになった象の闇は、すぐに消滅した。
「え…」
状況が飲み込めない美女は、象の闇がいた場所に、スラッとした長身の女性が立っているのを目にして、息を飲んだ。
「…」
長身の女性は、美女を見つめた。
その視線の強さに、美女はいたたまれなくなり、ばつの悪さもあり、その場から走り去った。
「追いますか?」
長身の女は、美女を見送りながら、後ろの闇に訊いた。
「今は、やめておこう。彼の個人情報もわかったことだし…」
闇の中から、眼鏡をかけたグレーのスーツの男が姿を見せた。
「三藤明君か」
眼鏡をかけた男は、フッと笑った。
「今の姿は、アルテミアそのものに見えましたが?」
長身の女は、振り返った。
「そうだな。アルテミアに見えたな。君はどう思う?生徒会長」
眼鏡をかけた男の逆質問に、長身の女は溜め息をついた。
「もう生徒会長ではありませんよ。高坂部長」
「そうか…。今は、先生だったな。九鬼先生」
長身の女の名は、九鬼真弓。眼鏡をかけた男の名前は、高坂真。
「まったく地獄から戻ってきたら…現世は、面白いことになっているな」
高坂は含み笑いをもらした。
「アルテミアに変わる前の制服は、大月学園のものでした」
九鬼は、視線を前に戻した。
「それならば、話が早い。舞に頼まなくても、君が探せばいい。何故ならば…君は、そこの教師なのだから」
高坂は、スマホで誰かに連絡を取ろうとしていたが、途中で止めた。
「その件は、了解しましたけど…」
九鬼はもう一度、高坂を見た。
「あなたが受けた依頼と、今のアルテミアは関係がありますか?」
九鬼の質問に、高坂はスマホをスーツの内ポケットに差し込みながら、眉を寄せた。
「簡単には、答えを出せないが…」
数秒考えた後、高坂はこたえた。
「違うだろうな」
少し疑問を含みながら。
「…」
九鬼は無言で、空を見上げた。
「今頃出たか」
高坂も空を見上げた。そこには、月があった。
「まあ〜いい。今回の依頼、君にも手伝って貰うぞ。九鬼先生」
「我が学園の生徒が関わっているとわかったからには、こちらからお願いしますわ」
九鬼は、右手に握り締めていた黒い眼鏡ケースに目を落とした。
「どこまで、あたしの力が通用するかわかりませんけど…相手が彼ならば」
「彼かもわからないよ」
高坂は、歩き出した。
「ただわかっていることは」
そこまで言ってから、高坂は突然走り出した。
「部長?」
九鬼は高坂の行動に驚いたが、遥か先を見てその場の地面を蹴った。
高坂を追い越した九鬼は、数秒後…地面に倒れる少女を発見した。
「やはりな…」
遅れること数分。少女のそばに来た高坂は、スマホを再び取り出した。
「我々の敵は、神…バンパイア」
「く、くそ!」
三藤明は、人通りの多い場所に出る前に、指輪を抜いた。
すると、ブロンドの美女から栗色の髪の少年に戻った。
「折角…ヒーローになれるはずだったのに!」
明は髪をかくと、手の中にある指輪に目をやった。
「でも、なれる!俺は、なれる!この世界のヒーロー!勇者に!」
明は、指輪をぎゅっと握り締め、嬉しそうに身を捩った。
その様子を月に隠れて見ている影が、あった。
その影は、巨大な蝙蝠の翼を広げると、月を越えるかの如く…上空に飛び上がった。