第268話 空神
「結局…生き残ったか」
入口の町を出て、次の行き先もなく、ふらついていたグレン・アンダーソンは、地球が泣いている声に気付き、足を止めた。
「何だ?」
地面から微かに伝わる揺れよりも、目に映ったおぞましいきのこ雲に、言い知れね恐怖を覚えた。
「あ、あれは…」
震える手を握り締めたグレンには、その恐怖の存在が魔物とは違い…人間の悪意のように思えた。
「ま、また…人間は、やってしまったのか?」
グレンは震える拳を握り締め、目の前に持ってくると、それで自分の頬を殴り付けた。
「落ち着け!」
恐怖を拭おうと、何度か殴っていると、魔物の大群が頭上を通り過ぎていた。
「や、やはりか」
魔物の大群が地上に落とす影に気付き、グレンは空を見上げた。
(お兄ちゃん)
目を見開いたグレンの目には、もう魔物の群れは映っていなかった。
悲しげに微笑む少女が、グレンを見つめていた。
(もう…疲れたの…)
(リタ!)
手を伸ばすグレンとリタと呼ばれた女の間に、紫の翼を持った魔神が立ち塞がった。
(どけ!)
グレンが、横凪ぎに振るった剣を指先で掴んだ。
(妹さんの願いだ。お前は殺さないでほしいと…な!)
魔神が唇の端を歪めた瞬間、グレンの肩から胸にかけて痛みが走り、鮮血が飛び散った。
(しかし)
崩れ落ちるグレンの目に、翼を翻す魔神と連れて行かれるリタの姿が映る。
(もっとも…彼女が、人間じゃなくなれば…どうなりますかね?)
クククと笑いながら、魔神はグレンの前から消えた。
妹とともに…。
「ク、クソ!」
グレンは、視界を邪魔していた涙を拭うと、きのこ雲と魔物達に背を向けて歩き出した。
(俺は…)
グレンは、前方を睨んだ。
(人間を憎んでいる!)
目の前には、聳え立つ十字軍の建物があった。
(だが…俺も人間だ)
矛盾する思い。傭兵として生きるグレンは、人間を憎む気持ちと…同情のような気持ちもあった。
そこに共通するのは、弱さだった。
(お兄ちゃん…)
繭の形をした容器の中で培養液に包まれ…眠る少女。
流した涙も、少女を包む透明の液体に混ざり消えた。
「それにしても…凄いことを考えるものだ」
繭は、一つではなかった。
その中には、それぞれ人間が入っていた。
しかし、中の状態はまちまちだった。表面が溶けているだけでなく、骨だけになっている者もいた。
「人間を滅ぼすのは、我々…魔ではない。人間自身だよ」
繭の中を一つ一つ覗き、感嘆の溜め息をつく魔神の後ろで、紫の翼を畳んで椅子に座っていた魔神が笑った。
「人間同士の憎しみ程、素晴らしいものはない」
「しかしも、その憎しみを集め、新たな女神にするとは!さすがは、ギナム殿!」
興奮気味に話す魔神に、ギナムは首を横に振った。
「その仕組みを創られたのは、王ですよ。私はただ…材料となる人間を選定しただけです」
そして、椅子から立ち上がると、少女の入っている繭に近づいた。
「この人間が…素晴らしい」
繭の表面に手をつけ、
「この中にある液は、人間を溶かし…タンパク質に変えるだけでなく、憎しみという目に見えないものを選定する役目もしている」
にやりと笑った。
「どういう意味ですかな?」
首を傾げた魔神に、ギナムはこたえた。
「培養液に溶ける程度の憎しみならば、意味がないんですよ。溶けることなく、形を保てるなどの強い恨みがないと!つまり!」
「つまり!?」
「この人間の負の感情は、強い!」
「?」
魔神は、さらに首を捻った。理解できなかったようだ。
「そんなに難しくはないですよ」
ギナムは苦笑し、
「ただ…形を保っているだけで、人間のままではありません。目ではわかりませんが、肉体は分解され、再構築されているのですよ。まったく違う存在にね」
繭の中を覗いた。
「あと数日で、この人間の肉体は、完全に変わる!その時…人間は新たな恐怖を知るだろう!ハハハ!」
ギナムは、楽しそうな高笑いした。
「うん?」
海を渡りきったティアナ達は、ホバーバイクを沿岸警備隊に返すと一路、十字軍本部を目指した。
上空では、洋々な式神が飛び回り、核爆弾後の状況を本部に伝えていた。
ティアナはブラックカードを取り出すと、耳に当てた。式神の情報を傍受する為だ。
あまりにも飛び交っている式神が多い為、電波は混乱していたが、伝えていることはほぼ一つだった。
「被害は、爆心地から広がっていないようね。だけど…そばにいた人々は、誰も助かっていないわ」
そう言って、ブラックカードを耳から離したティアナは、溜め息をつき、近付いてくる十字軍本部を睨んだ。
「爆心地に、救助隊は出ていないんですか?」
ティアナの隣を歩くジャスティンが訊いた。
「そうみたい…。騎士団長2人に、魔神を多数確認した為、出撃は見合せたようね」
「腰抜けが!自分達が巻いた種だろうが!」
ジャスティンが毒づくと、後ろにいたクラークが口を開いた。
「放射能が残る場所に、何の防ぐ方法も知らない人間が行ったところで、被爆するだけだ!逆に、被害者が増える」
「だとしても、助けにいくのが、十字軍の仕事だろうが!」
ジャスティンは足を止めると振り返り、クラークに食ってかかった。
「お前は、兵士に死ねといいのか!」
胸ぐらを掴んだジャスティンの腕を、クラークは握り締めた。
「何の後始末もできない兵器ならば!持つんじゃないよ!」
ジャスティンは、クラークを締め上げた。
「クッ!」
クラークは顔をしかめ、
「へ、兵器に、後始末なんて考えてるものがあるか!」
ジャスティンの腕を思い切り、握り締めた。
「そんな人間の考えが!世界を汚すんだ!」
クラークの握力でも、鍛えられたジャスティンの腕はびくともしない。
「気を使っていたら、人間は滅んでいた!」
クラークの絶叫に、ジャスティンもキレた。
「だったら!」
「もういいわ」
ティアナが、2人の間に割って入った。
「どちらも正論。但し…一方は、人間の立場にしか立っていないけども」
ティアナはあえて、2人を見ずに言葉を続けた。
「その議論に答えはでない。だけど…人間だけが、生きている訳ではないわ」
「クソ!」
クラークが腕を離すと、ジャスティンも胸ぐらを掴むのを止めた。
「行くわね」
ティアナはまた、歩き出した。
「あなたは!」
クラークは、遠ざかるティアナの背中に叫んだ。
「人が、滅んでもいいというのですか!巨大な力、扱えない力でも!そんな力を使わないと、人間はやつらに対抗できない!」
その叫びに、ティアナは足を止めた。
「少なくとも…あたしは、人が滅んでいいとは思ってない。だけど…」
ティアナは振り返り、
「人間の都合だけで、破壊してもいいとは思わない」
クラークの目を見つめた。
「な」
クラークは絶句し、ティアナの視線から目を背けた。
「それは…綺麗事だ!人間に、世界を気遣う余裕なんてない…」
ティアナはクラークを見つめながら、悲しく微笑んだ。
「そうね…。でも、中には…無理する人間がいてもいいじゃない」
「先輩!」
ジャスティンが、ティアナに駆け寄った。
「行きましょう」
ティアナを追い越し、先頭を歩き出すジャスティンの背中に、微かな声で、ありがとうとティアナは囁いた。 それから、少し早足で歩き出した。
「ク、クソ!」
クラークの足は、すぐには動かなかった。
しばし…足下を見つめ、項垂れてしまった。
クラークがすぐに追って来れないのをわかっていたジャスティンは、前を見つめながら、後ろに来たティアナに向かって口を開いた。
「あいつは…真面目なんです。人間を守る為に。だけど…必死過ぎて、他を見る余裕がないんですよ。先輩…」
ジャスティンは振り返り、
「あいつほど、正義感が強い人間を…俺は知りません」
「そうね…」
ティアナは頷いた。
「彼ほど…優しい人間は、珍しいと思うわ」
ティアナにはわかっていた。
人の弱さも脆さ…狡賢さも知っているからこその…敢えての言葉を、ティアナもジャスティンも理解していた。
「急ぎましょう」
ジャスティンは前を見つめ、
「あいつなら、来ますから」
走り出した。
「ええ」
ティアナも後に続いた。
十字軍本部内の混乱とは逆に、その外部は静まりかえっていた。
式神による情報採取と近隣の部隊の被害状況の確認をメインにしている為に、本部から出ていく者はいなかった。
その対応の仕方も、ティアナとジャスティンには気にいらなかったが、二発目が撃たれないだけましと思い直した。
「お引き取り下さい」
しかし、そんなティアナとジャスティンを待っていたのは…警備兵による冷たい言葉だった。
「何!?」
絶句するジャスティン。
「只今、部外者を中に入れる余裕はございません」
警備兵の言葉に、ティアナは眉を寄せた。
確かに、ティアナは十字軍には所属していなかった。士官学校もすべての課程を終了していたとはいえ…きちんとした卒業の資格を取らずに、野に出た故に…十字軍の手続きを済ましていなかった。
「だったら!俺は、ここの士官学校の生徒です。証明できます」
学生手帳を取り出したジャスティン。
しかし、警備兵は手帳を見もせずに言い放った。
「先程の爆弾は、辺りに毒を撒き散らします。その毒素は、人に感染する可能性があります」
警備兵はにやりと笑い、
「ですので、今は入れる訳にいきません」
「馬鹿な!あり得ない!」
ティアナは思わず、反論しょうとした。
放射能は病原菌ではない。空気感染したりしない。
その間違いを正そうとしたが、まったく知識のない人間から、一度持った恐怖の印象を拭うことはすぐにはできない。
放射能の検出器でもあればいいが…そんなものを開発する考えも、今のこの世界にはなかった。
「お引き取りを」
警備兵の機械的な対応に、まだ何か言い返そうとしたジャスティンの肩を、ティアナは掴んだ。
「行きましょう」
「先輩!」
まだ引き下がらないジャスティンを強引に、力で移動させた。
「仕方ないわ。出直しましょう」
「先輩!急がないと、中には」
ジャスティンは抵抗しょうとしたが、ティアナの信じられない力から逃れることはできなかった。
「わかっている」
小声でそう言うと、ティアナはジャスティンを引っ張って、数メートル移動した。
その様子を見つめていた警備兵が一歩下がると、壁の模様をした結界にできた入口がなくなった。
「先輩!」
ジャスティンは、やっと力が弱まったティアナの腕を払い除けた。
「わかっているわ。だけどね。正当法で無理なら…他にも方法が」
と、ティアナがいいかけた時、頭上から何かが落ちてきた。
「危ない!」
感覚で危険に気付いたティアナがジャスティンに飛び付き、抱き締めると、地に伏せた。
「先輩!?」
突然の行動に、訳がわからないジャスティンのすぐそばに、無数の羽のついた物体が落ちてきた。
「え」
顔を上げると、回転する2つ物体が目の前に旋回しており、落ちてきたものから2人を守っていた。
ティアナが立ち上がると、その物体はトンファーに変わった。
「こ、これは!?」
ジャスティンも立ち上がった。
空から落ちてきたのは、無数の式神だった。
「式神が、どうして」
ジャスティンが周りを見回している間に、式神達はただの呪文を書いた紙に戻った。
「どうやら…」
ティアナは、十字軍本部の方に顔を向け…目を細めた。
「始まったようね」
「え!」
ジャスティンは目を疑った。
半径数キロはある十字軍本部を囲む…結界が消えていたのだ。
剥き出しになった本部の建物を見て、ティアナはトンファーを持つ手に力を込めた。
マジックショック。
後にそう言われる現象。
魔王ライにより、人間が完全に魔力を使えなくなった瞬間だった。
世界中で、人々を守る結界が消えたのだ。
その日…多くの人が死んだ。
なす術もなく…。