第318話 いざ!行かん
「だからね!中島」
楽しそうに話す男女。ただの帰宅という行動のたった数秒が、とても幸せだった。
「うん?」
中島は、前を歩く1人の学生に気付いた。
「話…聞いてる?」
自分の顔を覗き込む女に、中島は微笑みながら、
「相原…ごめん。ちょっと友達と話があるんだ。ごめん!」
そう告げると、前を歩く学生に向けて走り出した。
「中島!?」
あまりの突然のことに、女は中島の背中に手を伸ばした。しかし、その手が届くことはなかった。
「まったく…何よ!」
手を下ろした後、少しムッとする女の後ろから、声がした。
「理香子?珍しいな。1人なんて…」
「ついさっきまでは、2人でした!」
その声に振り返った理香子は、頬を膨らませて睨んだ。
「う!」
理香子のそんな顔を見て、思わずたじろいだ女に、今度は泣きそうな顔をして、駆け寄る。
「聞いてよ!真弓!」
「うう…。わ、わかった。話を聞こう」
なぜか…後ずさる九鬼を、逃がさないというように、理香子は両手で抱きついた。
「高坂!」
背筋を伸ばし、ぶれることなく歩く高坂に、中島は駆け寄りながら、声をかけた。
「うん?中島か…」
振り返った高坂は、中島の姿を認め、フッと笑った。
「あ、あのさ…」
自分から声をかけておいて、中島は口ごもってしまった。
そんな中島から視線を外すと、高坂はまた前を向き、真っ直ぐに歩き出した。
「…」
中島は隣を歩きながら、鼻の頭を指でかいた。タイミングを外してしまい、中島は言いたいことが言えなくなった。
しばらく、無言で並んで歩いた。
そんな無駄な時間を、高坂から破った。
「まだ…幾多は、捕まっていない。いや…捕まるはずがない」
「え…」
中島は思わず、高坂の顔を見た。真っ直ぐに前だけを見ているように見えて…高坂は、どこも見ていなかった。
それに、高坂の口から幾多という名前が他人のように出るのも、おかしな感じがした。
なぜならば、彼も、かつては…幾多だったからだ。
「…」
やはり何も言えない中島。
そんな中島に気付き、高坂はまたフッと笑い、
「…少しおかしなことを言うが、聞いてくれるか?」
中島の方を向かずに、訊いた。
「う、うん」
中島は頷いた。
高坂は軽く深呼吸をした後、
「幾多流はもう…この世界にいない。やつは、異世界に向かった」
顔をしかめた。
「異世界…」
中島は、呟くように言った。
「…」
高坂は目だけを動かし、中島を見た。
異世界という言葉を聞いても、驚くでもなく…笑うでもない中島の反応に、高坂は考え込んだ。
だけど、すぐにやめた。
考えても仕方がない。
高坂は、普通に話を続けた。
「だから…俺は、異世界に行きたい!あいつを追いたい!多分、あいつはこれからも…多くの人を殺す!俺は、やつを止めなければならない」
「…」
中島は口をつむんだ。呆れている訳ではない。
真剣に考えている。
そんな中島に、高坂はあり得ないことを訊いた。
「異世界に行く方法はないか?」
「!?」
その言葉に、中島は驚き、高坂の目を見つめた。
どうして、そんなことを訊く。
普通ならば…そう言うべきだろう。
しかし、中島は高坂の目を見るだけで、悟った。
こいつは、知っていると。
まだ、漠然とかもしれないが…自分の正体を。
だから、中島は…知っているという前提で、具体的なことは言わずに、口を開いた。
「異世界に、行くには…人間の力では無理だ。神のような力がいる。だけど…そんな力を持っているのは…」
中島の脳裏に、綾子の姿が浮かぶ。
しかし、女神テラである彼女は、人間を嫌っていた。
そんな綾子が、高坂の頼みをきくはずがなかった。
(だとすれば…もう1人)
中島は、後ろを振り返った。
いつのまにか…結構離れてしまった。
高坂も、中島の視線を追うように振り返った。
そこには、じゃれあう…九鬼と理香子がいた。
「月影…」
「え?」
呟くように言った高坂の言葉に、中島は耳を疑った。
「ど、どうして…それを」
「都市伝説の一つとして、結構有名だぞ」
中島の言葉を遮るように、高坂は間髪を入れずに言葉を続けた。
それはまるで…肝心なことを言わさないようにするかのように…。
「高坂…」
そんな高坂の思いを汲み取った中島は、一度口を閉じてから、ゆっくりと頷いた。そして、高坂の目を見つめ、
「明日は、満月だ。深夜…学園の屋上に行けば…何とかなるかもしれない…」
それだけ言うと、足を止めた。
高坂は、そのまま止まることなく歩き続けた。
「ありがとう…」
微かな声で、礼だけを残して。
中島は振り向き、九鬼とともにいる理香子のもとに戻って行った。
次の日の夜。
高坂は、大月学園の時計台に一番近い…西館の屋上に来ていた。
なぜか、鍵はかかっておらず…高坂は簡単に屋上に上がることができた。
扉を開けた時、夜中とは思えない程の眩しい光が、高坂の目を直撃した。
反射的に目をつぶったが、恐る恐る…高坂は、目を開けた。
太陽を直視したくらい眩しいのに、なぜか…痛みを感じなかった。目を開けていられるのだ。
「お前か?異世界…いや、ブルーワールドに行きたいと申しておる者は」
「!?」
高坂は目を見開いた。
月からまるでスポットライトのように、光が落ち…1人の少女を照らしていた。
「き、君は?」
高坂は、その少女に見覚えがあった。中島の隣にいた…女生徒。
その美貌で、有名だった。
(相原…理香子?)
フルネームまで思い出したが、高坂の中の何かが否定した。
(いや…違う)
月明かりの中で、妖艶な笑みを浮かべる女は…少女には見えなかった。
高坂は、一歩前に出た。
「君は、誰だ」
「…」
高坂の言葉にも、女はすぐには答えず、しばらくじっと高坂を見つめていた。
高坂もただ、無言で見つめた。
やがて…女はおもむろに、話し始めた。
「我が名は…イオナ。人は、我を月の女神と呼ぶ」
「月の…女神!?」
高坂はその言葉に、絶句した。しかし、どこか納得していた。
その美しさは、女神という名に相応しい。
イオナは、高坂を見つめ、
「我とあの方の子孫よ。愛しき…人間よ。お前の願いを聞いてやるように、我は言われた。愛しき人にな」
「愛しき人?」
高坂は、眉を寄せた。
イオナはただ…微笑み、
「ブルーワールドへ送ってやることは、可能だ。しかし、ただの人間であるお前では、堪えられまいて」
その後、睫毛を落とした。
「ど、どういう意味だ?」
「…」
イオナは無言になり、しばらく月を見上げた。
そして、一度目を瞑ってから、高坂の方を向いた。
「我に…以前と同じ力はない。さらに…今の我は、完全に目覚めていない」
イオナは自分の手に、目を落とし、
「我が、行くことには…問題はない。人間以上の肉体を持っている者も…堪えられるだろう」
拳を握り締めた後、顔を上げ、高坂を見た。
「お前は、普通の人間…。せめて、今の我が目覚めておれば…ブルーワールドまでの空間を開けた道を作ってやれるのだが…それは、叶わぬ」
そして、屋上から学園を見回し、
「この学園は、ブルーワールドの学園と繋がっておる。しかし、世界間の行き来はできぬ。だが…数十年に一度、偶然繋がることがある。その綻びからなら…負担がかからない」
「それは、いつ繋がる?」
「わからない。なぜならば…それは、あってはならないことだから」
イオナは首を横に振った。
「じゃあ…待てない」
高坂はイナオに近付き、
「何があっても構わない!例え…この体が壊れても」
自らの肩を掴み、小刻みに震えながら握り締めた。
そんな高坂に、イナオは言った。
「壊れるのは、肉体よりも…精神。恐らく、お前は…記憶を失う。向こうの世界に来た目的も、理由も失う。この世界のことも、覚えていない。つまり…ブルーワールドについた時には、お前はすべてを失っているのだ」
「それでも忘れない!俺は、俺であることを忘れても!やるべきことを忘れない!」
高坂は肩から手を離すと拳をつくり、自らの胸を叩いた。
「魂が覚えている!」
叩いた拳が震えていた。
「そうか…」
イナオは頷き、
「今日を逃せば…次の満月まで、我は現れない」
高坂の目を見ながら、訊いた。
「次回にするか?」
「今しかない!」
高坂は叫んだ。拳を突きだし、
「次など、俺にはない」
イナオを睨んだ。
「了解した」
イナオは頷き、突きだした高坂の拳に両手を添えた。
「行くがよい。その世界に」
そして、優しく微笑んだ。
次の瞬間、高坂は背中に柔らかいものを感じた。
「な!」
何もない空間に、染み込んでいくように…その中に高坂の体が消えていく。
「お前の体は一度、この世界と一体化した後、ブルーワールドへと染み出ていく。空間を越える方法の中で…一番辛い方法だ。粒子レベルまで、分解される」
イナオが説明している途中で、高坂の体がなくなっていた。
「それでも…魂が覚えているならば…大した人間だ」
上空にあった満月に、雲がかかった。
その瞬間、イナオは膝を落とし、その場で崩れ落ちた。
いや、落ちることはなかった。
屋上の入り口の横に、身を潜めていた中島が飛び出し、イナオを抱き止めた。
「な、中島!」
気がついたイナオは、中島にもたれていることに気付き、慌てて離れた。
顔を真っ赤にしたそのは、もう…イナオではないことを告げていた。
「お、遅いじゃない!」
理香子は、中島に背を向けると、
「乙女との待ち合わせ場所が、こんなところなんて!どうかしてるわ!」
照れから、怒って見せた。
「ごめん」
中島は頭を下げ、
「ただ…今夜は、月が綺麗だから…一緒に見たくって」
「月?」
理香子は腕を組みながら、空を見上げ…顔をしかめた。
「月なんて…出てないじゃない」
「そうだね…。ごめん」
中島は微笑みながら、謝った。