第242話 偽日
走っていた。
息を切らしながら、そんなに急ぐ理由なんてないのに。
でも、それがとても重要に思えた。
あの人が前にいたから…。
「おはよう!」
その声に振り返り、一番最初の笑顔を見ること。
それが、一番大切だった。
一番大切で、一番幸せだった…
偽りの日々。
「おはよう」
振り返って笑顔を見せる中島の顔を確認して、あたしは顔の中で、よしと頷いた。
中島の表情が曇ってなければ、世界が平和に思えた。
中島は挨拶を返した後、少しあたしを見つめてから、微笑みながら前を向いた。
一緒に歩くのは、恥ずかしい。
だから、少し後ろを歩く。
恋人には見えないだろう。
いや、まだ…恋人にはなっていないんだけど…。
中島の背中を見ているだけで、幸せになれた。
目の前にいるだけで。
「おはよう。理香子」
ぼおっと中島の背中を見つめていたら、隣に誰かが並んだ。
「あっ…えっ!おはよう」
自分の世界に入っていたあたしは、すぐに気づかなかった。
「相変わらず…朝から軽くストーカーモードね」
隣で歩く女子高生が前を見て、ため息をついた。
「そ、そんなことは…」
あたしは改めて隣を見て、驚きの声を上げた。
「え?里奈!?お、おはよう」
目を丸くするあたしに、結城里奈は呆れた。
「誰かわからずに、挨拶したのかよ!」
「あははは」
笑ってごまかそうとするあたしに、里奈は頭を抑え、
「天下の相原理香子様が、あんな冴えない男が気になるとは…学園七不思議の一つだよ」
「冴えないなんて!そんなことはないわよ!」
「恋愛モードを外してみろ。普通より、ちょっと以下…」
と、里奈は言ってから、唾を飲み込んだ。
物凄い形相で、あたしが睨んでいたからだ。
「も、申し訳ございません」
なぜか丁寧に謝った里奈から、フンとそっぽを向くと、あたしはまた中島の背中を見つめた。
(そうよ!中島の良さがわかるのは、あたしだけなんだから!みんな、気づかないのよね…)
ここまで考えて、あたしははっとした。
(も、もし〜みんなが中島の魅力に気付いたら…)
あたしの頭に、女に囲まれる中島の様子が浮かぶ。
(それは、駄目!)
手を伸ばしても、届かない距離にいる中島。
(いやあああ!)
両手で頭を押さえ、声には出さなかったけど、身悶えるあたしを見て、里奈はため息をついた。
「おはよう!」
里奈の横に、後ろから夏希が駆け寄ってきた。
少し離れて、携帯を打っている蒔絵がいた。
「おはよう…」
ため息とともに、挨拶をする里奈。
「あら?理香子…何してるの?」
まだ妄想と格闘しているあたしを指差した夏希に、里奈は言った。
「いつもの発作」
「へえ〜」
夏希はすぐに前を向き、納得した。
「そんなにいいかね」
首を傾げる里奈に、
「蓼食う虫も好き好きってやよ」
結構失礼なことを言う夏希。
「そういうもんかね」
なんか納得できない里奈の前を、突然誰かが横切った。
「理香子様!」
まるでフライングクロスチョップを喰らわすように、理香子に抱きついたのは、竜田桃子であった。
「また…ややこしいのが来た」
こめかみを、人差し指で押さえる里奈。
「!?」
反射的に膝蹴りで、桃子を撃墜したあたしは、ここでやっと妄想から戻ってきた。
背中に、悪寒が走ったからだ。
「ああ〜」
膝蹴りを喰らった桃子は、自分の頬を撫でながら、
「理香子様の膝が〜あたしの頬に…」
うっとりした表情を浮かべた。
「ああ〜やってられんわ」
里奈は、歩く速度を速めた。
「女子高か!ここは!」
「まあ〜女子高が、みんな…こんなのとは思えないけどね」
夏希は、肩をすくめた。
「ち、ちょっと!」
あたしも慌てて、里奈と夏希の後を追おうとしたが…そうしたら、中島との距離が縮まる。
それは、まずい。
中島とあたしとの距離感の黄金率が崩れる。
「理香子様!」
速度を上げれないあたしの腕に、桃子が腕を絡めてきた。
「男なんて!汚れてます!女同士の方が、絶対!いいですよ!」
と言って、あたしの腕に胸を押しつけてくる。
(何やってんだ!こいつは!)
悪寒は、全身に広がっていた。
「女同士の方が、美しいですよお〜」
妙に猫なで声を出す桃子の言葉を、背中で聞きながら…里奈は顔をしかめた。
「そうか〜」
「女同士は、女同士で…どろどろしてますよ」
にこにこと答える夏希に、
「あんた…。誰のこと言ってるの?」
里奈が訊いた。
「一般論よ。一般論」
少し誤魔化すようなこたえた夏希を、里奈は横目でちらりと見た後、視線を前に戻した。
「一般論ねえ…」
「そうよ」
夏希は頷いた。
そんな話をしている間に、5人は正門についた。
門の前では、週一回恒例の持ち物検査が行われていた。
教師数人と、数を捌く為に生徒会が駆り出されていた。
まあ…それの方が都合がいいのだけど。
中島は、教師の方に並んだが、あたし達は生徒会の方に向かった。
桃子の手を振りほどくと、あたしは走って列に並んだ。
「理香子様!」
桃子が不満そうに、頬を膨らませたが、無視した。
あたしの後ろに、里奈と夏希…少し他の生徒を挟んで、桃子が並んだ。
「はい!次の方どうぞ」
生徒会の列の中でも、一番てきぱきとこなしている列に並んだ為に、自分の番になるのが早い。
「中を開いてくださいね」
その言葉に、あたしはさっと鞄を開け、中身を見せた。
そこには、プラチナの乙女ケースがあった。
「はい。大丈夫です。次の方、どうぞ」
あたしは、鞄を閉めた。
持ち物検査なんて、楽勝だった。
なぜならば、チェックしているのは…生徒会長九鬼真弓だからだ。
里奈と夏希も、問題なく通れた。
だけど、
「これは、没収します」
桃子だけは通れなかった。
「学校には、必要ありませんから」
九鬼の言葉に、桃子は肩を落とした。
「あたしの盗聴器が…」
何に使うつもりだったのだろうか…。
「理香子様の机に、取り付ける予定だったのに…」
(げ!)
桃子のあり得ない言葉に、あたしの全身に冷や汗が流れた。
(恐ろしい…)
そんな子が、同じ月影だと思うと…あたしは、ぞっとした。
なのに、
「桃子らしいわ」
「うん」
と納得する里奈と夏希。
(おい!おい!)
教室につくと、あたしは真っ先に自分の机や椅子をチェックした。
もしかしたら、もうついてるかもと思ったが、さすがになかった。
だけど…あるものが、あたしの椅子の下につけられていた。
縁結びである。
あたしは急いで、それを剥がすと、廊下の窓からあたしを見つめていた桃子に、投げつけた。
「見つかっちゃった!」
舌を出す桃子の頭に、縁結びは当たった。
桃子とはクラスが違う。
なのに、いつのまに。
あたしが、桃子を睨んでいると、 隣の席についた里奈が呟くように言った。
「ストーカー同士の争いか…」
それを聞いて、あたしは里奈を睨んだ。
「ストーカーじゃない!」
なのに、廊下にいる桃子は、頷いた。
「あたしは…理香子様限定のストーカーです」
認めた桃子に、絶句していると、あたしの前を蒔絵が通った。
「まあ〜頑張れや」
携帯を見ながら、あたしの後ろに座った。
「頑張りません!」
そんなやり取りを、あたしはいつもしていた。
同じ仲間達と、変わらない日常として。